カエデとお呪い
アブラアムさん達と過ごした長くて短い十日間は、私にとって、殆ど遊んでいるような感覚だった。新さんが来るのも予想していたから、というのもあるし、何より現実味が無さ過ぎたせいもある。殆ど絶望的な状態で都合よく助けられてまんまと衣食住確保して、その上楽しい生活、なんて夢でしかない。全てが遊び感覚で、まあなくなってもしょうがない、なんて考えで彼らと過ごしていた。寧ろそれは臆病な予防線だったんだけど、アブラアムさんはそんな私に何も言わなかった。
どうして許してくれるんだろう。ありがたいと思う前に理解できないから、本当にどうしたらいいかわからなくなる。人が優しくするのには理由がある。少なくとも私は、理由無しに誰かに手を差し伸べようだなんて思わないし思えない。いつも打算的に損得勘定で考えているから、余計に解らない。
どうしてそこまでしてくれるの。どうしてそこまで想ってくれるの。どうしてそんなに、想えるの?
ねえ、アブラアムさん。新さん。貴方達のその清らかさは、一体どこから溢れ出てくるの。心根の醜い私にはそれがどうしても、理解できない。どうしても、解ることができない。それがとても惨めで申し訳ない。たまらなく、罪悪感を覚えるの。
「んー、でもなあ。それとこれとはまた話が違う」
「はい?」
完全にアブラアムさんのお人よしペースに飲まれて私が黙り込むと、アブラアムさんは何か考えるように言った。そのまま私の腰をひょいと掴んで膝から下ろすと、子供を宥めるように頭を撫でながら私の顔を覗き込んできた。
「一度、会ってこい。その弟と」
ひくりと、勝手に眉根が寄る。私が閉口し返事をしないことも予想していたのか、アブラアムさんは苦笑しながらも根気よく私の頭を撫ぜる。
「カエデだって、このままでいいとは思ってないんだろう。一度くらい、前からぶつかっていけ」
――わかったようなことを言う。そんな苛立ちを僅かに感じながらも、それでも私は否定も肯定もできなかった。
解っている。この十日間で、解りすぎるほどに思い知らされた。私は新さんの姉をやめることはできない。少なくとも、今はまだ。身体が遠く離れたところで、心の中には新さんが住まっている。私の中の彼はその事実をこの十日間で嫌というほどに私に知らしめてきた。まるで果てに逃れた虜囚のように、今日来るか明日来るかと、恐怖にも似た思いに追い立てられていた。いつも、どんなときも。
どんなに気づかない振りをしていても、それが消えてくれることはなく、それどころか日を増すごとにそれはひどくなっていった。確たる脅威があるというわけでもないのに、人ごみの中に黒髪を見てはどきりと鼓動が胸を打ちつけ、アブラアムさんの人以外にカエデと呼ばれることさえいやな緊迫感を私に植え付けた。
馬鹿みたいだ。あれだけの浅慮な行いをしたにも関わらず、その実私はメッキが剥がれ落ちていくように存外臆病な自身の心を知った。悪事を働いたわけでもないというのに、どうして架空のものにそこまで追い詰められるのか。
答えなど簡単だ。アブラアムさんの言うとおり、あれで終わりなわけはなかったからだ。それは最初から解っていたし、だからこそアブラアムさんとの生活も短期間限定のお楽しみでしかなく、次こそが最終ゲームだと覚悟していたはずだった。けれど思った以上に彼との生活が楽しくて、楽しすぎて、覚悟よりも依存と杞憂の方がぶくぶくと膨らんでいった。
言ってしまえばこの生活を失くしたくない。それだけだ。手放しの幸福にどっぷり嵌まり込んで、結局は自分自身を追い詰めた。お笑い種だ。現時点で言えば私は新さんに勝ってなどいない。むしろ今は劣勢の一途を辿っている。辛うじて繋がっているのだって、それは、今アブラアムさんの傍にいるからだ。きっと一人でいたならあの場であっけなく陥落していただろう。惨めに、滑稽に、なんの面白みも無いままに。
