佐藤かえでとホワイトクリスマス
拍子抜けでした。
だってそうでしょう。私には細かいことなんて解らないけれど、一条家って言ったら一族張れるくらい相当大きな括りの家系らしいし。それこそ一条さんの用意したこの一軒家もささやかだと思えるほど大きくて国宝に指定されるくらい歴史のあるお屋敷、『本家』があるって話じゃない。そんなところの偉い人が、『家族』って。そんな甘ったるいことを言うような人には見えなかったから、なおさらだ。
どう考えても、彼が私に何を言いたかったのかを完全に理解することは出来ない。何故あんな話を私にしたの。私の心根を読んでいたのなら、その意思だってどうせ汲み取っていたはず。私はお母さんがよければそれでいいの。私の意思も気持ちも関係ない。元よりお母さんの結婚に、どうして私の気持ちが要るというの。必要ないでしょう。貴方もそう思っていたんじゃないの。みんなそうなんじゃないの。私の気持ちを聞いたところで、それで何がどう、変わるって言うの。
――でも。そう感じる一方で、一つだけ解ってきたこともある。それこそ夢の中の出来事みたいに甘ったるいことを言ったあの人だったけれど、お母さんを想う気持ちにだけは、嘘は含まれて居ないんじゃないかなってこと。日々の生活の中でも、お母さんを一番にと思いやっている。私にも同じように良くしてくれるけれど、まあそれもひとえにお母さんのためと思っていいはずだ。それを考えれば、少なくともお母さんと一条さんの間の気持ちに偽りは見えない。一緒に居て心底安らぎを感じている。そんな風に見えた。お母さんのあんな手放しの微笑なんか久しく見ていなかったから、なおさらのこと。
だから。それなら、いいの。このままずっとこうならそれでいい。一条さんは我慢って言ったけど、それだって当初からしてみれば、そんなことを考えることも殆ど無くなった。お母さんが笑っていればいいの。出来ればこのままずっと、憂いもなく、不安もなく、安らいでいてくれればそれが一番なの。もしもそれを一条さんがこれからずっと守ってくれるなら、それでいい。結婚だって、家族だって、なんだってかまわない。私にとってもそれが一番だって、思えるんだから。いくらだって家族ごっこも演じてみせる。
そう、だから結局そういう結論に至る。そうして、もう一つ考えていたことは気付いていない振りをした。考えれば考えるほど得体が知れなくて、それに蓋をした。
『我慢したんだね』
あれは本当に、一条さんの言葉だったのだろうか。もしかして一条さんは、お母さんに聞いたんじゃないだろうか。そんな事を考えると、底の無い沼を潜るような心地になって、すぐに考えるのをやめた。私はお母さんに気付いてほしいのか。それとも、気付いてほしくないのか。どちらかといえばきっと、そのどっちもだったのだろう。私はその気持ちごと、自分の弱さに蓋をした。
秋は暮れ、冬が煌く灰色の空。降るか降るかと空を見上げる日が増え、朝でなくとも吐息が白い靄を作る頃へと移り変わった。以前ならば身を突く寒さに身震いして目が覚める朝も、この擬似家族ごっこを始めてからはむしろ目覚めるのも億劫なほど快適な朝へと摩り替わった。というかそれは設備のおかげか。それでも階下から聞こえる食器の鳴る音に誘われて、いつものようにのろのろと身支度を整えてからリビングへと向かう。
そんな朝、強烈なものを見た。
「おはよーございま、す?」
語尾がはてななのは、別に朝食の献立が気に入らなかったゆえの無言の反抗心とかそんな理由からじゃない。お母さんが朝早起きしてせっせと作ってくれたものに文句なんかあろうはずもない。
