カエデと蜜月の世界
そ、れ、か、ら。
これは、なんだろう。蜜月、って言うのかな。言わなくても、言いたいな。蜂蜜みたいに甘ったるくて、とろりと心を溶かす、目も眩むように眩しい黄金色の日々。大げさに例えると、そんな風に形容したくなる、素敵さ満点の時間を過ごした。
朝、は恒例のようにアブラアムさんとすったもんだの抗争を繰り広げて、お昼はお知り合いになったご近所のおばさんにお世話されつつお手伝いして、夜は時々お招きされてお招きしたりして親交を深めたり広げたりして、また地獄の歯磨き、アブラアムさんと時々言葉の通じないお話、でこちゅー、おやすみカエデ、おやみすみアブラアムさん。
桃色の蕾が増えていくような、そんな楽しみが増える日々。嫌なこととか、困ったこと、哀しいこと、やるせないこと、もある。でも自分や誰かを嫌ったり呪ったり疎んだりするわけじゃない。そんな辛さだけは、まだ無い。持たないようにとも思えるようになったし、そうできるようにもなった、気がする。
劇的な変化があるわけじゃないし、諸手を挙げて喜べる幸福があったわけじゃない。でも、なんだろう。言うなれば、癒される、っていうのかな。手放しの心で過ごすことはこんなに心地いいことなんだって、知れたの。時々無性に泣きたくなるくらい、穏やかで優しい時間だった。なにがなんだとか、考えずに済んで、そんな必要も無くて、ただそのときの自分を享受していられる時間。不自由なことは沢山増えたのに、何故かその分心は自由だった。言葉が通じなくて大変なことは山ほどあったけど、通じなくても伝わることだって沢山あった。それを伝えるために一生懸命になる自分も好きだった。
楽しいの。もどかしいけど、それが伝わったときの喜びは何にも換えられない。まるで自分自身を脅迫するようなあの日々が嘘のようだと思えるくらい、何もかもが反転した世界だった。それこそ本当に、異世界なのだと納得できるほどに。
夢を見すぎていたのかもしれない。舞い上がって、都合のいいことしか見ていなかったのかもしれない。それでも嬉しかった。それでも手放したくなかった。仮初めでも、本物より大切にしたい現実だった。
それでね。何よりも嬉しくて大好きになったのが、やっぱりこの瞬間。
「カエデ」
名前を呼ばれるとき。ときめくみたいに、心が跳ねた。きゅ、って締め付けられた。呼ばれるたびに甘い心地がするの。蕩けそうになるの。まるで本当に乙女だよ。本当に一瞬で舞い上がれるんだから。どうしようもなく嬉しくって、困るほどなんだから。なんでだろうね。呼ばれるたびにそんな気分になって、同時に泣きたくなる。ふるふると心が震える。忙しなくって困るなあ、って思うんだけど、でもやっぱりそんなこと本気では思ってない。
嬉しすぎて困るなあ、なんて。私、本当に調子に乗ってる、と自覚する。他人から見たら馬鹿みたいだろう。以前の私が見たなら興醒めして一笑に付していただろう。でもそれでも構わないって思う自分がいるから、とことん毒されてしまっていたんだろう。出来上がり始めていた、その夢のような日常に。嘘みたいに彩られたその日々に。
たった十日間。まだ、たった十日間だけ、なんだけどね。それでも、長くて短いその期間。一日一日が濃密で、沢山のものにあふれて、次の日を迎えるのがもったいないくらいに、それぞれが素敵な一日だった。これが幸せって言うなら、これ以上はいらない。これ以上はいらないから、だからずっと続いて欲しい。それでいい。それがいい。これが最上だって思えるから、だから、それがいい。
そんなことを、願っていた。心のどこかで、ずっと、ずっと。一分一秒休まずに。
「カエデ、××××、××××××?」
一日の終わりになると、アブラアムさんが私を呼ぶ。私はすぐにアブラアムさんが呼ぶほうへと飛んでいって、すぐ傍に腰掛ける。それがベッドの上であったり、テーブルを挟んで向かい合わせであったり、そんな風にして。
