カエデと清濁
何がなんだかよく解らない状況、ながらも。まあ、いっか。そんな風に思い切り、遠慮なくご厚意に預かることにした。
金の猫足、とまではいかなくてもところどころちょっとだけ塗装が剥げかけたそのバスタブへと、服を脱いで入り込んだ。脱いだ服は壁に備え付けてある棚に置く。タオル、というか布らしきものもそこに置いてあったから、多分それを使っていい、はず。
シャワーは、あの、引っ張る式。タンクがついている。これってもしや水が出てきてきゃあ冷たいなんだどうしたきゃあエッチ見ないでようわやめろ俺が悪かったパターンだろうか。作者め。そうは問屋がおろさない。例え凍てつくような水が降りかかろうと、私は声を上げない。そんななんちゃってサービスシーンを私に易々とやらせようなど十年早い。
とりあえず、どれほど冷たいのか確認しなければ。一瞬引いたらまたすぐに引っ張って止めよう。覚悟を決めて、手を伸ばしつつちょっと身体は離してという目撃されたらなにしてんのお前というような格好で、イザ! と垂れ下がるチェーンを引っ張った。
「うわ」
なんと。予想を裏切られた。お湯が出ると見せかけ実は水でしたと見せかけてやっぱりお湯でした。不覚。小声とはいえ声を上げてしまった。さすがにアブラアムさんが来るような事態にはならなかったけれど、まさか作者の奴にしてやられるとは。くそう忌々しい。
まあいい。どうやらモブであった私も主人公から解放されてしまえば外伝という名の物語の中で晴れて主人公のポストに納まれるらしい。まさかのまさか、どこからの複線なのかお助けキャラ要員アブラアムさんの登場で随分と進行が楽になった。きっとその先の展開が思いつかなかったからこんな安易なテンプレートに乗っかったのだろう。単純な奴め。
しかし、お湯が出るということはどこかに湯を沸かす装置がついているということなのだろうか。ここの文明ってどこまで進んでるんだか。魔法はあるみたいだし王宮のトイレも水洗で水道設備はバッチリみたいだったしかと言って電気とかそういうタイプは見かけなかったし。この中途半端な発展というか後付設定はなに。
「……裸で考えることでもないな」
ふと思いつき、人知れず恥ずかしくなってきた。まあいい。考えることはいつでもできる。とりあえず今はこのシャワーのお湯がどれほどまで使えるのかということを計算しつつ、石鹸のありかを探そう。
そうして私は全裸であちこちを物色したあかつきに念願の石鹸を手に入れ、なんと異世界独り生活一日目にしてお風呂に入るという快挙を成し遂げたのだった。
なんとかすっきりして人心地ついたけれど、身体を拭いている途中でまた問題に直面した。
下着、どうしよう。アブラアムさんは着替えを用意してくれたけど、さすがに下着までは、ねえ? 女物の下着なんか持ってても怖いし。神殿の人はブラはともかくもショーパンみたいな下着用意してくれたのに。まさかアブラアムさんの下着を借りるわけにもいかないし、残された選択はのーぱんと使用済みを再び履くの二択。
どうしよう。のーぱん、とか。どう考えてもマニアックすぎる。仕方がないからもう一日涙を呑んで履いて、明日何とかするしかないか。そう思い着替えに手を伸ばして広げたその瞬間はらり、と何かが落ちた。なんだろう。紐? 紐じゃないな。白い布がついてる。ていうかこれ。
「ぱんつ」
パンツだ。紐パンだ。多分、未使用の。
え? アブラアムさん? え?