そうではなくて、問題は、目の前にある光景だった。
「やだなあ、恥ずかしい。忘れてね新君」
「はい……っふ、ははは」
「もう、言ってる傍から!」
――ナニ。なによ、このきゃっきゃうふふ的な洗礼は。新が笑ってるなんて、そんな馬鹿な。私を差し置いて既に机に座りご飯を食べながら、あろうことか談笑しているなんて、そんな馬鹿なこと。しかもお母さんと。
信じられない光景だった。何故かって、お母さんはいつものことだからまたアホなことをしでかしたのだろうけど、まさかのまさか、新が笑うなんて。いや、そりゃ笑わない子ではなかったけれど、作り笑いかどや顔しか見たことのなかった私には、目の前にある新の純粋な笑顔が信じられなかった。クララが立った並みの強烈具合だ。
暫く呆然として、リビングの入り口で呆然とそれを眺めてしまっていた。
「おはよう楓ちゃん。どうかした? 何か面白いものでもあった?」
まるで私を現実に引き戻すかのような、快活な声が頭上から聞こえた。あまりの不意打ちに飛び上がらんばかりに驚いてしまい過剰な速度で身を翻すと、ぴっちりとスーツを完璧に着こなす一条さんが私の真後ろに立っていた。なにやらいい匂いまでする。あらまあ着てる本人含めて高級そうですこと。
「いや、あの、」
「ああ、美味しそうな匂いがする。おなかが減ってきた。さあ一緒に食べよう」
いえ遠慮します。なんて、そうは問屋と腹の虫が下ろさない。笑顔の問答無用で一条さんに促されるまま、私も定位置の新の横に腰を下ろす(ちなみに私の前がお母さんの定位置で、新の前が一条さんの定位置だ)。その時ちらりと新を横目で盗み見るも、もう彼は笑みの欠片もなくただ黙々と端正な表情を崩さずご飯を口に運んでいるところだった。
さっきのは、幻だったのだろうか。いやそれにしてはいやに強烈過ぎるような。
悶々としながら箸に手を伸ばしたとき、ふと視線を感じる。なにこの覚えのありすぎる感覚。嫌な予感に恐る恐る目を向けてみれば案の定、一条さんがにこにことまたあの楽しそうな微笑を浮かべ私を眺めている。ぎょっと身を引く私に意味深なウィンクを投げかけた一条さんは、その後何事も無かったかのように、御飯茶碗を手渡すお母さんに優雅な微笑を惜しげもなく振りまいていた。
何なのよ本当に。訳のわからないことの連続で、何が何やら結局うやむやになってしまった、新の笑顔。それは衝撃的だったにもかかわらず、存外すんなりと、私たちの空気に溶け込んで終わった。
――しかし。それにしても、あの新までも笑顔にしてしまうお母さんはやっぱりすごい。最終的になにを思うかといえば、私はただただお母さんに尊敬の念を募らせるだけなのでした。
クリスマスイヴ。その日の朝、ニュースでは新人のお天気お姉さんが楽しそうに、今日はホワイトクリスマスになるかもしれない、と予告していた。
さもありなん。ホワイトだろうがブラックだろうが砂糖無しのカロリーハーフだろうが今年のクリスマスはいつもとは一味違う。なんてったってクリスマスイヴ。日本圏内では恋人達の為の日だ。勿論私と新がその空気を読まないはずもなく、事前に互いの親には話をつけてあった。つまりは、自分達は友達と過ごすからイヴは二人だけで過ごしてくれと、そういうあざといおせっかい。ともあれば解り安すぎる遠慮だけど、むしろそれがいいだろうという案に乗りシンプルにそれだけを告げた。
子供たちが気を使って二人きりにしようとしてくれている。断ったらその気持ちを無碍にしてしまう。友達とも約束があるようだし、だったらイヴの日くらいそれに甘えたほうがいいんじゃないだろうか。
