カエデと傷
いつのことだったかクラスメイトの女の子が、どこで聞きつけたのか私が新さんとは義理の姉弟であると聞いたと告げてきた。そして彼女はお世辞にも見ていて気分がいいとは言えない笑みを私に向け、問いかけてきた。
『もしかしてさあ、一条さんって新君のこと好きなんじゃないの?』
その瞬間、全身の血が一瞬にして沸騰し腸が煮えくり返ったのを、覚えている。すんでのところで理性が勝りはしたが、脳内では反射的にその子を殴り飛ばす私がいた。
それほど不愉快だった。不名誉だった。屈辱的だった。例えそれが年頃の女子の可愛らしい嫉妬心からの邪心だとしても。
義理の弟だとか揶揄されることが、じゃない。私が新さんを好き。その言葉そのものが、私にとって最大の侮辱に他ならなかった。どんな理由があるにせよ許すまじ、最低にして最悪の、愚かな妄言だった。
物語は再び本筋へ。主人公である新さんの物語の中では、一体私はどんな描かれ方をしているのだろう。そんな考えがちらりと過る。
逆恨みの姉との攻防とか? もしくは一度は離れたはずの世界に、義理の姉によって奇しくも引き戻されてしまう運命、とか?
そうなると私はある意味この世界に利用されたわけか。離れたと思って喜んでいたのが馬鹿みたいだ。どう足掻いたところで、私は新さんの運命の上に配置される駒の一つに過ぎなかった、ということだ。自由になったつもりでその実、この身自ら新さんの運命に花を添えようとしている。
そう考えるとくだらない。足掻くことすら馬鹿馬鹿しくて、やる気すら失せてくる。こうなるともう長年培った耐性のおかげですぐに諦めがつき、それらがあるべきところへ納まるように動くのを、従順に受け入れてしまいそうになる。
でも、なあ。今までとは、ほんの一つ、たった一つだけ違う思いが、混じっている。その気持ちが私の後ろ向きな心を、ぐいぐいと優しい力で押し上げていく。もう消えたはずの、それでもまだ確かに残っているあの額の感触を思い浮かべて、自然と笑みが浮かんでくる。
味方、だって。なんの根拠も無いじゃない。でも、そういえば、そうだった。新さんの味方なんて腐るほど見てきたのに、自分の味方なんて私、居たことなかったかも。
ああ、だからかあ。あんなに嬉しかったの。すっごく心強かったの。不安な気持ちが一瞬にして掻き消えた。暖かい気持ちが、ぱっと広がったんだ。あのでこちゅーみたいな、優しくて大きな暖かさがね。
アブラアムさんにもう一度、ありがとうって言いたいな。貴方は、真実私のサンクチュアリになったのかもしれない。
そんなことを考えて新さんの前で、満ち足りた笑顔を浮かべそうになる自分を押さえ込むのには、内心とても苦労した。
「で。話、って?」
内心どぎまぎしながらも、努めて冷静を装って問いかける。一瞬だけ垣間見た新さんの眼差しは真っ直ぐに私に向けられていて、けれどその眼差しからはいつもの彼と同じくして感情の機微が読み取りづらかった。かと言って見つめ返せばこっちが気圧されるような気がして、それと無い振りで庭園の方に目を移す。降り注ぐ陽光に当てられたガラスは、未だ私を見つめ続けている新さんを映し出していた。
なんだろう。ああ、この気の重い雰囲気は。なんだか無性に、ため息をつきたくなった。でも、一度は向き合うと決めたのだから。この、弟と。覚悟を決めて、今度はしっかりと新さんのほうに向き直った。
「話って、新さんが話をするの? それとも私? もしくは何か、話し合いをするって、こと?」
ゆっくりと、新さんが瞬きを返す。いつもの癖。眠たそうにゆっくりと瞬く彼のこの癖は、決して睡魔を耐えているからという理由からではない。彼は考え事をしている。それは彼がその瞬きの間にあらゆる事項をその瞬間に整理している現われだ。そしてその刹那にもう、答えは出ている。
「全部だ。話をする。話を聞く。その上で、話し合う。お互いが納得するまで」
「納得?」
いやに静かな新さんの眼差しに、私は自嘲の笑みを返す。なんだかその言葉が、ひどく白々しいものに感じて。けれど新さんは至極真面目な表情で、私に飲み込ませるようにゆっくりと、けれどしっかり頷いた。
「姉さんが納得するまで。俺が納得するまで」
「……全部」
「全部だ」
再びしっかりと頷き返す彼に、私は怪訝な顔を浮かべざるを得ない。彼の言っていることは理解し合うという事なのだろうけど、そんな事は到底不可能なことのように感じた。元々が、理解しあえる要素が欠片でもありさえすれば、私はこんな愚考に走らずに済んだ。妙にふてくされた気持ちが、心の裏側を擽る。
