カエデと涙出禁
「で、なんでこうなるんだ……」
参ったなあとばかりに頭をかくアブラアムさん。困らせてるっていうのは解ってるけど、もう開き直ってしまった。大体この人は私を泣かすのが上手すぎる。付け入る隙があるからこういうことになるんだ。少しは反省してほしい。そういうわけで、まだ降りてあげない。この膝の上からは。
「アブラアムさんが、悪いんですよ」
「だからなんで俺なんだよ。いつもそうだけどさあ」
「嫌なんですか」
「嫌っていうかさあ」
物凄く困りきった様子で、でも私を無理やり降ろそうとかそういう気はないらしい。ただ情けない声をあげるだけ。私はというと、そんなアブラアムさんの煮え切らない態度を利用して、ほろほろ泣いたままアブラアムさんを椅子に座らせてまんまとその膝の上に自分も座っていた。一度やってみたかったの、これ。こんな時じゃないとできないので、ここぞとばかりに挑戦してみた。
ああ、なんかいいなあ。思ったとおり安心する。このまま抱きしめてくれてもいいんだけど、彼が自発的にするとは思えない。全く煮え切らない男だ。そういうところがまた可愛いんだけど!
久しく萌えつつ、アブラアムさんの腰に手を回した。また上から「お、おい」とかうろたえた声が聞こえる。煽るだけですアブラアムさん。
「全くどうしたんだ、お前? さっきの奴はなんなんだ。何でお前あんなに怒ってたんだ」
「カエデ」
「あ?」
怪訝な顔を浮かべるアブラアムさんに、ずいっと下から顔を近づける。のけぞるアブラアムさん。ちょっと。逃げると追いかけたくなるんですけど。あー、いちいち萌える。
「カエデって呼んでください。あとずり落ちそうだからちゃんと抱きしめてください」
嘘だけど。むしろ頑張ればもう一人座れるんじゃないの? ってくらい余裕あるけど。もちろん誰にも座らせない。今日からここは私の特等席! イエー!
「か、カエデ」
「はい」
にこーっと笑うと、アブラアムさんの腕がおずおずと私の腰にまわる。抱きしめるっていうより支えるって感じだけど、まあいいか。ちょっと密着感が増した。役得役得。ついでとばかりにアブラアムさんの暖かい胸に擦り寄ると、吃驚したようにアブラアムさんが身じろぎする。そんなに邪険にしなくてもいいでしょう。少し拗ねつつそれでもその胸に頬を預けて、この心地よさに目を閉じる。
ああ、癒しだなあ。あんなにささくれてた心が一気に浄化されていく気がする。アブラアムさんは私にとって天使なのかも。こんなにごつい天使、すぐ天国からクビにされそうだけど。
純白の羽が生えたアブラアムさんを想像してうぷぷ、と笑うと、頭に何かが触れた。見上げると、私の頭をやんわりと撫でながら、アブラアムさんが見下ろしている。笑ってる。とっても優しい顔で。
「落ち着いたみたいだな」
う、わ。
また。まただ。それ反則だってば。そんなに優しく笑いかけてくるの、反則。ダメ。途端に顔が見られなくなって、ばっと俯いて隠すようにアブラアムさんの胸に顔を押し付けた。多分今、私、耳どころか首まで真っ赤だ。うわあ隠れたい。でもここから降りたくない。
ぐいぐい頭を押し付けてると、アブラアムさんが擽ったそうに笑う。その振動が私の身体にも伝わってきて、どきどきしてくる。ああ、もう、なにいきなり。なんなのこのやるせなさは。
「カエデは変な奴だな」
穏やかな声で、時々私の髪の毛の感触を楽しむように梳きながら、アブラアムさんが言う。やっていることは嬉しいんだけど、言っていることはいただけない。見上げてじろりと睨んでみると、可笑しそうに緩むアブラアムさんの眼差しとかち合う。
もう、またそれ。だからそれはずるいんですって、アブラアムさん。ああもういつまでたっても火照りが収まらない!
