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COMPLEX TRIP!  作者: Tm
第三章 佐藤かえで ~過去編~
26/37

  佐藤かえでと月夜の新芽

 少なくとも、一年くらいは楽しかった。色んなことをして、色んなことを知って、今までの何倍も充実していた。不都合や戸惑いはあれど、それでもどこか満たされていた。きっと一時くらいは幸福ってやつを感じていたかもしれない。まやかしみたいなフワフワとした、理想の一年だった、はず。多分。





 家族ごっこを始めて二度目の夏。ちょうど、一条さんたちに初めて会ったあの日と同じ頃。あのときは夏の暑さも吹き飛ぶくらい衝撃的なことが多かった。そして今年は初夏のうちから既に記録的な猛暑となる模様だなんだと言われ始めている。それを証明するかのように蝉がわんわんと声をあげていた夏。

 その来る夏休み直前、終業式の日に呼び出された。

 ここまでくると慣れたもので、私も特に気負うこともなくはいはいと呼ばれるがままに体育館の裏へと向かう。はてさてその心は。熱烈な愛の告白。違う。小生意気な佐藤さんに一学期分のお礼参り。違う。一条新君と一緒に住んでいるという噂の佐藤さんにちょっと言いたいこと、もしくは聞きたいことがあって、きゃっ恥ずかしい。そう、それ。大当たり。

 既に春の終わりには全校に広まっていた一条新情報、一月もすればそれは確信に変わりネタの裏づけ、もう一月もすれば今度は未来のお姉さんに十人十色のアピールタイム、そして一条新の新鮮もぎたての情報争奪戦。今ココ。一番最初は『新君って彼女いるの?』だっけかな。その次が『好きな人いるの?』そんでもって『もしかして二人って付き合ってないよねえ?』何故にここだけ否定形。

 最近の質問のトレンドは『新君っておやすみの日はお家にいるの?』おいおいその質問は家に押しかけること前提で聞いているのが見え見えなんですが解ってて聞いてるんですかね。そんな見え見えの質問に同じ家に住む私が正確な情報を与えると本気で思って聞いてるんですかね。何より迷惑って言葉ご存知ですかねえ。

 諸々突っ込みごとはあれど、答えはテンプレの如く用意してあるので慌てるべからず。むしろ最近はもっぱら呼び出した側よりリラックス状態の義姉ですよ。今日は男だろうか女だろうか。もはや先輩後輩同級生のくくりなど無い。しかも今日は私に会える、もとい新さんの情報を引き出す機会を得る最終日。旧知の友人でなければ夏休み間は一切連絡が取れない、やばい。と感じた方々のアポによりわたくしこの後多忙を極めておりますのよ。もてる女は辛い。

 しかし何故そんな呼び出しにいちいち答えているかというと一度ぶっちしたときストーカーまがいに何度も呼び出しを食らったためこうしていちいちわたくし自ら赴いているのであります。何故呼び出すほうに固執するのか皆さん。あ、ちなみに旧知の友人だろうが生き別れた双子の兄だろうがこの件に関しましては他人様と同列に扱う所存なのはクラスメイト各位にクチが酸っぱくなるほど伝えたために最近ではあからさまにアピールしてくる人は少ない。それでもいないわけではないけれど。

 そして、はい記念すべき本日第一号さん。同学年他クラス出席番号不明吉本さんよりのお便り。

『体育館裏で待ってます』

 わお、なんて清清しいほど簡潔なの。そしてこの面の皮の厚さに感心するほどの問答無用さ加減。果たし状に匹敵するパンチ力があると見た。これで素直に赴く佐藤さんって本当いい子よね。うんうん全くそう思うよ惚れ直しちゃうくらいにね。やだもうさりげなく告白だなんてジョンったら大胆ね。

 ジョンって誰よと思いつつ脳内の即席座談会が終了した頃、ちょうどその体育館裏とやらにたどり着いた。待っていたのは眼鏡の小柄な女の子。こんな優等生タイプまで新さんに懸想しているのか、とほんの少しなんとも言えないものを感じましたよお姉さん。