私は結局その程度の人間。あのチートの弟に、叶うはずも無い。最初から。そう、最初から。解っていた。ずっとずっと、始めの頃から。でも。それでも――。
目を閉じて、頭に乗るアブラアムさんの手を捕まえた。両手で握りしめると、当たり前のように返してくれる。この、暖かさ。これ。これを知ってしまえば、例え敵わなくても、夢を見る。見てしまう。
「会ったら、最後になるかもしれないのに?」
離れたくない。離さないでほしい。ここにいたい。このままでいたい。
縋るような情けない声で、言ってしまった。この上なおも彼に甘えようとする自分の愚かさが恨めしい。それでも抑えられない。私は今、馬鹿馬鹿しいほど、世界で一番弱い。
「逃げたんです。私。それ以外に方法が見つからなかったから。だって勝てるわけない。今まで真正面から向き合って一度も勝てたことなんてなかった。勝つ見込みもないのに挑んでいたのは、失うものがなかったからです。でも今の私は、」
失うものが、ありすぎる。そしてそれを失うことが、この上なく怖い。諦めて奪われるくらいなら逃げたほうがマシだ。今までそうしてきたように。どんどん萎縮していく私の心。ちっぽけで、愚かで、どうしようもない。ひとかけらの輝きさえ見出せない。
どうしてこうなっちゃったんだろう。いつから、こうなっちゃったんだろう。私はちっとも、開放されてなんかいない。
「こら」
「う」
握っていないほうの手で、わしっと頭をつかまれた。そのまま強引に顔を上げさせられると、澄んだ空色の瞳が視界に飛び込んでくる。芯の強い、心が震えるような、力強さを湛える眼差しだった。
「弱気になるな。お前それでもアタラの姉か。自分で言っていただろう。正真正銘アタラの姉だって」
「私は、」
新さんの姉なんて肩書きだけ。だから苦しかった。だから結局私はこうしてどこへ逃れるとも向かうともできず――。
否定しようとする私の言葉を遮るように、アブラアムさんは首を横に振る。
「お前は強いよ。確かに弱さもあるだろうが、それでも強い。俺はそれを、あのときにもう知ったんだ」
あの時、って?
何を言われているのか解っていない私に説き伏せるようにして、アブラアムさんが私の頬を包み込む。しっかり、言い聞かせるとばかりに。
「いいか。お前は確かに貧弱だし実際弱気になると途端に後ろ向きになるけどな、でもそれだけじゃあないんだ。弱さなりの強さってやつがお前にはある。どうにかできそうなのに、実際そういう気を起こさせない。お前にはそういう強さがあるんだよ」
そんなの。強さって、言うんだろうか。それはただの防衛本能でしかないとも思ってしまう。自己防衛だけは得意だった。卑屈な自分を守るために、いつも必死だったから。
「私は、臆病なんですよ」
「誰にだって怖いもんはある」
「ずるいんですよ。自分のためなら何でも利用する」
「それだって負担がないわけじゃない。耐える強さがなければどうしようもないだろう」
耐える。そう、耐えてきた。ずっと。何かからずっと、耐えてきた。耐え切れなくなるまで。ぐらぐら揺れる。心が。私。私は、どうすれば――。
揺れる私に瞳を、アブラアムさんの空が捕まえる。雄大な、力強い、清らかさが。
「お前は強い。それでも怖いなら俺がついていると思えばいい。今度は俺が、お前の味方になってやるから」
私。の、味方。
――味方。
途方もない大きな、魔法の言葉が私の心を包み込む。信じられないほどあっけなく、私の弱さを心強さに挿げ替えた。