彼は私に言葉が通じないってもう知っているくせに、それでも私に語りかけた。私は彼が何を話しているのか判らなかったくせに、それでもうんうんと相槌を打った。その時間が一日の中で何より好きだった。彼が何を言っているのか、話しているのかなんて解らなかったのに、なのに私は彼の話を聞くのが好きだった。ずっと聞いていたいと思うくらい、好きだった。彼が私を見て、私に向かって語りかけて、ほんの時々「カエデ」と私の名を挟んだりすることが、たまらなく好きだった。
私は多分、恋をしかけていたんだろうと思う。それがその素敵な日々に対してなのか、私を示してくれるその名に対してなのか、それともアブラアムさん本人に対してなのか、それは解らないけれど。もしかしたら、その全部かもしれないけれど。
でもそんなおままごとな感情は嫌いじゃなかったし、持っていて心地が良かった。だから受け入れこそすれ否定なんてしなかったし、見ない振りもせずただあるがままを感じていた。それがもっと育っていけばいいと、密かに願いながら。他愛も無いとは思いつつもこっそりと、けれどなんだか必死なほどに、願っていた。どうかどうかずっと続きますように。この、まだ小さな私の世界が育ちますように。誰にも邪魔されず、大きくなりますように。決して、枯れてしまいませんように、と。
『おやすみカエデ』
これも好き。言わずもがな、でこちゅー。
最初はものすごく戸惑ったけど、今はこれがないと落ち着かない、って思うくらい。額に触れるその温もりはいつもほんのりと暖かくて、柔らかくて、心地よかった。ぽつんと灯るその温もりを抱きながら眠るのが好きだった。
解ってる。アブラアムさんのその唇には何の他意も無い、唯一つだけの感情しか含まれていないこと。解りづらいけれどほんの僅かな、親愛の情が篭もっていること。アブラアムさんの優しさの正体。
それがアブラアムさんの知る誰かと重ねられているものなのか、それとも何かの対象――例えば妹みたいな存在、なんてものに形容されているからなのか、それは解らない。そのどっちかかも知れないし、どっちでもないのかもしれないし、理由があるのかないのか、それすら解らない。
でもそんなこと、私にとっては瑣末なことだ。気にするべきことではない。ようはアブラアムさんがたったそれだけの感情一つで私をそばに置いていてくれているということ。本当はきっと、迷惑だったり困っていたりしているんだろうと思う。でもそれでも私を邪険にしたり無碍にしたりする態度を、彼は一度としてとったことが無い。むしろ私がそこにいるのが当たり前のような態度で接してくるものだから、こっちが時々戸惑うほど。
いいのかな、っていつも思うのに。大丈夫かな、って不安になるのに。それでも一日の終わりにそんな子供だましの口づけ一つで、全部取り払われてしまう。現金で、愚かで、単純で、どうしようもない。
私は、だから、解っている。私は甘えている。この世界にも、この状況にも、アブラアムさんにも。お情けで施されているだけのことに過ぎない。そうだとしても、子供のように無防備に、手放しに、それに甘えて擦り寄っている。自分がなんなのか、どうしたいのかどうありたいのか、一体どうしていきたいのか。あれだけ苦しめられたそれそのものすらも、忘却しかけるほどに。本当に甘えていた。それは決して、無くなったわけではないというのに。
この世界には、鬼というものは存在するのだろうか。もしくは、それに順ずるもの。妖怪、悪魔、魔物、魔族なんてものであったり、或いはその頂点に君臨する象徴――魔王、とかね。
生憎私は、未だそれらの類に遭遇したことが無い。ここに住む人たちにそれらの類への怯えや恐怖などという片鱗は見られないし、かといって言葉の通じない私にはただでさえ乏しい知識をさらに得るなどそう容易くはないためどのような現状なのかも理解できていない。
いるの? いないの? それとも絶滅した? 絶滅させられた? いるけどここにはいないだけ? どうして? 守られているから? 排除されたから? それは一体何が、誰が弊害になったの?