そんな感じに受け止めてくれるだろうとまで考えた私達は、少なからず小賢しい部類に入るだろう。
一条さんはそこまで見抜いてそうだけど、あえてお母さんにはそれを教えずに二人きりのクリスマスを選んだに違いない。ちっくしょう調子のんじゃねーぞ特別なのはイヴだけなんだからな、と何様もいいところな私がギリッギリ歯を食いしばったとかそうでないとか。
かくしてあっつあつなお二人さんは私が学校から帰宅した時刻には既にデートに繰り出していて、それから間もなくして窓の外には予告通りの初雪がちらほらと舞い降り始めたのでした。っとくらあ。
「まずった」
その考えに思い至ったのはよりにもよって当日。をいをい、自分のご飯はどうするのよ。無論、クリスマスイヴに友人と遊ぶなど約束した覚えは無い。だってそうでしょ。クラスで一部の女子が皆で集まって女子会やろうよとかなんとかスイーツ(笑)な会話をしていたけど、生憎私は集団できゃっきゃうふふよりもサシとか数人でものを楽しみたいタイプだし。というか早い話が集団の、みんなで仲良くやろうよ的空気が大の苦手なために逃れてきただけの話、なんですもの。
さーてどうしたことか。とりあえずはと着替えを済ませ時計を見ると、時刻は既に六時をきっていた。うむむどうするべきか。新の予定は聞いてなかったけれどどうせお坊ちゃまのお仲間連中でつるんだりするんだろうし、そうなると家には私一人が残るっていう。
まず自炊は却下。出来ないとは言わないけど私の料理ってフィーリングで作るから当たりはずれが激しいし。クリスマスイヴにまずい飯食べたくないでしょう。外に食べに行くにしても自力で行くとなると若干遠いし面倒だし雪降ってて寒いしの三重苦。
去年はそんな心配なかったもんな。うちに帰って部屋の飾り付けをしてるとお母さんが帰ってきて、一緒にご飯作って、甘ったるいシャンメリー飲んで、二人で二号のケーキにフォークぶっさしてクリスマス特番見ながら食べるの。お手軽で安上がりで手作りの飾り付けみたいなのなんかホント幼稚だったんだけど、でも、不満はなかった。その分お母さんがニコニコ笑っていたからかもしれない。
今年は一人だ。まあ別に寂しいってことはない。小さい子供じゃあるまいし。寧ろ気楽でいい。うん。
「……はあ」
うむ。とりとめもないこと考えていてもしょうがないので、ここは腹をくくってコンビニで適当になんか買って食べるしかないか。イヴに一人でコンビニ弁当。しょっぱすぎて涙も出ませんね。
虚しさをかみ締めつつ鞄の中を弄り財布を引っつかんで、いざ行かんとマフラーを首にかけた。そのとき、ささやかなノックの音が聞こえた。
「あの、俺だけど」
「はい。なんでしょう」
今から出かけるんですけどと言わんばかりにそのままの格好でドアを開けると、新さんは暫し閉口してじろじろと私の格好を上から下まで眺めた。
そんなトリッキーな格好している覚えはないんですけどねえ、彼にとっては相当前衛的に見えたのかしら。それにしたって親子揃って不躾だこと。この似たもの親子が。
「なに? 用があるなら早くおっしゃいな」
なんとなく高飛車な態度で物申すと、新は何故か決まり悪そうに目を逸らす。その泳ぐ視線に逡巡を見つけると同時に、新は漸く口を開いた。
「風呂を沸かしたんだ」
「……あ、さいですか。これはご丁寧にどうも」
「いや」
何を言いたいのか奥歯に物が挟まったような言い方しかしない。若干その現状維持にも飽きた私の気配を察知したのか、新はいやに強い眼差しで私をじっと見つめてきた。