「あの、来てくれてありがとう一条さん」

「いや別に慣れてるから。で、用って言うのは」

「あ、うん、渡したいものがあって。でも一条さんのクラスに行ったらなんだかちょっと、入りづらくって。ごめんね。なんか、呼び出しちゃって」

 小動物みたいな子だ。きょどきょどしながら言い訳するみたいにまくし立てている。まあ、言っていることはわかるけどね。どうも新さんムードがクラス中に充満しているのか、私に用があると言って入ってくる輩には容赦ない視線が浴びせられる。おかしいよね。新さんと会ったことも喋ったこともないっていうのに。まあ、そんなつっこみ今更でござーますが。

 しかし渡したいものって言うと、ラブレターの類だろうか。健気な少女が初恋に胸を震わせ恋心揺らぐペン先で想いの丈を綴った手紙、とかですか。なにやら昭和の香りに惹かれるものがありますが、ご愁傷様でございます。生憎当社では贈り物の類は受け取り不可となっております。ご自身で渡せるものなら渡してやってください。

 コンマの速度でテンプレを思い浮かべつつ、顔は申し訳なさそうに眉尻を下げた。謙虚は大事。

「あの、悪いんだけど新へ届け物とかそういうのは」

「え、違うの! これ、一条さんに渡すものなの」

「へ?」

 意外や意外、予想だにしなかった切り替えしに阿呆面を晒す羽目になってしまった。私に、って。見ると、両手で白い封筒を差し出している。便箋とかが入っているやつじゃなくて、なんていうか、事務的な真っ白い縦長の封筒。何事かと見れば、彼女自身も戸惑っているように目を泳がせた。

「あの、私もよく知らないの。とにかく渡してこいって」

「いや、誰から?」

「お父さん」

 お父さんだと? 何を言っているのだろうか彼女は。勿論私には彼女のお父さんと面識などない。というか彼女でさえもほぼ初対面なのに、なにがどうして彼女のお父さんから手紙を預からねばならないのか。というかそれを知っているだろうに何故に私が受け取るという期待をもてるのだろうか。この子の面の皮の厚さはプレート並なの? 分厚いってレベルじゃないんですけど。

 なにやら少し必死な様子で差し出してくるけど、いまいち状況が飲み込めないので受け取るわけにもいかない。なんだってんだろう、こんなこと今までに無かったのに。

「あのさあ、私、吉本さん? のお父さんにお手紙貰う覚えないんだけど」

「あの、違うの。よくわかんないんだけどお父さんも、誰かから預かったらしくて、どうしても渡さないといけないものらしくて」

 なんだかしどろもどろに弁明しようとしてるけど、益々怪しい。誰かって誰よ。余計に疑惑が深まってきたんですけど。なんで私がそんな見も知らぬ人からの手紙を預からなきゃならないわけ。

「でも、私知らない誰かから手紙貰う覚えなんてないし、そういうのはちょっと」

 悪いけど、と断ろうとしたところで、彼女が動いた。手紙を持ったまま、ぐっと詰め寄ってくる。近い近い近すぎるって。

「お願い! 大事なものらしいの。受け取ってくれるだけでいいから!」

 てことは貴女も、大事なものだから、渡すだけでいいからと、今のような感じでお父さんに詰め寄られたわけね。

 しかしもってその経緯が読めたところで差出人がわからないとなるとうんとも言えず。困った。得体の知れないもの受け取ってもどうしようもないし。カミソリ入ってたらやだし。断っちゃおう、と口を開きかけたところでやはり、先手を打たれた。

「じゃあお願いね! 話はそれだけなの。さよなら!」

 矢継ぎ早に言うと私にそれを勢いよく押し付け、目にも留まらぬ素早さで走って行ってしまった。おいおい意外と運動タイプかい。だったら眼鏡かけるな。

 全国の眼鏡使用者に全力で喧嘩を売る偏見を胸に抱きつつ、同じく胸に抱くこととなった一通の手紙を見下ろす。不覚ながらその怪しさ満点の手紙を受け取ってしまい、残された私は一人体育館裏で自身の詰めの甘さを悔いることとなってしまった。





 心は、目には見えない。手にとって触ることが出来なければ、匂いもないし、味も無い。もちろん音もない。厄介なことに、そこにあるかどうかすら解らない。でも、見れないわけじゃないし、感じられないわけじゃない。時に、目に見えること以上のものがそこに在ったりもする。

 さて。それなのに気付けなかったのはどうしてなんだろうと考える。考えると、一つの結論に至る。ああ、そういうこと。見えなかったわけじゃないの。見なかったの。わたし。見ようと、しなかったの。私は。私だけ。

