カエデと姉弟漫才
開き放たれた扉の向こうには、案の定彼がいた。真っ直ぐ前を見据える私を、同じようにして正面から真っ直ぐ睨みつけるように私を見つめる見慣れた彼の顔。確信はあったけれど、実際本当にその通りだと妙に拍子抜けする。なんでいるの、なんて彼には愚問だろう。肩に入っていた力を抜くように、ふう、と深いため息が漏れた。
「一応、確認なんだけど。なんで、ここが解ったのか聞いてもいいかな」
新さんは、答えない。ただその眼差しの機微を目ざとく見つけた私は、皮肉な笑みを口元に浮かべ振り返った。想定通り、私の射抜くような眼差しを受けてアブラアムさんは大げさと思えるほどに目を泳がせる。
「アブラアムさーん。もしかしてもしかしなくとも?」
「う、いや……、まあ、だって、なあ?」
だって何よ。ついそんな心の声が浮かび、益々目つきがきつくなってしまう。しどろもどろとしているアブラアムさんを見ているのはそれはそれで可愛くてたまらないけれど、それとこれとは話が別だ。
けれど、じとーっと視線攻めをし続けていると、あろうことか後ろから助け舟が出る。
「その人は悪くないよ。子供を保護するのは良識ある大人の義務だろう。彼は義務を果たしたまでだ」
どぅあーれが子供ですって。百歩譲って子供だとしても私より年下の新さんには言われたくないんですけどお!
正論ぶった物言いに途端にむっかーときてぐりんと勢いづいて首を元に戻すと、いつのまにか直前にまで迫っていた新さんが私を見下ろしていた。その眼差しがいつもの新さんとはどこか違っているようで、私は妙に焦ってしまう。おーい負けるなー、カエデー。
「彼が神殿に連絡を入れたのは姉さんが失踪してからすぐのことだ。でもソロンさんが身元を引き取るって申し出を蹴ったんだよ。自分が責任を持って預かるって。姉さんの気が済むまで」
有無を言わせないように威圧感を漂わせ、新さんが言う。
そんな、こと。確かにそれを予想はしていたけれど、アブラアムさんがそんなことまで言っていたなんて。俄かには信じられない思いで振り返ると、アブラアムさんは照れたように頬をかいてそっぽを向いていた。
ああもう、アブラアムさん!
無性に彼に飛びつきたくなる。けれどいつのまにか掴まれていた腕のせいで、それは叶わなかった。
「……ちょっと。離してよ。てか何気安く触ってんの。許可してないんだけど」
「帰るんだ。いつまでもここにお世話になるわけにはいかないだろう」
「はあ? あなた私のお父さんですか? 月並みな台詞素面で言わないで。ぞっとするから」
言いながら下を見ると、何故か新さんの右足がドアの内側に入っている。ていうか、よく見ると半身入っている。それを見て一気に頭に血が上り、その場に踏ん張ってつかまれた腕ごとふんと新さんを外に押し込んだ。
て、いうかちょっと。なんであんたもふんじばってるの。なにこれギリッギリ擬似押し相撲みたいな。
「は、や、く、出て行って、よっ。ここは私とアブラアムさんの愛のサンクチュアリなの! 部外者が入ってきていい場所じゃないの!」
「おいなんか今不吉なこと言わなかったか」
後ろでなんか言ってるけど今忙しいから無理ですアブラアムさんハグはもうちょっと我慢してね。今この害虫たたき出しますから。
と言っても、力じゃ叶うはずもなく。それどころか何故か新さんのほうがじりじりとこっちを押してくる。
なに、なんなのさっきから! あんたさっきから生意気なんですけど弟の分際で!
「入、ってこない、で、よおおっ」
「いやだ。お邪魔しますアブラアムさん」
「お、おう」
「勝手に許可しないでアブラアムさん! こいつは敵なんですよ! 唾棄すべき外敵なんですよ!」
お前の家じゃないだろ、となにやらかぼそいツッコミが聞こえた気がするけどスルー。とにかくこいつを何とかしなくては。
じろりと睨むと、同じようにじろりと睨まれる。さっきからなんなのその反抗的な目! 今までそんな顔したこと無いくせに! 新さんのくせに!