「入れば」
「え、いや私これから」
「いいから入って。ほら早く」
早くってあーたこっちの都合も聞かないで。なんて言う間もなく、彼は問答無用で踵を返し階下へと降りていってしまった。ぽつねんと残される、マフラーを首にかけたままの私。
かくして、そのマフラーは使われることなく所在無さげにベッドの上にて放置される羽目になりましたとさ。
しかし一体どういう風の吹き回しかと、湯船の中で考える。別に夕ご飯は逃げやしないからお風呂の後でもいいけど、何故に今風呂。入ってって何。私が入ることで新さんに何らかの利益がもたらされるんだろうか。
ていうかその前に出かけてたんじゃなかったのか。私が帰ってきたときには誰もいなかったはず。となると帰宅して私が自室でごろごろ時間を潰している間に帰ってきていたということか。ただいまくらい言ったらどうなのかね。寡黙にも程があるってもんですよ。
そもそも彼は友人と約束があったのではなかろうか。もしかして新も実は一人寂しいクリスマス? だから暇で暇でしょうがなくてお風呂を沸かした。なるほど。
「なわけないでしょド低脳め」
自分自身にも関わらず辛辣な独り言を呟き、鼻の下までお湯に潜りこみぶくぶくと潜水ごっこ。そのままとりとめも無いことをぐだぐだと考え続け、真性のド低脳に茹で上がるまで私は湯船に浸かり続けてしまった。
ド低脳な私は頭の血の巡りが悪いのだろうか。それともひどく鈍感なのだろうか。或いは発想が貧困なのか。そんな事を追求したところで、何故こんなことになっているのか、という疑問への答えにはならないだろう。答えは彼だけが、知っている。
「ナンデスカコレ」
「夕食」
風呂上りで程よくド低脳な私にも解る簡潔かつ明瞭な返答をありがとうございます。でもごめんなさい。言葉は解るんだけど、意味が解りません。
目下絶句する私の前にあるもの。それはテーブルに並べられた完璧な食卓。彩り豊かな葉野菜に盛り立てられたポテトサラダ、湯気の立ち上るミネストローネ、こんがりベーコンの乗るカルボナーラ、程よくスライスされた木の実たっぷりのシュトーレン。おいおいおいおい中央にはご丁寧にキャンドルまで灯されてましてよ。
なに。これからディナーショーでも始まるの。途中ビンゴ大会織り込みつつワイングラス片手に優雅に談笑する設定なの。一体何なのコレ。
「あ、の、これ」
「冷める前に食べよう」
説明なしかい。背を押され、椅子を引かれ座らされ、あれよあれよという間にいただきますタイム。呆気に取られる私を前に、新は涼しい顔をして小皿にサラダを盛り付けて私に手渡してくれる。甲斐甲斐しいなあ、おい。いやいやいやそうじゃなくてですね。
恐る恐るシュトーレンの一切れに手を伸ばし、口元に運ぶ。ゆっくり頬張ると、鼻腔に広がるように豊かなナッツの香りが届く。表面はかりっと、中はふわふわしっとりとしていた。ちろっと新を見ると、二人にしては賑やかな料理の向こうで彼も伺うようにこっちを見ている。これはもしや、まさかのまさかって、やつでせうかね。
「シュトーレンまで焼いたの?」
「違う。それは予約してたやつだ。そこまでしない」
存外に、それ以外は自分が用意したと言っている。彼自身も自覚があるのか、ぽっと頬を赤らめ誤魔化すように傍らの水を一気に煽っていた。
「これ全部」
「悪いか」
「いえそんなことは」
ござーません、けど。