何一つわかりはしないし知ることもできない。せいぜい解ることといえば、そうだな、今日はこんな感じ。
「温泉か……」
温かいシャワーの正体。
どうやらお仕事がおやすみの日らしいアブラアムさんは昼間から私を家の裏手に連れて、井戸のようなものを示した。井戸といっても別に日本の大穴のある井戸じゃなくて、丸い石積みの円柱のようなそれに、取っ手のある仕掛けがついていた。中が覗き込めるような構造にはなっていない。
その両手で掴んでもまだ重そうな大きな取っ手をアブラアムさんが片手でレバーのように何度もきこきこ上げ下げを繰り返して、キュッと音が鳴った途端にそれを止めた。私はそれが何をしているのか始めはよく解らなかったんだけど、そこから繋がっているパイプのようなものが家の中へと繋がっているのを見て、やっと気づいた。
あーあー。なるほど。ここからくみ上げていたのね。しかも手動だったとは。きっと、多分、下からくみ上げたそれをあのお風呂場のシャワーのタンクに溜まるまでこのレバーを引き続けると。
やってみろ、と示すので渾身の力を込めて引いてみたけど、半端なく重かった。両手で全体重をかけたのに、半分までしかレバーが降りてくれない。私が特別軽いんじゃなくて、尋常じゃないくらいこのレバーが重いからだ。それでうんしょこらしょと顔を真っ赤にしてレバーを下げようとする私を眺めていたアブラアムさんは面白そうに笑って、そのまま憮然とする私を引き連れてまた歩き出した。
で、連れて来られたそこは今度は四角い大きな穴。穴って言うか、囲い? 昼間なのに湯気が立っているのが一目で解るそれは、人一人が入り込めそうなほどに大きい。中には吊り下げられた籠がいくつか入っていて、ぼこぼこと湧き上がるそのお湯らしき囲いの中でゆらゆら揺れている。
アブラアムさんはその籠を引き上げて中から白いものをひょいと取り出すと、私に一つよこしてくれた。すごく熱くて取り落としそうになったけど、なんとか乗り切った。それはゆで卵。いい具合に湯だった、半熟の美味しいゆで卵だった。
なるほど、ここには温泉があるんだ。地下からそれをくみ上げてシャワーに使っていると。だから電気もないのに暖かかったのか。便利だ。電気もないのに便利だというのもこれまた不思議な話ではあるが、私はそのゆで卵をまぐまぐ食べながらしきりに感心してしまった。
温泉かあ。温泉ねえ。島国日本の古きよき伝統かとも思っていたけど、そうでもないもんだね。ここがどういう環境なのか知らないけど、現地の人は上手にそれを利用して生活してるんだ。うーん、なんだか地理の勉強をしている気分。
うんうん頷いて食べている私に、既に二口で卵を食べてしまったアブラアムさんが何かを語りかけてくる。私はいつものようにうんうん頷くんだけど、アブラアムさんはいつもと違い、なんだかもどかしそうに首を振る。
なんだろう。何かを伝えようとしているみたい。いつもそうなんだろうけど、今日はやけに伝えることに固執しているように見える。私を指差すので、私? と首をかしげると、そうじゃない、と首を振る。その温泉の囲いを指差して、私。私? と聞けば、私じゃない。私じゃないけど、私、と温泉。
私は身体を庇うようなポーズで、腰をくねらせてみた。
「一緒に入ろうって? やーんアブラアムさんのエッチィ! まだちゅーもしてないのに裸のお付き合いは気が、は、や、い、ぞ!」
「誰がそんなこと言ってる! ……まったくお前は人がせっかくいいことを、」
アブラアムさんが憤慨した。私の言葉にすぐに真っ赤になって反応して。
反応、して?
それに気付いた彼も、はっと顔色を変える。
「……おい、お前言葉が」
言葉。
アブラアムさんが何を言っているのかが、解る。そしてアブラアムさんに私の言葉が伝わっている。それが示すことはつまり――。
「姉さん」
デジャヴ。だけど今度こそ聞き間違いようのないその声が、捨てたはずのその呼び名を口ずさんだ。