「姉の言うことくらい素直に聞け馬鹿新!」
「弟のお願いくらい素直に聞いたらどうだアホ姉」
「はあぁ? お願いはか弱い乙女と対象年齢五歳までの幼児しか通用しないんですー!」
んもー、あったまきた。足場を崩そうと蹴りを仕掛ける。が、早々うまくいくはずもなく難なく避けられてしまう。けれどそれで終わりなわけもなく、避けたその一瞬を狙って新さんの身体を渾身の力を込めて突き飛ばした。
と、思いきや。そのまま腕を引っ張られ、て。がっしり。
え。なに、コレ。
「って、ちょっとおおおお! 離してよ何抱きついてんの!」
「抱きついてるんじゃない。抱きしめてるんだ」
「同じでしょおおがあ! 離せええええ変態いいいい!」
両腕をはさむように抱きこまれてるから、必然手も使えない。もがいてもびくともしないどころか、段々きつくなってくる。
く、苦しい。ていうか嫌だ。何が哀しくて弟に抱きしめられるんだ。しかもアブラアムさんが見てるのにぃ! ていうかもうコレ殆どホールドでしょ。締め技? 締め技なの?
「姉さん」
――ふいに耳元で聞こえた。絞り出すような、弱弱しい囁き。
そのあまりの頼りなさに吃驚して身体が止まる。ひたすらに、力の篭もる腕。擦り寄るみたいに新さんの柔らかな髪を頬が撫ぜた。
「無事で、よかった」
妙に力の抜けた飾り気のない一言。まるで心から安堵したみたいに。一瞬、何もかも真っ白になったような気がした。
――て、オイ。そうじゃないでしょ。
「……い、いから、さっさと離せっ」
今度はあっさり、身体が離れる。けれどまたしてもちゃっかり腕だけは掴まれている。ああもう面倒くさい。
「なんなの、さっきから。ちょっと新さんおかしいよ? いつのまにキャラ換えしたの。そういうのは本誌始まる前に済ましておいてよ。連載打ち切られるよ?」
「姉さんこそキャラが激変してるだろう。腹黒笑顔キャラから高飛車キャラに鞍替えか。随分と尻軽だな」
「アバズレ扱いすんな! 私のはツンデレっていうんですー! いまや世間に認められた代表的人格定義なんですぅ!」
ていうかよく聞いたら新さん人のこと腹黒笑顔キャラだと思ってたのか。マジむかつく。よしんばそれが本当のことだとしても新さんにそう評価されていたことがむかつくことこの上ない。
いつのまにか両腕取り合ってぎりぎり睨み合い。ああむかつく。今迄で一番むかつく。むかつかないときなんか一度もなかったけど歴代最高にむかつく。何よりこの態度の変化が気に食わない。何なの本当に。これがあの新さん? 今まで従順に何でも私に言うことを文句言わずに聞いてきた新さんなの?
……ああ、そうか。それだ!