いや、なんというか、改めて不思議な子だなあ、といやに感心してしまった。風呂に入れと言ったのはこのためか。わざわざ私を風呂に追い払って、せっせとこの料理を用意して、キャンドルまで立ててムードまでお膳立て。普通の中学生はここまでしないでしょ。思いついてもやらないし、というかこれほどの料理を用意するのも簡単ではないはずだ。
なんでも出来るのだろうと薄々感じてはいたけれど、まさか料理まで完璧にこなされるなんて。しかも、ここまできっちりと。生来のなんでも出来る気質による完璧主義なのか、それともこれは彼なりの優しさだったりするのか。
だとしたらなんと不器用で不恰好なことだろう。平然とここまでやったかと思えばこちらの様子を伺い、指摘されれば頬を染めて照れる。年頃で言えばこんなことすること自体恥ずかしいだろうに、よくここまでやってくれたものだ。もしや私がクリスマス一人で過ごすことを懸念して、彼もわざわざ家に残ってくれたのか。それでこんなものまで用意して。
え。もしかして、私、慰められてる? うそ、それってすんごくしょっぱすぎ。
突飛な考えに思い至り、けれどどうにもそれが勘違いではないような気がして、言葉にならなかった。あの父親といい、この息子といい。人の要らぬところまで見ているときている。全く煩わしいほどの観察眼だ。
思わず閉口していると、若干眉間に皺が寄った新がぼそりと呟く。
「要らないの」
なーにそれ。またまた面食らう。なんでふてくされたような顔してるの。私が拒否しているように見えているのだろうか。冗談じゃない。そこまで気を使われてられるか。
半ば負けん気交じりでスプーンを手にして、ミネストローネを口に運ぶ。
――うん。程よい塩加減で野菜が甘く感じる、優しい味のミネストローネだった。
「美味しいよ。ありがとう」
まあ、これは本心。本当に美味しいし、本当にありがたいと感じた。まさか彼が私にこんな解りづらい優しさを示すとは思っても見なかったけれど、厚意を素直に受け取らないほど私も意地っ張りではない。
頑張ったのだろう。これは厄介すぎる。厄介すぎてなんだか少しじーんと来るほど、穏やかな味が口に染みた。
「新君はいつでもお嫁にいけそうだね」
茶化して言うと、彼もまたふっと苦笑いを返してくる。なんだか不思議な気分だ。いつもよりもいやに素直な心地になっている気がする。それは新の方も同じなような気がして、何をトチ狂ったのか普段では言わないようなことを、私は口走った。
「新君のお父さんがね、家族になりたいって言ってたよ」
おいおい。一体どういうつもりでそんな事を言ったのか。皮肉なのか、それともただの思いつきなのか、不意にそんな無意味なことを告げてしまった。そんなことを言って、私は彼にどんなリアクションを期待していたんだろう。彼もそう思ったのか、それとも自身の父親がそんな事を言っていたことに驚いたのか、目を丸くして私を見つめ返した。
「いつ」
「うーん、二ヶ月くらい前の夜中かな。喉が渇いて下りたらリビングに一条さんがいてさ、ちょっと話さないかって言われて話してたら、そんなようなこと言われた」
そのときの私といったら目も当てられないような惨敗を喫していたくせに、それを新に知られるのはプライドが許さなかったのか、異様なほど平然と説明した。言い終えると新が聞こえるか聞こえないかのか細い声でぼそっと「あの親父」と呟く。当然私はそれを耳にしたわけで、彼の感想が少しおかしくて噴出してしまい、咎めるように睨まれてしまった。
それでも、彼は言った。ぼそっと、そっけない一言で。
「いいんじゃないの」
「え」
――今なんて言った? 『いいんじゃないの』?