「聞くって言っても、何を。私は別に新さんに聞くことなんかないよ。それに、私が聞かれたことに素直に全部答えると思う?」
「いや」
新さんの揺ぎ無い眼差しが僅かに揺れる。これまで幾度となく彼の眼差しに過ったそれに、私は気づきながらもずっと見てみぬ振りをしてきた。無論、今も。
それでも新さんは、再び立ち上がるように、私を見つめなおした。ぐ、と力強く。どうしてそういちいち、真っ直ぐ人を見れるんだろう、この子は。
「でも俺は知りたいんだ。姉さんの口から、姉さんの言葉を聞きたい。知りたい。だから聞かせてくれ」
「だから何を」
「姉さんが、どうして嘘をついているのか」
――なに。
何を、言うかと思えば。
引きつりかけた喉を、ぐっと飲み込む。生真面目な彼の表情はどこまでも本気だ。逆に私の気持ちは、下降していくようにどんどん醒めていく。ついつい、ふっと失笑が漏れた。
「嘘って。私の何をもってして嘘だと言ってるの?」
仄かな苛立ちと可笑しさとが、奇妙に入り混じる。彼のその訳知り顔を見つめているとどうにも笑いがこみ上げてきて、私はテーブルに肘をつき立てた手のひらの上に顔を乗せ歪んだ口元を隠した。まあ、どうせ彼にはバレバレだろうけど。
「嘘、ねえ。なんのことやら知らないけど、私新さんに対してついた嘘なんか数え切れないくらいあるんだけど。いちいち一つずつ説明しなきゃなんないの?」
揶揄するように言った。それでも半ば本心だった。新さんに対して言えば、今までの私はほぼ100% 嘘の塊だ。そんなものいちいち数えちゃいないし、覚えてもいない。謝罪を求めているのか何なのか知らないけど、彼の今更な指摘には少し辟易した。
「俺は全部覚えてるよ」
「へえー、そりゃどうも。意外と粘着質なんだ」
「ああ。ネバネバだ。くっついたらちょっとやそっとじゃ離れない」
「は」
聞き間違いだろうか。予想もしなかった切り替えしに思わず唖然と見上げると、私を見下ろす新さんの眼差しは少しだけ愉快さを滲ませていた。
くそ。私も大概だけど、新さんも相当おかしい。前はこんな切り替えししてくる子じゃなかったのに。本当にキャラ換えしてしまったんだろうか。
調子を狂わされてどぎまぎしていると、合間を縫うように軽快なノックの音が響いた。
「どうぞ」
別段気にした風でもない新さんが返事をすると、可愛らしい声がドアの向こう側から聞こえてきて、彼女が入ってきた。突然の訪問者に不本意ながらもほっとしつつ、またその姿を目に留めて少しだけ目を見張ってしまった。新さんが見てる手前あんまりアクションを起こしたくなかったけれど、その入ってきた人が人だけに、目を向かざるを得ない。
いや人というか、子というか。あからさまにその身に余る大きさのカートを引いて、傍目にも優雅とはいえないおぼつかなさでそれを一生懸命に押すちっちゃな手。給仕と呼ぶにはあまりに幼すぎるその子は、確かに見覚えがあった。
――白薔薇の子。
「おちゃをおもちしました、かっかー」
「うん。そこに置いておいてくれるだけでいいよ。ありがとう」
唖然とする私を尻目に、新さんはこの上なく爽やかにその子へ微笑みかけている。彼女はまさしく新さんの言いつけどおりテーブルの脇でティーセットが揃ったカートを止めると、何を思ったかひょっこり横から顔だけ出した。人懐っこいきらきらした眼差しが、あの時と変わらず私を映す。
「こんにちは、あねぎみさま」
「……んにちは」
かすれた声でなんとかそれだけ返すと、彼女はにっこりと微笑みカートから手を離し、勢いよくお辞儀をするとそのまま一目散に扉の方へと走っていた。扉が閉まる前にちらりと見えたのは、恐らくはそれまで付き添っていた本当の給仕、あのプリティメイドさんだ。
何が何やらと思っている間にも、脇でカチャカチャと新さんがカートに乗ったそれら一式をテーブルの上に移していた。一見して穏やかな表情で給仕の代わりをする彼の面差しを目に移してやっと我に返った私は、かっと頭に血が上りかけた。
なんなの。なんだっていうの。皮肉のつもり? なんで、どうしてあの子をわざわざ私の前に――。
喉まで出掛かったそれをなんとか飲み込み、私はテーブルから身体を離して椅子に背を預けた。
ああ、もう。危うく呑まれかけるところだった。それでもやっぱりまだ悔しさは滲んでいて、わたしの前にカップを置いた新さんをきつい眼差しでねめつけてしまう。
「なに? 姉さん」
心なし楽しそうな新さんの声が忌々しい。
「別に? ただ新さんのロリ嗜好に吃驚しただけ」
「そうか」
さらっと流すな! なにちょっとはにかんでんだ! できてんのか、できちゃってんのかあのロリータと!