とんでもない事実にまた私は呆然としてしまい、またもや全裸のままそこで暫く固まっていたのだった。
「カエデ」
お風呂から上がって部屋に戻ると、アブラアムさんは一人で晩酌をしていたのか机の上には酒瓶らしきものとまだ中身の入っているコップがそこにあった。私は戸口の辺りで止まってアブラアムさんをじーっと見ていたため、何がなんだか解っていないらしいアブラアムさんは何かをしきりに語りかけてくる。
ていうか紐ぱんて。アブラアムさんってそういう趣味だったんだ。着替えはしっかり着込んでいたけれどさっと身体の大事なところを庇うようなポーズをしてみると、私が何を考えているのか察知したらしいアブラアムさんは途端に真っ赤になって何かを必死に訴えかけてきた。相当憤慨しているらしく声を大きくして喚いている。
もういいよ。うん。人の趣味をとやかく言うのはどうかと思うし。アブラアムさんがどんな趣味を持っていようと私には関係ないし。代えの下着があって一応助かったし。例えそれが紐ぱんでも。紐ぱんでも。大事なことなので二度言いました。
ちなみにアブラアムさんの服はやっぱり大きくて、シャツは袖を何重にも捲くったし、パンツも腰のところで紐をきっちり締めても長かったのでそっちの方も幾重にか巻いた。やっぱりアブラアムさんって大きいんだなあ、と思った。紐ぱんの方はそうでもなくある程度でフィットしたけど。フィットしちゃったんだけど。
「カエデ、×××、××××××」
ちょっと渋い顔になりながらも、アブラアムさんは私を手招きすると、近寄った私に何かを手渡してきた。陶器の壷、のようなものと棒――じゃなくて、もしかしてこれって、歯ブラシ? 神殿でも貰ったことのあるそれ。カットされた木の棒に、硬い動物の毛のようなものがついている、それ。神殿のは白かったけど。
ああ、歯磨き。この際使用済みかどうかは追求すると恐ろしいので知らないふり。多分新品、と思いたい。じゃあこれ塩かな。神殿では塩を使って歯を磨かせてもらった。ものすごくしょっぱかったけど、歯磨き粉が無いらしいので仕方が無い。
そうして壷の中を改めた途端、私は、すぐにふたを閉めた。なにこの匂い。香辛料? 色々混ざりすぎじゃない? なんかありえない色してたし。塩じゃないの?
ぱっと見ると、アブラアムさんはなんか文句あるのか、と見てくるので、大人しくそれを、けれど恐る恐ると摘んで、歯ブラシもどきに振り掛ける。
そしてそれを口に入れてからの私の葛藤は、もはや、語るに及ばない。なんというか、思い出すだけでも胸焼けと唾液が止まらなくなる、とでも言えばいいのか。とりあえず、終わったときには死ぬほど口を濯いだ。痕跡と臭気が限界まで消え去るほど。どうにも筆舌しがたい、未知の体験、もとい地獄の精神的拷問だった。昔の人は偉いなあと、思います。はい。
そして地獄の歯磨きを終え、アブラアムさんは二階へ通じているであろう階段を上っていった。それに大人しくついていくと、そこにはベッドらしき寝台があって、アブラアムさんはその傍に立ってまた私を手招きした。
もしや、いいじゃないかへっへっへっへっきゃあやめて私はじめてなのくんずほぐれつぎっこんばったんなんてことになるのでは。ここまで来てエロ漫画ルートはないでしょう。
お馬鹿なことを考えつつも結局「どうせアブラアムさんだからいっか」という失礼な信頼を持って素直にそこに近づくと、アブラアムさんはそこに私を座らせて、肩にかけてあった布でまだ濡れていた私の髪を甲斐甲斐しくも拭いてくれた。
結構力が強くて頭がぐわんぐわん揺れるんだけど、初めての経験が新鮮で私はされるがままになっていた。人に頭を拭いてもらうってこんなに心地のいいことだったんだなあ。なんだかデジャヴのような、既視感にも似た郷愁のような念が、私の心にするりと入り込んでくる。
「アブラアムさぁん……」
呼ぶと、ぐらぐら揺れる頭の上で、返事らしき声が聞こえる。どうせ解らないと思いつつ、目を閉じる。
「私ねえ、家出してきたんだ。ていうか、世界出? というよりも、新さん出かなあ」
揺れているせいか、頭の中もぐるぐるだ。なにがなんだかわからず、それでも巡る言葉を一つ拾っては、ピースを当てはめるように呟く。
「なんかさあ、何が嫌ってわけじゃないんだけどね? 何もかもが嫌になって。ていうか、私かな。私が、自分が、嫌になって、さあ。だから、ね?」
嫌に、なって。嫌で、たまらなくて。呪って、恨んで、憎んで、嫌って。どう考えても理不尽で、でも決して抜け出すことのできない泥濘にいるように、際限なくそれを繰り返した私。