 そういうこと。




 それはそこにあっても、私は常に単純な事実だけを拾った。だから目の前にあるものを拾い上げてみるなら、そう、大変そうだなっていう他人事な感情くらい。それだけだった。

 もっと言うなら、お仕事かしら。更に言えば、電気くらいつけようよ。ついでに付け加えるなら、何このデジャヴ。まあ一口に言うと、例によって翌日が休みで夜更かしであーでこうで以下略です。つまり夜も更ける頃、リビングに居たわけだ。新さんのお父さん、もとい未来のマイファーザーが。

 二度目ともなるとほぼ一年経っていることもあり、それほどの気まずさは無かった。いや、驚いたけどね。一度も二度も関係なく普通にびびったけどね。毎度思うけれど、どうしてこの人は電気をつけないんだろう。スイッチも見当たらないほど耄碌してるの? それとも蛍光灯が嫌いなの? どんな原始人?

 いや、冗談はさておいても、今回は少し様子が違った。私が降りてきたことに気付いていないのか、以前と同じくソファに腰を下ろしなにやら難しい顔で書類のようなものを見ていた。テーブルの上には郵便物と思わしきものが、開封された状態で置いてある。――手紙? それとも、仕事関係のなにかだろうか。暗いのでよくは見えないんだけど、こころなしいつもの穏やかな表情などではなく、なにやら眉間に皺を寄せて手元のそれを睨み付けるように見つめている。

 なんなんだろう。ただそのまま黙っているのも妙な気がしたので、気付かせるためにもリビングの照明をつけた。途端に、一条さんははっとしたように顔を上げた。

「ああ、楓ちゃんか」

 顔を上げた一条さんは私を目に留めると、ほっとしたような、それでもまだ懸念があるような、微妙な表情を見せる。何事かと伺う余裕も無くすぐさまそれも打ち消すように微笑んだけど。

 なんだかなあ。大人の事情というやつだろう。首をつっこむのもどうかと思うので、私も軽く会釈を返すだけに留めておいた。

「眠れないの?」

 この人は覚えていないのだろうか。去年も同じ質問をしたことを。

「いえ。喉が……あ、えっと、水いります、か?」

「ああ。うん、お願いしようかな」

 そこでやっと一条さんも私の抱く既視感に気付いたのか、苦笑しつつ頷いた。

 それにしてもどうしてこう妙なタイミングで鉢合わせちゃうんだろう。去年ほど苦手意識はないにせよ、やっぱり深夜に二人きりは緊張するよ。しかもなんか誤魔化されたけどさっき難しい顔してたし。機嫌が悪そうだったらさっと渡してさっと去ろう。そうしよう。そうでなくてもそうするつもりだったけどね。

 今度はクールに「お疲れ様でした」と言い切ろう、と思いつつ水のボトルと麦茶のボトルを出す。目を走らせればすぐに見つかる私専用のコップと、一条さん専用のコップ。全員分揃っているそれは透明で型は同じだけど、色が一人ひとり違う。私のは、緑色。一条さんのは、オレンジ色。ついでに言うとお母さんのは水色で、新さんのはピンク色。

 いつかのときに一条さんがニコニコご機嫌な様子でそれを買ってきて、その日の夜は四色のうち好きな色を巡り争奪戦になった。本人のイメージと相当誤差のある配色は、公平を期してくじによる選抜のため。一番人気だった水色は本当は一条さんに当たったんだけど、水色を欲しがっていたお母さんとくじを交換してあげていた。私も本当は新さんとくじを交換しようかと思ったんだけど、新さんがピンク所持というのもなかなか斬新な試みだったためにあえて緑に甘んじた。これも新緑の色みたいで綺麗だしね。

 お母さんは一条さんの買ってきたそのコップをひどく喜んで、皆が揃っているときには必ずそのコップを使うようになった。とても大事にしていた。そんなお母さんを見る一条さんも、とても嬉しそうだった。きっとお母さんの喜ぶ顔が見たかったのだろう。

