カエデとほんの小さな気持ち
「――ひ、」
ひゃーあああああああもおおおおおお。
思わず口から漏れた言葉をなんとか心の中に押し止めて、さほど広くないベッドの上でごろごろと右に左に悶絶する。その度にベッドがぎしぎし軋むため、はっと我に返りぴたっと止まる。そしてまた思い出してひああああああああもおおおお。以下繰り返し。
なーんでこんなことになっているかというと、あの、あれ、あ、あ、あああぶ、アブラアムさんが悪い。あの人が悪い。あの人がいけなかった。うん、もう。
ひひゃああああああああもおおおおおうおうお。
つまり、遡るとほんの数分前のことになるんだけど、あの後――――。
どうにも、おかしい。この異世界に留まってから、涙腺が緩みっぱなし。というか、頭のねじがはずれている、というかなんというか。
人前で泣くとか、大っ嫌いなのに。今まで色々あったけど他人の前でも新さんの前でも絶対に泣かなかった。泣くのはいつも一人きりになってから。悔し涙ばっかりで泣いてるうちにすぐ馬鹿馬鹿しくなって勝手に治まっていたものだけど、今は寧ろどうやって治めるのかとんと見当もつかない。本当に困る。勝手に出てきては涸れるまで止まらないんだから。
なんだかもう私の涙にも慣れたのか、それとも泣き虫認定されちゃったのか、アブラアムさんは慌てることなく私を落ち着かせるまで根気よく相手をしてくれてるし。調子が狂っていつのまにか涙も引っ込んでしまった。
「カエデ」
涙と一緒に髪の毛もあらかた乾いた頃、アブラアムさんがぽんぽんと枕を叩く。
寝ろってこと? でもここってアブラアムさんの寝床なんじゃあ。心なしかおっさん臭い、いや男臭い気がするし。いや寧ろここからピンクモード突入? アブラアムさんと? 嘘嘘、それは勘弁。
冗談はともかくさすがに寝床占領は悪いとジェスチャーで断ってベッドから降りようとするも、アブラアムさんに小突かれて難なくベッドイン。あっという間に枕に頭が沈み込み、ご丁寧に掛布を肩まで引き上げられてしまう。
もう、ゴーインなんだからあ。じゃあ一緒に寝る? とばかりに掛布を広げてさあどうぞとしてみるものの、もう私のノリに耐性ができてしまったのか、アブラアムさんはハイハイもういいからと広げた掛布をきっちり元に戻してくれた。ちっ、つまらん。また次のパターンを考えるとするか。
そんな企みを頭の中で組みかけたとき、アブラアムさんが、私の髪を撫でるように、梳いた。
「××××、カエデ」
余談、だけど。
アブラアムさんは、クリーム色に似た金髪で、水色の目をしている。熊さんみたいに大きな体躯の癖に、瞳は案外つぶらで可愛らしい。外国人らしい高い鼻筋に、ちょっと厚ぼったい唇。顎には無精髭がちょっと生えていて、きっとそれが彼を余計に老けさせているに違いない。
それでね。
そんな、彼の顔が、近づいたの。近づいて、私の頭の上に屈みこんできて、男くさい立派な喉仏にうわあって目を取られている隙に、ちゅって。額に押し当てられる、意外と柔らかい、あの厚みのある唇。
それで、さりげなく頬を一撫ぜしたアブラアムさんは天井にかけられていたランプを取って、颯爽とそこから去っていった。多分、彼は、おやすみって言っていたんだろうと思う。
でも、でもね。なんなんですかああのでこちゅーはああああああ。
と、いうわけで、目下ひゃあああもおおおおう中なのです。
だってだってだってなんでいきなりあんなあんなあんなことするとかもう不意打ちどころの話じゃない。まさかアブラアムさんからフラグが立つとか誰が予想しました? しないよね。するわけない。
というかあの人ただのお助けキャラでしょ。そこんところどうなの作者。というかそれを知ってどうするの私ああもうなんかまんざらでもない自分が一番わからない。
ていうかまんざらでもないとか向こう絶対そんなつもりないし。よくあるあの外国人のおやすみのちゅーみたいなノリに違いない。絶対そうだ。
くそうアブラアムさん天然誘い受けなのか。襲って欲しいのか。そうとなれば私は攻めの姿勢も辞さない覚悟ですが。ご期待に添う気満々ですが。ああもう混乱しすぎて自分が何を言っているのかさえ解らなくなってきたああもおうきいいいいい。
「……バカ」
ぼそっ、と口から漏れる。アブラアムさんじゃない。私。私、が、馬鹿。