今度は私が、目を丸くする番だった。まさかそんな答えが返ってくるなんて思いもしなかったから。いや、彼がそう思うということすら、ありえないと端から否定していた。それが覆された。つまり彼は、この結婚に反対の意を本当に持っていなかったということで。それどころか『家族』という言葉さえ肯定してみせた。それは今までその問題について言明してこなかった新が始めて見せた、意思表示だった。
「……そう、かな」
家族。
その言葉を彼が肯定するのが信じられなかったからだろうか。それとも私自身が否定したかったからだろうか。それとも他の理由からなのか、私は返すべき言葉を見失い曖昧な返事を返した。私は一体何がしたいんだろう。新に、なんて答えてほしかったんだろう。
妙にもやもやとした心地を抱えながら、その後はお互い無言で終始食事に徹した。
『いいんじゃないの』
いいんだろうか。
不意にそんな疑問を抱いた。おかしな話だ。私はとっくにその問題について納得していたはずなのに、彼の答えがまるで私に向けられたもののように感じて、途端に居心地の悪さを感じてしまった。
まったく、一条さんも新も、何だって言うんだろう。まるでこれじゃあ私一人が反対しているみたいじゃないか。反対なんて、していない。私はそれでいいと決めた。でも、じゃあどうして新の言葉に、素直に頷くことができなかったんだろう。それとも、もしかして一条さんは私のこんな宙ぶらりんな気持ちまで見越して、あんなことを言ったのだろうか。
でも、でもね。そうだとしても、それでも。
「どうしろって、言うの」
どうしようもない本音が、ぽろっと零れた。紛れもない、本音。
だってさあ、どうしようもないじゃない。理性ではちゃんと解ってるの。ただ、うまく出来ないだけで。何が駄目なのかなんて、嫌なのかなんて、そんなの私にも解らない。それじゃ駄目なんだって言われてるのもわかる。
でも、じゃあ、どうすればいいの。答えなんてどこにもないじゃない。だったら優等生ぶって物分りよく頷くくらいしか、私には出来ないでしょう? これ以上何をどうしろって言うの。どうしたら、皆満足してくれるの。
悶々としながらそんな思考を繰り返しているそのとき、ふと頭上に影がさした。
「なに、してるの」
淡々とした声が聞こえ反射的に見上げると、案の定新が私の座るソファの傍らに立っていた。照明が逆光になり見上げた先の表情ははっきりとは見えなかったけれど、何故だか私が顔を上げた途端少し眉を顰めたような気がした。いつのまにかおかしな顔でもしてしまったのだろうか。今更ながらにいつものようにへらっと笑い、その手にあるものを掲げて見せる。
「わっか繋いでるの。よく小学生のお誕生日会とかに部屋に飾られてるやつ」
左様で。つまり私は夕食の後リビングに残り、こんなものを黙々と作っているうちに混沌とした思考の輪に嵌ってしまったと、そういう経緯でございます。
随分とくだらない考えに嵌っていたものだと我に返り、作業を再開する。新はテーブルに広げられた色とりどりの折り紙やら何やらと私を一瞥し「ふうん」とシンプルな返事を返すと、そのまま自然な流れで私の向かいのソファに腰を下ろした。
お風呂上りだろうか。シャンプーのいい香りが、鼻を擽る。
「作ってどうするの」
「飾るんですよー。我が家の女王様の命でございますれば、下働きのワタクシはこのようにせっせと準備しているのでありまする」
実を言うと毎年作っていた。いつも二人っきりでクリスマスを過ごしていたから、見た目だけでも賑やかになるようにわっかを作ったり風船やら百円均一で買ったモールやらをでこでこと部屋一面に飾る。毎年、そんな事をやっていた。
きっとお母さんは私の為にやっていたんだろう。お父さんがいなくても寂しくないように。そんなことしなくても私にはお母さんがいればそれでいい。それで満足だし、楽しい。そう言いたくて、でも言葉には出来なくて、言葉の代わりに飾り付けには毎年精を出した。