 今更ながらにそんな事を思い出して、順当に家族ごっこが進んでいることを思い知る。あまりに順調。

 さて、不思議なことに。

 そのコップたちはいずれも欠けることなくそこにあり、また私の手の内にある。割ろうと思えば割れる。高いコップは割れ方も豪勢だ。これでもかと粉々に砕け散る。けれど、未だ私はその誘惑に沿わずそれを愛用している。麦茶の味など、どのコップに入れたところで麦茶以外のなにものでもないというのに。

「楓ちゃん?」

「あ、はい。今持っていきます」

 催促したというよりも、手が止まったまま呆ける私を心配するように声がかかった。そりゃあキッチンで黙り込まれたら少々怖いものがある。何か仕込んでるんじゃないだろうかと疑われても仕方が無い。って私は暗殺者かい。

 たかがコップ。戯言はおよし、楓。されどコップと理性が二の句を告げる前に、私は二つのコップを両手に掲げ一条さんの方へと向かった。

 ――あら。お手紙がしまわれている。

「どうぞ」

「ありがとう。あ、楓ちゃん。今、眠い?」

「いえ、ああ、はい……」

 一条さんの言わんとしていることが解るのが辛い。くそう先手を打たれた。間髪いれずハイって答えてたら私の勝ちだったのに。何を競っているのか悔しさをかみ締めつつ、観念して私は一条さんの前のソファに腰掛ける。

 あ、そういえば『お疲れ様です』って言うの忘れた。いや、いいよ、いい。こんなオヤジ。もういいよそんなこと言ってやらなくても。なんだか投げやりな気持ちになってしまい、どうでもよくなった。去年は頭の先からつま先まで緊張一色だったのに。全く、いいんだか悪いんだか。

「ふふ。なんだか思い出すねえ、去年のこと」

「はあ。さいですか」

 一瞬、『なんのことでしょう?』とか言ってやろうと思ったけど、掘り下げられるのがオチだから止めた。もういい加減一年も経てば解るよこの人のパターンなんか。まあ、解っているのは私だけではなく、それはこの人も同じこと。私の性格も既に被る毛皮の内側ごと把握しているらしく、それごと楽しんでいる節がある。ほら、ニコニコニコニコ。普段無表情の新さんとは大違いだ。

「ご機嫌ですね」

 そりゃあ皮肉ですよ。一年経って皮肉も言えるようになりました。わあ進歩。

 ――が、そうは問屋がおろさない、らしい。

「解る? いやあ、いいことあったんだ。聞きたい?」

 ――別に。どうせお母さん関連のことだろう。いい加減耐性ついてきた自分も悲しいわ、こんちくしょうめ。

 是とも否とも言えず、私はだんまりを決め込んだ。されど一条さんは私の黒い呟きを知ってかしらずか、勝手に話し始める。

「さっきさ、新の部屋に行ったんだ。仕事終わりに子供の寝顔見るの、実は憧れていてね。父親っぽいでしょ?」

「はあ……」

 ああ、珍しく新さん関連か。

 どうとも言えず生返事を返す私に、けれど一条さんはさも嬉しそうに微笑んで頷き返す。しまりが無いって言うとアレだけど、蕩けるみたいに嬉しそうに笑うものだから、こっちまで毒気を抜かれそう。

 そんなに嬉しそうにしてるってことは、見れたのかな。新さんの寝顔。うーん、私もちょっと見てみたい気がする。何故か羨ましいぞ。

「それで、見れたんですか」

「うん、見れなかった」

 見れなかったんかい。清清しい笑顔で言うな。何故に聞いた私ががっかり感を味わわねばならんのですか。

「いやあ、扉を開けるまでは良かったんだけどね? 足音立てずに近付いたはずなのに、一メートル手前で起きてさ。『起きてたのか』って聞いたら、『気配で起きた』って。あの子何者なんだろうねえ。忍者に育てた覚えは無いんだけど。ものすごい目で睨まれちゃったよ、ははは。あー怖かった」

 いや、はははって笑い事じゃないんですけど。貴方の息子でしょ。気配で起きるって日常をどんな修羅道に染められてるの。怖いほど睨まれるってそれ嫌われてませんかね。笑ってていいんですかね。ていうか貴方の喜びの基準が解らないんですけど、一体どの辺りで蕩けるような笑みを浮かべるに至ったんでしょうかね。ことによっては私もドン引きしますよ。もうしてますけどね。