思いつつも、言葉にはできない。
――馬鹿馬鹿しい。乗せられてたまるか。
「それで、なんだったかな。なに話してたっけ。お姉さん忘れちゃいましたよ」
「だから」
「あーあー、わかった! ごめんごめん思い出したよー」
大げさな態度で遮って見せると、新さんは僅かに目を顰め閉口した。それを目に留めて、やっと私の口元にも笑みが戻る。
「私がなんで嘘つくのかって話だよねー。簡単だよ? 新さんに話すべき本意なんか一つも無いからに決まってるじゃない」
これは本当。自分でも気分の悪い笑みをにまにま向けながら言うと、新さんの眼差しがまた少し揺らいだ。
ごめん。私にはもう罪悪感なんて残っていない。これが大詰めなんだ。躊躇なんてもう捨てた。もう少しだけ、耐えて新さん。
「思えば嘘ばっかりだったよね、私。新さんも気付いてたよね。私もね、新さんが気づいてるって知ってたけど、でもあえて訂正しなかったんだよ。なんでかわかる?」
新さんは黙っている。それでも私はまだ足りないと畳み掛ける。
足りない? もう十分傷つけたでしょ?
いや違う。まだ足りない。
「私はね、新さんに嘘ついてますよーって新さんに知ってもらいたかったの。私は新さんに本音を知ってもらうつもりなんてこれっぽっちもありませんよって気持ちを、感じてほしかったの。とっても」
可哀相な新さん。こんな姉を持って。貴方の善良な心は誰かの救いになるかもしれない。でも善良だからこそ守りきれない弱さがある。優しい新さん。付け入るところがありすぎる。ごめんね、新さん。
「解る? 踏み込んでほしくないの。知ってほしいなんて、解ってほしいなんてこれっぽっちも思ってないの、私は。むしろその逆。私のことなんか放っておいて。気に留めないで。理解しようとかしないで。私は新さんと解りあいたいとか歩み寄りたいとか、欠片も思っていないんだから」
例えそれが真実であっても、本来ならば、言うべき言葉じゃないんだろう。こんなことは間違いなく、大抵の人が避けて通る、言ってはいけない言葉のうちの一つなのだ。
それでも私はあえてその言葉を選ぶ。これでもかという傷をつけておかなければ、私はどんどんためらい傷ばかりを作り続けるだろう。どちらが残酷かなんて解らないけれど、私は、無用な方法は好きじゃない。
「新さん」
最後の詰めに、じっとその澄んだ瞳を見つめて悪魔のように囁いた。
「もうやめよう? 私が君を嫌いなように、新さんも私を嫌えばいい。突き放してしまえばいいの。お優しい弟なんてもう、やめちゃえばいいんだよ」
それが一番、楽な方法。嫌い合えばいい。それが私達にとっては極自然な成り行きなんだよ。抗おうとするから苦しくなるの。だから新さん。頼むからいい加減、私を嫌いになって。私はずっと、それだけを望んできたのだから。
息を詰める思いで、けれど表面上は悪辣な笑みを浮かべて新さんを見つめる。新さんの眼差しは私の言葉に動揺したのか一瞬、揺れた。
あともう少しだ。
そう、思った矢先。何故か新さんは、哂った。
「そんなに俺に嫌われたいのか」
自嘲するような、それでいてどこかすごく哀しさを帯びた哂い方。ふと、何かが胸を突く。未だ嘗て、新さんがこんな顔をして笑ったことが、あっただろうか。何故かその微笑みは見ていて痛々しくなるくらい、私に衝撃を与えた。
おかしい。覚悟したはずのことだったのに。こんなことに揺さぶられるなんて。
「新さ……」
「いいよ。わかった。もう、いい」
突き放すような冷たい声。これは、本当に新さんの声だろうか。そう感じるほど暗くて冷たい、なんの温度も感じられない、声。
続く言葉を失った私をあざ笑うかのように、新さんは冷ややかな笑みを私に向けたまま、言った。
「もう、いい。どうせ嫌われてるんだ。だったら俺の好きなようにする。姉さんがそこまで言うなら、俺もそれに応えるよ」
「何を言って」
「姉さん」
――あ。だめだ。
凍てつく眼差しのその奥に、揺らぐ炎。
「俺は絶対に姉さんを連れて帰る。もう逃がしてもやらない。泣こうが喚こうが知らない。姉さんの馬鹿げた計画なんか俺がぶっ潰してやる。いいよな、姉さん」
――ああ。
とんでもない間違いを、冒してしまった。どこでどう間違ったのか。
凍りつく意識の中で、それでも直感が告げる。新さんは今、とてつもなく怒っている。私が怒らせた。もう、駄目だ。私は間違ってしまった。
その恐れのあまり気付くのに一瞬遅れた。新さんが私に手をかざすところ。その手のひらが私の視界を覆った途端、逃れる間もなく強烈な睡魔が意識を覆い隠し、そしてその刹那に、小さな声で「楓」と誰かが呼んだ。それはなんだか私の方まで泣きたくなるくらい、恋うように哀しそうな声だった。