新さんにどんなに優しくされても心のどこかで冷ややかにそれを受け止めていたし、何をしても醒めていた。終いには彼の善良さや潔白さが疎ましくて憎たらしくて、それを見せ付けられるたびに心が凍った。きっと、多分、新さんはそんな私の本質さえ見抜いていた。それでも私への態度を変えない彼のそのお優しさが、益々私の心を棘しかない茨で覆い尽くしてがんじがらめにしてしまう。
そんなことの繰り返し。どんどん自分が薄汚くなっていくのが解った。彼が善良であればあるほど、優しければ優しくするほど、私の心は真っ黒に染まっていく。底なし沼のようにどこまでも。
そんな自分が嫌だった。どうにか彼のように善良であろうと心がけることもあった。それでもそんな心がけなんて新さんを前にすればすぐにメッキのように剥がれて、醜い心がさあこれが本性だと言わんばかりに自己主張した。
彼は鏡のような存在。だから彼に映し出された私の本性は、目を背けたくなるほどに醜悪なそれをさらけ出していた。私はそれからずっと目を背けていたけれど、あの夏の日に限界を迎えてしまった。きっと、多分、新さんのあの顔は、私の醜い姿を垣間見てしまい恐怖したことにより、浮かび上がった表情なのだろう。そして私はその時に私自身ですらも、新さんを介して自分自身の醜さにやっと気がついた。
それからはもう怒涛のようだった。私のそんな姿を垣間見せた新さんを憎んだし、恨んだし、責任をなすりつけた。こんなのは自分じゃないと何度も自分に言い聞かせたこともある。それでも新さんがいる限りそんなものは全て一蹴され、何度でも同じように醜い私が映し出される。その繰り返し。
新さんは日を追う事に醜さを増す私に気がついていた。だからこそきっと恐れて、私の言うことをなんでも聞くようになっていた。そうすれば私の怒りも、増していく醜悪な感情も納まるだろうかと、そう信じていたのかもしれない。それでも、そんな新さんの優しささえも私の心を刺激する。何をしても、新さんが新さんである限り、新さんが私の傍にいる限り、そのおどろおどろしい感情は納まらない。
そんなことばかりを繰り返してもう何もかも余すところなく真っ黒になったかと思っていたその頃、その転機は訪れた。新さんの異世界召還。御誂え向きに、新さんの役割はもう殆ど終えていた世界。そして新さんの思惑やソロンさんの憂いを知ったとき、私の中の醜い化け物が悪魔のように囁きかけた。
『新さんから決別するチャンスだ。それと一緒に一矢報いてしまえ』
汚い囁きだった。それでももう殆ど真っ黒に染まりきっていた私の心に、躊躇などという良心の欠片さえも残ってはいなかった。だから決行した。新さんの思惑に乗る振りをして騙し、ソロンさんをも利用し、最後の最後で新さんを笑顔で裏切った。ずっと言いたかった言葉も言えた。
『さようなら』と『大嫌い』。
夢にまで見た、私にとっては最上の言葉。新さんにとっては最低の、恐らくは聞きたくなどなかっただろう言葉。新さんが私を慕っていたのはわかる。何が良いのかこんな姉を姉として扱ってくれていたことも解っている。私からどんな仕打ちを受けようとも家族として、新さんは私を大切にしてくれた。
でも。それでも。私の憎しみはそれすら利用するほどに卑劣で、汚辱にまみれていた。だからこれ以上のない傷をつけるために『大嫌い』を。忘れることのできない痛みを与えるように『さようなら』を。一人で向こうに帰って新さんはどんな顔をしていたのだろう。想像すると、罪悪感よりも先に愉悦の笑みが浮かんでくる。
全く汚い女だ。気にかける価値もない、心のそこから腐りきっている最低の人間だ。
新さんから離れてしまえばこの心の醜さも浄化されるなどと期待していたのだろうか。愚かにも程がある。元々が私の本性だったものが、新さんがいなくなったこと如きで消えるわけがない。むしろ新さんという大義名分を失い、これでもかとばかりに顕著になって現れてしまった。
これが私の真実の心。誰よりも何よりも醜い、一条新の姉だ。――そう、思っていた時に。
『カエデ』
聞こえた言葉。名前すら失った化け物に、再びそれを取り戻して与えてくれたこの人。こんな私に、何の気負いもないまっさらな笑顔をくれた人。
新さんと同じ善良な心で、けれど新さんとは違う、着古した服のような暖かさのあるその心で私を包んでくれた。受け入れて、何度も名前を呼んでくれた。たった一度言っただけのその霞んだ名前を。たった一度行動を共にしただけのその女を。私を、『カエデ』だと認めてくれた人。
アブラアムさん。不恰好で、飾らない、清い心を持った人。
「アブラアムさん……ありがとう」
右に左に揺れる視界。締まりが悪くなり勝手にほろほろと散る涙を見送りながら、その言葉を漸く呟いた。
アブラアムさんは私の心を知ってか知らずか頭を拭くのを止めて、その無骨な手からは想像できないほど優しい手つきで、乱れた髪を撫で付けてくれた。まるで泣いた子をあやす親のように、本当に暖かく穏やかなその手のひらで。