「良かったですねえー」

 新さんが。寝顔を覗き込まれずに済んで。私も嫌だ。絶対いやだ。想像だけでもいやだ。さすがに私にまではしないだろうけど。

 しかしさっきは難しい顔をしていたくせに、一体なんなのかこの人は。表情と感情が一致しないって軽く問題じゃあありませんかね一条さん。絶対笑いながら怒るタイプだこの人。うわあ私と一緒。嬉しくないですマジで。

「楓ちゃんは?」

「へ?」

「うん、楓ちゃんはどうかなって。最近、どう? ここの生活には、そろそろ慣れてきた?」

 どう、って。言われても。なに、いきなり。

 チラッと見ると、一条さんは自分で聞いてきたくせに私の方を向いていなかった。水がまだ半分入ったままのコップを、窓から射す月明かりに掲げて透かし見ている。その頬に当たる硝子のオレンジ。ちらり、ちらりと、グラスを揺らすたびに一条さんの頬を掠める。

 それがなんだか楽しそうで、思わず私も、月を見上げた。

 今日は満月。明日は晴れか。知らず知らずのうちに苦笑が、漏れる。はいはい。解ってますよ。明日の天気を気にするくらいの余裕なんて、もうとっくに出来上がってます。解ってるんでしょう。貴方だって。

「まあ、楽しいです。毎日。新さんも、いい子だし。……一条さんも、親切ですし」

 それは、そう。日々の優しさが、思いやりが、ちらりと覗くんだもの。嫌とはいえない。嫌とは思えない。そうしたのは一条さん、貴方と、お母さん。それに、新さんも。解ってるんでしょう。聞かなくたって、解るでしょうに。

 何かに観念したような、不思議な気持ちで答えると、一条さんの手が止まった。目はじっとそのまま、何かを見つめるように押し黙って、そしてふっと微笑む。力を抜くように、柔らかく。

「そう。それはよかった。……いいね。本当に。いいことだ」

 そうしみじみと呟いて、一条さんは残りの水を煽る。空になったそれをまだ両手で握りこむように持って、膝の上に肘を突くようにした。一条さんは、ひどく穏やかな顔を浮かべていた。

「僕も楽しいよ。君たちのおかげで。この歳になっても、まだまだ知らないことが沢山ある。これからしたいことも沢山ある。それをね、君たちに教えてもらった。僕も、新も」

「……普通のことしか、していません」

「うん。普通だった。でもそれが一番必要だったんだ。普通が一番大事で、必要だったってことなんだ。きっとね」

 噛み締めるように言うその言葉に、私はうまい返事を返せなかった。

 解るようで、解らない。だって私もお母さんも、何もしなかった。ただ普通に生活していただけ。一条さん達はたぶん、それに合わせてくれた。不都合や不自由を感じたことだってあっただろうに、文句の一つも言わなかった。だから誰かのお陰というなら、一条さんや新さんのおかげで私たちは普通の生活が出来た、のに。それは一体一条さんたちに、何をもたらしたのだろう。その普通の中の一体なにが、一条さんたちに必要だったんだろう。

 そんな風に、問いかけるように見ていたのかもしれない。一条さんは私を見ると、ふっと苦笑いを浮かべた。

「情けない話があるんだ。聞く?」

「……はい」

 一年前の私ならどう答えただろう。解らないけれど、今の私は、是と答える。だって、知りたいから。知りたいと、思えるから。

「僕はね、あの頃新の父親じゃなかった。他人よりも遠い、距離があった」

「あの頃?」

「うん。あの頃」

 『あの頃』を言う気がないのか、一条さんはただ頷いた。

「どうしていいか解らなかった。あの子がなにを考えているか、そもそもどんな子なのか、なにが嫌いか好きかも解らない。どう扱っていいかわからない。僕は横に立つあの子にどう接するべきかすら、解らなかった」