なんか、もう、呑気すぎる、っていうか。気持ちが自由になった途端、これだ。ちょっと暴走気味なんじゃあ、ないだろうか。調子に乗っているというか。私、こんなキャラじゃなかったし。
もう本当に、前とは違う意味で自分がわからない。いったい何が本当の自分だったんだろう。今の私って、なんなんだろう。しかもこの意味不明な自分が結構、嫌じゃないし。気づけば、にやにやと締まりのない笑みが口元に浮かんでいる。何が嬉しいんだか、いつの間にか哀しい気持ちも泣きたい気持ちも切ない気持ちも吹っ飛んでしまっている。
むしろ暖かい。心の中がぽかぽかしてる。変なの。でも、なんだか楽しい。楽しくなってきた。まだ何かが起きたわけじゃない。でも、ほんの少しだけ、前とは何かが違う。気がする。そしてその変化が嫌じゃないし、嫌いじゃない。むしろ嬉しい。何が、ってわけじゃないけど。何がってわけじゃない、けど、何かが嬉しい。何かが、きらきらしてる。私の心の中で。
「……ふふ」
いつかの時のような笑みが漏れる。一人きりで泣いたあの時。でもあの時とは全く違う、気持ち。
ああ、いいなあ。なんかこういうの、いい。こういうのが良かったの。劇的な変化でなくていい。何かすごいことが起きて欲しいわけじゃない。ただほんの小さなこと。
そう、例えばこんなおままごとみたいな、ときめき、とか。ちょっとだけ予想外な出来事に、簡単に気持ちが揺らいじゃったり。名前を呼ばれて嬉しかった、とか。世話を焼かれてちょっとだけ甘えちゃう、とか。慣れないことをされて吃驚したけど嫌じゃない、とか。こんな、普通の女の子らしい、まるで乙女、みたいな感情。
おかしいの。あんなにどろどろで汚くて真っ黒で醜く見えた私の心なのに、今だってまだそれは消えずにそこにあるのに、まるでもう一つ心があるみたいに、私の中にまっさらな感情がある。少しも汚れていなくて、傷もでこぼこもなくて、染み一つない綺麗な気持ち。
なんて言うんだろう。なんと呼べばいいんだろう。解らないけど、すごく心地のいい感情。ずっと持っていたくなるくらい、ぽかぽかと暖かい感情。素敵。本当に、素敵。こんな私でも、こんな気持ちを持てるんだ。こんな気持ちがあったんだ。嬉しくて嬉しくて、切ないくらい甘い気持ちだ。
ああ、いいな、これ。すごくいい。きっかけがアブラアムさんっていうのが、ちょっとアレだけど。でも私案外ムキムキタイプ嫌いじゃないし、別に面食いでもないし? 相手がアブラアムさんでも、まあいっかあ、って感じ。
ラブコメとか、楽しそうじゃない? もしくはほのぼの系とか。そうやってゆっくり暮らして、一から『カエデ』として自分を作り上げていくの。そりゃ、まだ私の中には化け物みたいな感情があるよ。でも、このまっさらな気持ちがあれば大丈夫、な気がする。これを大事に、時間をかけて育てていくの。そうすればこんな私でももっと真っ当な人間になれるかもしれない。望んだ心を持つ人になれるかもしれない。そうしたら最後には、もしかしたら――。
そこまで考えて、ふるふると首を振った。今はまだ、考えるのは早い。まだ始まったばかりなんだから焦っちゃ駄目。これからだよ。私の物語はこれから始めていくの。これから作り上げていくの。私が望んだ、私だけの、この世界で。
そんな事を思いながら、目を閉じた。ぽかぽかと心地のいい気持ちを抱えていたら、案外すんなり眠れた。何か夢を見たような気がするけれど、私はそれを覚えていなかった。覚えなかった。それがどんな夢だったのかを。
異世界二日目。正確には違うけど、気分的には二日目なのでカウントは2でよろしく、読者の皆様と作者このやろう昨日はよくもでこちゅーなんぞ仕掛けてくれたなでかしたおはよういい朝だね。まあいい朝といっても、朝から一悶着あったわけだけど。
何がってまあ、最初は良かった。洗顔と地獄の歯磨きを終えて出てくると、アブラアムさんが世話焼きよろしくミルク粥というなんか本人からは想像つかない可愛らしい朝ごはんを用意してくれていた。そのときはちょっと新妻を持った旦那気分でそれを頂いたんだけど(ごつい新妻が居たもんだ)、でもその後が駄目。
それを食べ終わった私にアブラアムさんがしたことは、なんだかよく解らないお説教。言葉は解らないはずなんだけど、何を語っているのかなんとなーく読めてしまった。アブラアムさんは私に向かって切々と、女の子一人が金もない寝床もない同伴者もいないままその辺をうろつくなだとか、何があったか知らないけれどさっさと王宮へ帰れだとか、何かしたんなら俺も一緒に謝ってやるから、な? だとかそんなような使い古されたテンプレを飽きもせず大真面目に私へと語ってくれた。