「へ……変ってなんですか」
「ああ。最初はすげえ生意気で大人びたガキだなと思ったけど、かと思えばこうやって本当にガキみたいに甘えてくるしさ」
「私アブラアムさんが思っているほど子供ではありませんよ。歳も十七であと三年程度で二十歳です」
そうか。と目を細めて微笑ましそうな顔をするので、胸もそれなりに育ってるんですからね! 触って確認してもいいんですよ! とむきになって言うと、だったら少しは恥じらいを持て、と一蹴されてしまった。
くううアブラアムさんの癖にアブラアムさんの癖にアブラアムさんの癖に! 十代ぴちぴちのおっぱいに触ろうとしないなんて、そんな、そんなの、いや、触ったらロリコン認定かな。どうなんだろう。別に私はいいんだけど、もしもアブラアムさんがそういう嗜好の持ち主だったとしたらそれはそれでいただけない。ううん、葛藤。
「おい、カエデ」
「はい、なんでしょう。おっぱい揉む気になりました?」
「ばか! 違うだろう。はぐらかすな」
真摯な声が、私を嗜める。それでも私は反省するどころか、妙に醒めてしまい、冷然とした顔をアブラアムさんに曝け出してしまう。
新さんが絡むといつもこうだ。心が心でなくなって、無機質のようになってしまう。温度もない柔らかさもない、鉄の塊みたいな冷たい質感。まるで何も感じないみたいに。ううん。多分、感じない。感じなくなってる。それだけに対して言えば。
それでもアブラアムさんは、様子の変わった私に気づいているのかいないのか、変わらず宥めるように頭を撫でてくれる。ほんの少しだけそれが心苦しい。強いて言えば、それだけだけど。
「さっき居たアイツ、もしかしてあの、」
「そういえばアブラアムさん!」
努めて明るい声で遮り見上げると、吃驚したようにアブラアムさんは目を丸くした。入り混じる困惑、はスルー。スルーは得意。
「私ねえ、実は家出してきたんですよ。もっと言うと、亡命? いや脱世界? まあいいや。とにかく元いたところから逃げてきたんです」
陽気に言いながら、ぶら下がる両足をぶらぶらと弄ぶ。何も言わない、何も言えないアブラアムさんを無視したまま、楽しそうにお話する。いつのまにか戻っている。嘘っこの、上手な微笑み。仮面みたいに動かない。
「何でかって言いますとね? そこに大っ嫌いな人がいたんですよ。もー、嫌いで嫌いで見るのも話すのも傍にいることすらも嫌気が差すほどにね。だから、ね。その人から逃げてきた、っていうか、その人ごと全部捨ててきた、っていうか」
そうそう。捨ててきたんですよ。彼も、彼を取り巻く人々も、そんな全てを忌み嫌う私も、全部ね。捨ててきたつもり、だったんですよ。それなのに。
「でも」
足を、止める。何もかもが馬鹿らしい。新さんがいると思うだけで、あんなに素敵だと感じていたこの世界も濁っていく。止まったつま先を見つめて、何も言わないアブラアムさんの胸に、頭を預けた。
「でも、無理だったみたいです。アブラアムさん、見ましたよね? 私を。ああやって、捨てたはずのものに怯えて、口汚く罵った私。アレですよ。本当の私。今までね、貴方方の前にいた私、猫被ってました。嘘だったんですよ。偽者だったんです」
腰にまわる腕が少しだけ、隙間を作る。それを寂しく感じながらも、反面で当然だと思う自分がいる。
あの時の二の舞だ。慣れたとは言わないけれど、この先待っているものの予想はつく。もう彼は私をカエデとして見ることなんてできない。せいぜい、弟相手にヒステリックになる姉程度のものに成り下がるだろう。
ああ。自業自得だけど、若干胸が痛む。それでも張り付いて取れない笑みをアブラアムさんに向けた。
もう終わりなんです。どうもでした。
「なかなか楽しかったです。でももう新さんにもバレちゃいましたし、ここには居られません。本当にお世話になりました。またお会いすることがありましたら、」
「おい」
「んぎゅっ」
呆れたように、アブラアムさんが遮った。同時にごつ、と真上から拳を下ろされる。い、痛い。手加減したんだろうけど手加減の度合いが足りなさ過ぎて首が縮むかと思った。