 その頃を思い出しているのか、一条さんの言葉には苦々しいものが滲んでいた。悔いて、いる。もしかしたら、そうなのかもしれない。

「そんなときだった。君たち親子に出会った。僕はそのとき思ったんだ」

 一目惚れと言った、あの時の話のことだろうか。沈んだ気持ちが浮上するように、一条さんの眼差しに光が宿る。

「『ああこんな親子になりたい。そうだ、真似してみよう!』ってね」

「え」

 ――真似って。

 思わず呆ける私を見て、可笑しそうに一条さんは笑った。

「はは。つまりお手本にしたんだよ。君たちを」

「お手本、ですか」

「うん。全くいいお手本だった。何しろ、妬けるくらい仲良しだから」

 妬いたりしてたんですか貴方が。意外な発言の連発に開いた口が塞がらない。大体、真似って。新さんは娘じゃないのに安易に真似していいの、それ。

「そ、それでうまくいったんですか」

「うん。なんか微妙に訝られたね。避けられたとも言うかな」

 やっぱり。それでまた清清しく言うなってば。ていうかうまくいかなかったんならいいお手本じゃないじゃん。

「それで、どうしたんですか」

「うーん、途方にくれたね。なにしろ僕にも初の試みだったし。情けないことに、僕は失敗が怖くて、びくびく尻尾を巻いていた。でも、救世主が現れた。ヒーロー、でもいいけど」

 ――きゅうせいしゅ? ひーろー?

 ものものしいな。誰よ。

「誰ですか、それ」

 思わず聞くと、にやっと笑った。にやっと。あの一条さんが。

「誰かなあ。誰だろうねえ」

 ニヤニヤしながら、訳知り顔でほのめかす。なに、これ、そこはかとなくイラっとする。そこまで言うなら言えよ。言おうよ。焦らすなよ。

「まあ、そのお陰で結果オーライ。今じゃ少しは父親らしいこともさせてくれるようになった」

 言わんのかい。くっそう、まだニヤニヤしてる。誰だ、誰なんだ。救世主? 誰かが何かしたってことだよね。一条さん、じゃないし。自分のこと言わないよね。もしかして私、かお母さん、なのかな。いや、でも、私何もしてないし、じゃあお母さんは――あっ。

 ふと、思い浮かんだかの日の出来事。新さんが笑顔を見せたあの朝。そういえばあれくらいの頃から、新さんの素直さもアップしていた気がする。おいおい、じゃあ、救世主ってお母さんのことか。なに、結局のろけ? うわあイラっとくる。

「良かったですねえ」

「うん。ありがとう」

 皮肉二割増で言うと、同じく二割増の笑顔を返される。ああ、もう、バカップルめ。

「それはお母さんに言ってあげてください。私は、特に、何も、していませんので。はい」

 すいませんねえボケーっとしてまして。どうせ自分のことばっかりですよ。ええ、ええ、知りませんよそちらさんの親子問題なんて。知るもんですか。

 半ば自棄になって強調しながら言うと、一条さんは何故だか目を丸くした。なによ、文句あんの。

「楓ちゃん?」

「はい」

「何もしてない、って」

「何もしていませんが何か」

 うるっさいなもー何もしてないしてないってして欲しいなら金をくれ! って違う違うそうじゃなくて、とにかく、文句を言われる筋合いはありませんよってことですよ。中学生になに期待してんの。やったとしても廃品回収とか空き缶拾いとかその程度ですよ。いいでしょそれくらいで。全くもう近頃の日本人ときたら無償化だのフリーだのうっさいんじゃ。って私はいつの時代の人間だ。ああもう自己つっこみも忙しい。

「気付いてないの」

「いや気付きましたよ?」

「いや、解ってないんじゃ」

「いや解りましたよ」

 なんなの? 鈍感扱いしないでくれるお母さんじゃあるまいし。あ、お母さん御免。でもそこがいいところだから許してね。うん。

「くっ」

 く? 俯いた一条さん。小首を傾げたその途端、弾けるように笑い出した。

「あっはっはっは。いやー、面白い。楓ちゃんってやっぱり面白いよねえ。うん、いい逸材だ」

 ああ、来たよこれ。自己満発言。コマンド、自分で言って自分で笑う。効果、相手のテンションをがた落ちさせる。こうかはばつぐんですよコノヤロー。

「ああ可笑しい。これは苦労するなあきっと、ははは。ああ楽しみ」

「はあ。それは良かったですね」

 相当可笑しいのか、笑いをかみ締めながら右手で額を覆って肩を震わせている。完全なる棒読みで返してもちっとも屈辱感は拭えない。なーにがそんなにおかしいんだと問い詰めたい。小一時間ほど問い詰めたい。そんな不機嫌真っ盛りの私を、まだ笑いが抜けきらないのか笑みを滲ませたままの一条さんがちらりと目を向けた。