そして今年も、同じように作る。ただ、今年からは少しだけ意味が変わる。今年は私のためなんかじゃなくて、その話を聞いて羨ましがったという一条さんのため。お母さんは毎年のことだからと言ったけど、一条さんの話をしたときはすごく優しい顔をしていたから、きっとそういう意味。
だから私は実質一条さんのためにせっせとこうして飾りつけの下準備をしているって訳。感謝しろ感謝。何様なので胸の内に秘めておく本音をわっかに込めつつ作り続ける。
すると、じーっとそれを見ていた新がはさみに手を伸ばしてきた。
「俺も作ってみたい」
「あら、じゃあお願いしようかしら。じゃんじゃんお願いしますよ」
いちいち教えなければならないほど難しいものでもないためか、それとも以前に作った覚えでもあったのか、新は何も言わずに黙々と作業を開始した。心なしか楽しそうなその様を作業の傍ら盗み見て、なんだかまた悪戯心がむくむくと湧き出してきてしまった。
「ねえ、さっきの話さあ」
「うん」
なんのことを言っているのか解っているのか、新は手元を見つめながら返事をした。益々悪戯心、いや意地悪心がわきあがるのを感じて、私はついついにまっと悪どい笑みを浮かべてしまう。
「私が新君のお姉さんってことになるんだけど、本当にいいの? 新君、私の弟になっちゃうんだよ?」
試すような行儀の悪い笑みが、納まりきらずに目に滲む。そんな私をちらっと一瞥した彼は、けれど涼しい顔して返事した。
「いいんじゃない」
う。またか。
いやにどきっとして、浮かべた笑みも途端に引っ込む。
何だっていうんだろう。最近こんなんばっかり。
「いいってさあ、私が新君のお姉さんだよ? 上だよ、上。エベレストより高いプライドが邪魔したりとかさあ、ないの?」
「どんだけ高いんだよ俺のプライド」
ふっと彼が笑う。意図せず笑わせてしまい、益々混乱してしまう私。くそう、あの父親にしてこの子ありだ。当初から今までまともに心を読めたためしがない。というか寧ろ私の方が悉く読まれている。ああ忌々しいどうしてくれよう。
「じゃあさ、あだ名決めていい?」
「あだ名?」
「そう。新君じゃよそよそしいし、もうちょっと歩み寄った呼び方をね、させてもらおうじゃないの」
お姉さんなら弟のこと好きに呼んでもかまわないわよねえ、なんてにまにま笑って言うと、これまた肯定。呼び名よりわっか作りの方が気になるみたいだ。
いちいち拍子抜けするなあ、もう。こうなったら普通の呼び方じゃ駄目だな。呼び捨てとかありきたりすぎて論外。呼ぶほうが恥ずかしくならないように程よく面白い呼び方にしてやろう。
新さん、新っち、新どの、新ちゃん。
いかんなんか妙に萌え系アニメ思考な気がする。もうちょっと捻ろう。漢字が『新』だから、シンとか。駄目だそれだけだと普通にかっこよすぎる。そうじゃなくてもうちょっと程よくぶち壊した感じの。
――ああそうか!
「新さん!」
ぱっと脳裏に閃く暴れん坊紳士なあのお方のイメージ。いいねえ新さん。ナイスネーミング。と、同時に止まる、新もとい新さんの作業の手。きーめた。新さんに決定。変更負荷。アドレス帳にも新さんって入れとこう。うっしっし、ざまぁ新さん。
「よーし決定。よろしく新さん」
きひひ。微妙に納得いっていないけど今更否やも口に出来ないそのなんとも言えない表情がオイシイのなんのって。姉はなかなか小気味良くてよ、新さん。
「別に、いいけど。じゃあ俺も呼ぶ」
「なに」
「楓って呼ぶ」
「えっ」
なに。いきなり。
びっくりして笑みも引っ込み、そんな私を見た彼は目元を緩めた。穏やかに、彼が微笑む。
「今度から楓って呼ぶ。いいよな、楓」
「ん……う、ん、まあ」
駄目とも言えず歯切れの悪い返事を返した私にふっと笑みを深めると、彼は再び作業を開始した。なにやら、機嫌がよくなったらしい。心なしかまだ目元が笑んでいるようにも見えた。
――ああ。びっ、くりした。あんな顔、できるんだ。
今まで完璧な容姿を持っているとは思っていたけれど、何かが違うといつも違和感を覚えていた。けれどそのとき漸く、その意味が解った。