なんで解かるかってアブラアムさんが言いそうなことなんか言われなくても予想がつく。終いには右から左の私に業を煮やしたアブラアムさんが私の手を引っつかんで外に出ようとしたものだからさあもう大変。私の立てた伏線通りくんずほぐれつぎっこんばったん。叩いて殴って蹴って暴れて、怒って喚いて最後には縋り付いて泣き落とし、晴れて私の勝利、強制送還フラグはなんとか回避できましたとさ。
かといって、意地は一人前でもそれ以外は半人前以前の問題。これからの生活の計画も展望も何もないのにただ嫌なものは嫌なんじゃい、なんて筋が通らない話なのは解っていた。
だけど、でも、もう後戻りはできない。ううん、したくない。したくなかった。だから床に手をついて、人生初の土下座で「ここに置いてください」と頭を下げた。アブラアムさんが吃驚して何かを言っても、立たせようとしても、それでも頭を下げ続けた。それしかできなかったから。それしかもう方法がなかったから。
本当に、どれだけこの身が無力かわかった。ただ頭を下げるだけ。置いていたって何の価値もない。むしろ売り飛ばしたほうがいくらか利益があるかないか程度の、自分がそれ程の価値もない存在だと改めて気がついた。
なんでもできる。なんでもやろう。そういう気だけはあったけど、でもそれだけだ。アブラアムさんにとってはきっと迷惑以外のなにものでもない。たった一度の優しさ。ただそれだけだ。私はそれに縋り付いて、彼の良心に訴えかけて寄生しようとしている。それも解っていた。
でもやっぱり、そうすることしかできなかったから。だから本当に必死の思いで頭を下げた。このまま家から放り出されても構わない。矛盾しているけれど、それだけの気持ちで。
でも、やっぱりアブラアムさんは、アブラアムさんで。いつも私の予想の斜め上を行く。じっと頭を下げ続けた私に、次に彼がしたことは、ぽかっと私の頭を殴ることだった。もちろん、形だけの殆ど力を入れていない拳で。
予想外の反応に目を白黒させる私をその隙にさっと持ち上げて立たせると、アブラアムさんはちょっとむすっとしながらも何かを言った。そして私の手を引いて改めて家中を案内すると、掃除道具のようなものを手渡し、さっさと家から出て行ってしまった。
またも私、唖然呆然。これって、どういうことだろうか。掃除してけって? 掃除してから出て行けって事? 一宿一飯の恩義、とか?
わけが解らずも、そのままぼけーっとしているわけにもいかず、とりあえず掃除だけは始めた。小さくても一軒家だからそれなりに大変だったけど、それはもう人生で一番本気を出して掃除させてもらった。
そうして掃除をしながら見ていく中で、色々と解ったこともあった。この一軒家は相当前に建てられたのだということ。今は一人暮らしのようで、一応掃除はしていたらしいけど隅々までは行き届いていなかったということ。そして僅かに残る痕跡から、随分前に彼には一緒に住む家族がいたのだということ。
そうしてそんな発見をしつつ一日を掃除に費やしあらかた終えてひと段落を迎えた頃、アブラアムさんは帰ってきた。どこに行っていたのかは知れないけれど汗まみれで、私に何か一言告げるとすぐにお風呂場に入ってしまった。
そしてまた出て行ったほうがいいのかなあと迷っているうちに、お風呂場から出てきてさっぱりとしたアブラアムさんはさっと身支度を整えると、また私の手を繋いで外に出た。ああ今度こそ強制送還かあ。さすがにもう暴れる気も起きなくて、連れて行かれたらまあ抜け出せばいいやくらいに思いながら大人しく彼に連れられるまま歩いた。
で、連れてこられたのがどこかの民家。困惑している暇もなく、私の手を引いてその家に入っていくアブラアムさん。中にはあの時アブラアムさんと一緒にいた、私に鼻っ柱折るぞと脅してきたおじさんとそのご家族らしき方々が私達を笑顔で迎えてくれた。
そうしてあれよあれよという間にご飯を頂いて、また夜になって笑顔でお別れ。またまた手を引かれて帰宅。お風呂。地獄の歯磨き。寝る。でこちゅー。おやすみカエデ。
そこまでされてからやっと、私はまたもだいーぶ遅れて、アブラアムさんがこの家に私を置いてくれる気になったのだということに、気がついた。