「新さん。とりあえずここから出て行って。お願い。聞いてくれるよね?」
新さんは私のお願いには逆らえない。なんだ、最初からこうすればよかったんだ。簡単なことだった。
追い討ちににっこり微笑むと、新さんも睨むのをやめる。そして頷いた。いつものように、従順に。
「解った」
そー。それでいいの。一瞬どうしたことかと焦ったけど、結局新さんも本質的なところは変わっちゃいなかったみたいだ。好都合。
でも、ほくそ笑む心とは裏腹に、ほんの少しだけ不可思議な失望感。またいつもの、醒めた心地が蘇る。なんなんだろうね、本当に。私達って、結局どこまでいっても意味不明。
そう感じながらも、掴んでいた腕を離すと、新さんもそろりと私の腕を解放してくれる。そうしてその腕が下がる瞬間、けれどまた、きゅ、と繋がった。たった一本の人差し指が、縋るように。
「……なに」
「アブラアムさん。お邪魔しました」
「お、おう?」
私の怪訝な眼差しは無視して、新さんはアブラアムさんの方を向いて淡々と告げ軽く頭を下げた。アブラアムさんはさっきから似たような返事しかしていない。
てか、出て行くのはいいんだけどなにこの指。まだ何かあるんだろうか。引こうとした瞬間、それは逃さないとばかりにぎゅ、と握り締められた。
「新さ」
「転移」
「え」
無表情な新さんの呟きと同時に、ぱあ、と仄かな光が私達の周りに円を描いていく。瞬く間にそれは見覚えのある文様を描き、私達を包み込む。
あっと思ったときにはもう遅かった。アブラアムさんを振り返る暇もなく、私はまたデジャヴのように見覚えのあるあの目も潰れるような光に包まれ、その中に全てをかき消されてしまった。何を言う間もなく、本当にあっけなく。
ちょ。
「っとお! なにここなんなのなんでこうなるの!」
「俺の部屋」
「ちがう!」
いやそうだけどそうじゃなくてああもうわざとやってんなコイツ。
いつまでも繋がれていた指を今度ばかりはと思いっきり振り払い辺りを見回すと、確かにそこは見覚えのある光景だった。以前何度も忍び込んだことのある新さんの執務室。まだ数日しか経っていないとはいえ、そこはあまりに代わり映えしていなかった。主不在のままに、そのまま残していたかのように。
ふうん、なるほどね。まあ、私には関係ないけど。そんなことよりも、勝手に飛ばしてくれた理由はなんなのですかねえ、新さん?
ぐるりと振り返ると、新さんは悪びれもしないいつもの表情に戻っていた。それが益々私をイラつかせる。
「私まで出て行くとは言わなかったんだけど」
「俺だけ出て行けとも言わなかった」
解れよそれくらい! と思いはしても口にはしない。解ってやっているのは見え見えなので、言ったところで無駄な屁理屈合戦に及ぶことは明白だ。
とはいえなんて横暴で強引なことか。今までの新さんからはとても考えられない暴挙だ。私の承諾もなしにことに及ぶなんて。今までなら決して逆らわず私の意に沿っていたのに。彼は本当にあの新さんなのだろうか。そんな馬鹿げた疑念さえ浮かんでくる。
想像もしえなかった彼の急変に、不本意ながらも呑まれかけてしまっている。それどころか私は捉えきれない彼の急変に恐れさえ――。
いや、これじゃいけない。私は私。しっかりしなきゃ。自分を叱咤するべくゆるゆると首を振り、最初のときと同じように新さんを睨み付けた。それでも、新さんは同じようににらみ返してくることはなかった。はあ、もう、なんなのさっきから。調子狂う。
「で。無理やり連れて帰ろうって?」
「いや。ひとまず話を――、その前に言っておくけど、その扉は内側からは開けられないようにしてあるから」
ちっ。ちろりと扉の方に目を向けたのを目ざとくも捉えた新さんは先手を打つ。
全く不利だ。思うが侭に手繰られていることが腹立たしいけど、この場合拒否権はないってことか。まあそれも元より望むところ。ひとまず強制送還を逃れただけでもよしとしよう。
「解りました。お話、ね」
言うと、新さんは無言で頷き窓際に寄る。壁一面に張られたその窓には、そこに沿うようにしてテーブルと二脚の椅子が置かれていた。新さんはその片側に座り、向かい側の椅子を眼差しで指し示す。それに習い私も座った。
そこで、初めて気がついた。そこからあの庭園が一望できること。あの噴水も、白い薔薇の生垣も見えること。あの庭園が、息を呑むほど精錬とした美しさを湛えていた、ということ。そんな視界の隅には、あるはずものがないその透き通る一輪挿しが、所在投げに置かれたままだった。