いつも、いや、今までは人間味がなさ過ぎたんだ。どう言葉で表現しようと捉えきれない彼の容貌は、その完璧な造作があまりに人間離れしすぎていた。それが今微笑んだとき、崩された気がしたんだ。なんて言うか、そう、それは本当に人間らしい表情。温かみのある笑顔。それを目にして、それがあまりに優しげに見えて、心臓を掴まれたかのように吃驚した。
笑うと、綺麗というより可愛く見えるんだ。そっか。そうなんだ。
あれ。なんかちょっと、嬉しいかも。なんだろう。触発されたように、何故か私も笑みが浮かんだ。変だな。面映いって言うか、くすぐったい感じ。あー変なの。
「なに笑ってんの」
「新さんこそ」
ちろっと見詰め合って、また笑う。それが妙におかしくて少し恥ずかしい感じがして、誤魔化すようにまた笑った。すごく変な感じで、すごくおかしな心地だった。もやもやしていたさっきとは違う、でもとてもくすぐったい心地。なんだか無性に泣きたくなった。泣く代わりにもっと笑った。心の隅で再び浮かんだ新さんの言葉に、私もやっと返事を返した。
『いいんじゃないの』
うん。まあ、悪くはない。わかんないけど、悪くはないのかも、しれないね。
翌日は、一条さんと新さん、私とお母さん、全員でクリスマスの夜を過ごした。一条さんとお母さんはイヴの日に買い物をしたようで、私には冬物の真っ白なコート、新さんには腕時計をプレゼントしてくれた。二人で選んだというそれには、つまり一条さんも一緒に選んでくれたってことで、逆で言うと新さんにはお母さんも一緒に選んだということで、つまり、うん、なんとなく照れた。勿論、別に嫌だって訳じゃなくて寧ろ嬉しかったから、素直にお礼は言った。
でも、そういえば私はプレゼント用意してない。毎年お母さんにはささやかなものを用意してたけど、今年は色々あってすっかり忘れていた。しかもお母さんのぶんまで。愕然とする私に、一条さんは言った。
「楓ちゃんからはもうプレゼントを貰っているから、いいんだよ。素敵なクリスマスをありがとう」
そんなきざなことを言って、笑った。イヴに見た新さんの笑顔とそっくりの、けれどずっと大人びた微笑。
まさかそんなことでお礼を言われるなんてとか、こんなちゃちな飾り付けで本当に良かったのだろうかとか、色々なことに吃驚したけど一番はやっぱりその顔。新さんとかぶるその目元が優しく緩む微笑は、私に彼らが本当の親子なのだということを実感させた。疑っていたわけでも、似ていないと思っていたわけでもない。むしろ幾度となく似たもの親子だと散々胸のうちでため息混じりに呟いていたけれど、そのときはそれとは大きく違う感覚だった。
でも今のはそれと全く違う。新さんの髪をぐしゃぐしゃと撫でて笑う一条さん。いきなりそんな事をされて面くらい、怪訝な目で自分の父親を見上げる新さん。そんな二人はまさしく、ごく自然に普通の親子の絵として私の目に写った。今更だけど、そのとき彼らは紛れもなく親子だった。
――ああ、そっか。そのときほんの少しだけ、なんとなく解るような気がした。一条さんが『家族』という言葉を使った意味が。そうしてそんな二人を嬉しそうに見つめるお母さんを見て、お母さんの気持ちもほんの少しだけ伝わってきた。
うん。一条さんもお母さんも、ただ一緒になりたいから結婚したいんじゃないのかもしれない。それだけの理由で、結婚を決めたんじゃない、ってことなのかも。誰のためかなんて、一言では言えなかったんだ。
――それでも、言明できるほど理解できたわけじゃない。ただほんの少しだけ、その糸口が見えただけ。
いつか、もしもそれを本当の意味で理解することが出来たなら、きっとそのとき私も言えるんだろうか。新さんみたいに笑って、『いいんじゃないの』って。その、いつかの時を思うと面映くなって、私も皆に混じってこっそりと笑った。
それが始めの、ホワイトクリスマス。四人でいて初めて楽しいと感じた、始まりの日。私にとって夢そのものの日々の、始まり。