おっかなびっくり見上げると、アブラアムさんはじと目で私を見下ろしていた。
「なんかごちゃごちゃ言ってるけどな、よくわからん。あと人の話を聞け。遮るな。勝手に自己完結するな」
「痛いんですけど……」
「おう、痛くしたからな。ちょっとお前は落ち着きが足りない。一先ず俺の話を聞け」
痛くしたって。聞きようによっては萌えるけど、現時点で物理的に痛かった。むっつり顔で口を尖らせると、拗ねるなとばかりに口を摘まれる。だから子ども扱いしないでくださいってば。
「あのな、さっきの奴、アタラなんだろう?」
「……うーむむむむん」
「うん。で、大嫌いで、お前が逃げたい相手なんだな」
別に逃げたいとかそんなんじゃないですけど。排除したいんです。言いたくても口を摘まれているので言えない。はっ。このために摘んでいるのか。うぬぬアブラアムさんの癖に。
手を離せと叩いても、睨んでも、意に介さないアブラアムさんは勝手に何かを納得した素振りでうんと頷き、突然私の肩をぎゅっと抱きしめて自分の胸板に押し付けた。
うわわわわ! 破廉恥! 密着!
「よし。じゃあ出て行くことないじゃないか。ずっとここにいろ」
「……へ?」
にかっと笑って、呆ける私の頭を撫で撫で。いやいやいや、意味解りませんから。なんでそうなるんですか。
「いや、あのですねアブラアムさん……」
「あいつから逃げたいんだろう? じゃあ匿ってやる。ずっとここにいればいい」
「なに言ってるんですか!」
急いで離れようと手を突っぱねたのに、僅かな隙間しかできない。その自分の非力さが今の自分を表しているようで、妙に惨めな気分になってやりきれなくて、たまらない気持ちになる。ああ、もう、思い通りにならない!
縋り付くようにアブラアムさんの服を握り締めて、思いっきり睨んでしまった。
「アブラアムさん、お人よしも度が過ぎると身を滅ぼしますよ。私はね、貴方に気にかけて貰えるほどの人間じゃないんですよ。わかるでしょう? そりゃ、ご厚意は大変嬉しいですよ。けどね、もう少し加減というものを考えてください」
「いや、でも」
「でももなにもありませんよ! どんだけいい人なんですか貴方は! そんなだから私みたいな奴に付け入られるんじゃないですか馬鹿ですか!」
妙に苛々して、アブラアムさんに当たってしまった。しまったと思ったときにはもう遅い。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。気が動転しすぎて、どうもダブらせてしまったらしい。
ああ、もう。この人は新さんじゃないのに。やりきれなくて顔を背けるしかできない。もうどうして。こんなことが言いたいんじゃない。ただ、貴方が、そこまで優しくしようとするから。
「馬鹿はお前だろ。だから俺は安心して付け入れと言ってるだろう、さっきから」
「はあ?」
あーもー、何言ってんだー、この人―。お姉さん理解不明。いやマジで。
「楽しかったんだろう? なら問題ないじゃないか。あいつが来ても俺が追っ払ってやる。それならいいだろう?」
何を言っているんだこの人は。私みたいな厄介者を、置いておく? ここに? まだ? ずっと? 追い払うって、そんな大層なこと。あの人一応英傑とか呼ばれてた人、ですよね? わけが解らない。
呆然としながら、それでも辛うじて「なんで」と呟いた私に、アブラアムさんは言った。なんてこと、なさそうに。
「だってお前泣くだろ。カエデが泣くとたまらん気持ちになるからな。それだったら笑っていたほうがいいに決まってる。だからここに居ろ。な?」
名案だろ。そう付け足して、アブラアムさんは満足そうに笑った。
その笑顔を見てまた胸からこみ上げてくるものがあったけど、私はそれをなんとか我慢した。だって泣くとアブラアムさんが困るって言うから。泣きたくてたまらないのに、なんとか笑って我慢したよ。
あーあ。とうとう涙も出禁だよ。ほんと、アブラアムさんには敵わない。そう思いません? 皆さん。