「本当だよ。僕も、君と一緒。楽しいんだ。今が、とても。時々、夢みたいに思うときさえあるくらい」

「……夢って」

「うん。格好悪いけどね。この夢がいつまでも続きますようにって、いつも寝る前に祈ってるんだ。いい年したオジサンが、子供染みてるかな」

 ――そんなの。まるで、乙女みたいなことを言う。本気でそんな事を言っているんだろうか? それでもそれが冗談などではないと、一条さんの微笑が告げる。どこか気の抜けたその笑みは、いつもの一条さんらしく、ほんの少し儚く見えた。

 そんなことを言われても、困るよ。私には、解らない。そんな事を言われても、解らないのに。普通の生活を送ることを夢だという、その気持ちが解らない。それを言って、どう思って欲しいのかもわからない。私にはいつだって、一条さんの言っている意味も、気持ちも、何一つ解らないし、察してあげることは出来ない。元々のすむ世界が違うんだもの。当たり前でしょう。分かり合うことすら早々うまくはいかない。

 ――ああ。

 でも、そう、残念なことに。私にも解ることがひとつだけ、ある。解ってしまったことが、ある。

「夢じゃないですよ」

 これは現実。私にもそれくらい解る。だから、解っていたの。多分、もう、ずっと前から。

 そう。私は思っていた以上に一条さんやお母さんを、煩わせていたのかもしれない、と。きっとこの人たちは、待っていてくれていた。物分りのいい振りをする、そんな嘘つきな私を許して、じっと辛抱強く待っていてくれた。何度も扉をノックしては、返ってこない返事に、けれど何も言わずに、ただ、じっと。

 その間に一体どれだけ月が満ち欠けしたのか、彼らは数えていたんだろうか。途方も無い思いに駆られたりはしなかったんだろうか。私なんかの思いを伺うことに、苛立ちを覚えなかったんだろうか。いつまで、待ち続けるつもりだったんだろうか。思えば思うほど、私こそ途方も無い思いに駆られる。満月を幾度と無く見過ごすその日々は、きっと憂いを溜め込んだろうに。

 もしかして、ことを急いで私がどうするかを、知っていたんだろうか。一条さんは。私にも想像のつかないその未来を、回避してくれたんだろうか。この人は。それに、こんな頑なな私に絶えず微笑みかけてくれた、お母さんも。いっそのこと、不毛にすら思える。

 私にとっての救世主は、誰だったのか。誰が私から、私を守ってくれたのか。

 それに気付けたからこそ、今更反発なんていくら私でも、とてもじゃないけど出来るわけもない。根負けだ。私の、負け。もうとっくに、私は負けていた。

「夢には終わりがあるんです。だから祈っても無駄だと、思います」

「……それは」

 少しだけ哀しそうに、けれど、微笑んで目を伏せる人。そんな顔を見ると時々無性に苛立った。今ならその理由がわかる。

 許されていることが、許せなかったんだ、私は。自分のしていることを解っていたんだ。一体誰を、何度、傷つけていたのか。私は知っていてなお、それを繰り返した。許されるたびに。貴方が、お母さんが、許すたびに。まるで何かを、試すみたいに。

「夢なんかじゃ、ないんです。だから――」

 だから、きっと見えないところで沢山悲しい思いをさせたけど。それでもまだ、許してくれるなら。また、許してくれるなら。

「続きますように、じゃなくって。続けてください。ちゃんと、責任を持ってください。……祈るくらいなら続けて、欲しい、です。私は、そう、思います」

 私の頑なな態度で、何度傷つけただろう。それでも楽しかったと、楽しいと、言うのなら。貴方が、続いて欲しいと願うなら。だったら私も、今度こそ、ちゃんと向き合います。貴方とお母さんの望む未来を、私も、見据えます。抗わずに。背けずに。逃げずに。私も、そこにある私の未来を、望みます。


 ――それから、急にデレを見せた自分が恥ずかしくなって、呆ける一条さんの前から逃げるようにして立ち去った。

 そのとき思わず持ち込んだ、空のグラス。雲ひとつ無い月夜にかざすと、それはまるで新芽のような色を放ち、ちらり、ちらりと私の頬を照らした。

 ――大事にしよう。

 そう、思えた、一年後の夏の夜の夢。もう一つの芽には、まだ、気付かない。

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