私の、味方。アブラアムさんが。吃驚するほど頼りないのに、半面根拠のない頼もしさを感じる。まるで、そうだ。きらきら光る、何かを貰ったみたいな。青臭い言葉だと、希望、っていうんだろうか。ああ大丈夫なんだな、って理由もないのに不思議な確信が持てる。おかしな、気持ち。重たい心が一瞬にして、元に戻ってしまった。笑えるほど、簡単に。
「……しょうがないですねえ。少々心もとない味方ですけど」
「なんだと」
わしわしと頭をかき乱されるのに抵抗しながらも、こみ上げてくる笑みを何とかかみ殺す。嬉しくてたまらないなんて知れるのはなんだか遠慮したい。でも私が少し笑ってしまっているのに気づいたのか、アブラアムさんは仕方ねえなあなんて顔で笑い返してくる。
ああもう。可愛い。アブラアムさんの癖に。
思わずにやりと暗黒な笑みを浮かべると、びびっと引かれる。それでもと強引に詰め寄って、椅子に座って引くに引けないのをいいことに、その男臭いお顔に顔を寄せてうっとりと囁いた。
「お呪いを、くださいませんか」
「呪い? そんなのできんぞ俺は」
「いいえ。できますよ。ここに、一つ。いつものように」
ちょん、と人差し指でおでこを指す。わお大胆。にっこり不敵装っておりますが内心羞恥の暴風雨吹き荒れております。これで断られたら大型並みの荒れ模様となること必須。生かすも殺すも貴方次第なんですアブラアムさん。本当に。
笑いながらもどきどきと返事を待つと、了承の代わりに無骨な指が、さらりとこめかみを撫ぜた。
「そんなことでいいのか」
「それがいいんですお願いします。あ、口でもいいですよ」
言っちゃったああ。本気じゃないけど願望的にはありますよ!
若干目の色変えつつも笑って言うと、あほか、とアブラアムさんの手が私の頭を包み込む。なんだかいつも以上にどきどきしちゃって、なんとなく目を閉じてその時を待つ。
これってなんだか、シチュエーションがあれみたい。はー緊張してきた。おでこに神経が集中しているのか、さらりと前髪を掻き分けるその指先に反応して無意識に身体が揺れる。ばれたかな。ばれてないよね。あー早くしてほしい。でも緊張する。
そのどきどき感がピークに達した頃、ふっと、吐息が額を撫ぜた。その刹那に、押し当てられる、ひどく優しい温もり。涙の滲むような、そのひと時。
私の中の、何かがぴたりと、どこかに納まった。最後のピースのように、ぴったりと。離れていくその瞬間に絶対的な何かを見出しながら、私の中ですとんと、心が落ち着いた。あるべき場所に納まるように。
――よし、うん。大丈夫。根拠はない。でも、大丈夫。私は、大丈夫。
「えへへ。ご馳走様です」
「それは普通男の台詞だろう」
何故だかちょっと照れたのか、アブラアムさんは手を離して目を明後日の方向に背ける。
うー可愛い。むしろごついほうがこういうときの可愛さは倍増なんじゃあないだろうか。ハイリスクハイリターン的な。うん、そうに違いない。にまにま笑ってそれを眺めつつ、私は一歩後退して、アブラアムさんから離れた。
もしも、これが、最後だとしても。それはそれでかまわない。そうでなければいいと願っているけれど、不思議と腹をくくっている自分がいる。
うん、よし。私は一人で立っている。私はカエデ。一条楓。大きく息を吸い込み、ゆっくりを吐き出す。
これよりは、最終戦。新さんと私の、恐らくは最後のゲーム。
長らくお待たせいたしました、読者の皆様、作者の野郎。いよいよ最後の目白押し、姉弟喧嘩の幕開けです。目を皿にして、とくとご観覧くださいませ。私、全力で挑ませていただきます。
すっと気を引き締め、戸口に向かう。ゆっくり、ゆっくり、進む。緊張感はあるけれど、不思議と不安はない。
さあ、スタートの合図。
ドアノブをしっかり握り、後ろへと引いていく。そこに居るはずであろうその人を見据えるべく、私はまっすぐ、前を向いた。