カエデ
その日は蝉が鳴いていただろうか。それとも鳴いていなかっただろうか。そうであったような気もするし、そうでなかった気もする。ただ六月にしては非常に蒸し暑く、鬱陶しくなるほど陽光の照る日だった。
土曜日の午後に新さんは自室で本を読んでいて、暇を持て余した私が新さんの部屋に押し入り不躾に室内を物色していたそのとき、それを見つけた。
「なにこれ」
見ると、進路希望調査書と太目の題字が記された紙が、机の上に無防備に置かれていた。当然それが目に付き私は新さんの許可もなくそれを手に取り、希望欄が空欄なことにいち早く気がつく。
振り返ると新さんは先ほどと同じように本を掲げたままの体制でいたが、しかし目線はこちらを向いていた。私のなかに悪戯心がむくむくと湧き出し、新さんの前にその紙をぺらぺらと掲げて行儀の悪い笑みを彼に向けた。
「新さん駄目じゃない早く提出しなきゃ。まだ決まってないの? 進路」
人事だから言える台詞だ。自分もちょうど一年前には同じような悩みを抱えていたくせに、しっかりとそれを忘れて無遠慮にもからかおうとした。そんな私を一瞥して、けれどまた本に目を戻す振りをして新さんは答えた。
「決まってるよ」
意外な反応に、思わず興味を引かれる。新さんは既に幼稚舎からの私立校に通っていたから、当然エスカレーター式でそのおぼっちゃま御用達の付属高校に通うものだとばかり、私は思い込んでいたからだ。どうもそうではないらしい弟の反応に、私はついついつっこんで聞いてしまった。
「じゃあ志望校はどうするの?」
空欄。何か、他に迷っている高校があるのか。もっと難関? それとも海外? 他意も何もないつもりで、聞いてみた。本当に、何も考えずに。
そんな私を知ってか知らずか、新さんは表情を変えることなく、いつものようにそっけない態度で答えた。思いもよらない、その候補を。
「楓と同じ」
おなじ。
何を、言われたのか。一瞬、訳がわからなくなった。
私と同じ? 同じって? 公立校? 推薦じゃなくて受験? AOでもなくて?
本当に阿呆のような混乱を帰して、けれどすぐに理解した。いや、解っていた。彼が何のことを言ったのか、すぐに解った。解らないはずがなかった。つまり、そういうことだ。彼、は、私と、同じ。私と同じ、高校に。私の通う高校に決めた、ということ。そしてそれはおよそ一年後、新さんが私の元にやってくる、ということ。
新さんが、私の。私、と。
「な、な、んで」
うまく、口が廻らなかった。頭も。何もかもが混乱の極みで、自分が何を感じたのか、思ったのか、言おうとしたのかもわかっていなかった。ただ、私は底知れない恐怖を感じて――。
「……なんでぇ?」
情けない声が勝手に出てきたと思ったら、泣いていた。しかも普通に泣いていたのではない。泣き笑いだ。引き攣れた顔で笑いながら、泣いていた。零れる涙を意識せず、歪んだ笑みを浮かべていた。
そんな異常な反応を示した私を見た新さんの顔。驚愕以外のなにものでもない、全てが凍り付いてしまったかのような表情。まるで絶望にも似たその表情は、およそ新さんらしくない顔だと、そのとき私は泣きながらも漠然とそんな事を感じたのだった。
そしてその日から新さんは私の顔色を伺うように私のことを『姉さん』と呼ぶようになり、そしてどんな言いつけにも逆らわない弟になってしまった。そう。私のせいで。
嘘だ。こんなの。信じない。信じたくない。だってせっかく、せっかく、やっと一人になれたのに。やっと私は私になれたのに。嫌だ。絶対に嫌だ。絶対に戻りたくない。新さんのいるあの世界になんて、絶対に戻りたくない。私はもう新さんの姉じゃない!
脱兎の如く走った。後ろを振り返らず、わき目も振らず、ただ一心不乱に走り続けた。息が切れるまで、切れてもなお、走り続けた。このまま死んでしまうんじゃないかというほど限界まで、ただがむしゃらに私は逃げ続けた。私をカエデと呼ぶ、その未知の声から。
「――……は、……っ」
息が切れる。切れるというより、ぶつ切れだ。息を吐いているのか吸っているのかさえわからないほど、呼吸が乱れている。それほど、走った。どこへともつかず、何を頼りにするでもなく、一瞬気が遠のくほどに走った。人生でこれほど全力を出して走ったことなどない、と言い切れるほどに走った。
気づけば、全く知らない路地裏に一人座り込んでいた。どこの誰の家とも解らない玄関口の隣にある階段に座り込み、ただひたすらに身体とかみ合わない呼吸を際限なく繰り返していた。
一体ここはどこだろう。見回してみても、とんと見当がつかない。当たり前か、と自嘲の笑みが漏れる。それはそうだ。私が知っているところなんて、神殿と王宮しかない。こんなにがむしゃらに走ってしまった今では、もうそこに戻ることすら叶わないだろう。もともとそのつもりで出てきたのだからそれは構わないのだが、しかし――。
「どうしよっかなあ」
途方にくれて独り言ちる。息は苦しいわ喉は渇いたわ若干お腹はすいてきたわいいことなしだ。せめて神殿から食べ物の幾つかくらい拝借してくればよかった。それくらいのお慈悲なら、神様でなくともかけてくれただろうに。
今更後悔しても遅いが、自分の無計画さにほとほと呆れてため息をつく。これじゃあアブラアムさん達のことを言えた義理などないじゃないか。むしろ私の方が相当の冒険者だ。資金ゼロ防具ゼロ道具ゼロレベルゼロうまのふんすら持っていないビジター以前の問題な馬鹿勇者と言える。
というかむしろ今の私って所謂カモって言うやつなんじゃあ――。
「――ぅわっ」
突如声が上がる。それもそのはず。思った矢先に見知らぬ人登場。それどころか二の腕がっしり捕まえられちゃってますけど。いやにガタイのいいそのおじさん、何か言いながら私を引っ張る。
「え、いや、ちょ、すいません。言葉わからないんです。あいどんすぴーくいんぐりっしゅー!」
余談ですがこの文法は間違っています。英語が話せないと英語で言う奴がどこにいましょう。正しくはググってね、よい子の皆さん。
ってそんな一人コメディってる場合じゃない。しかも英語なんて通じるわけないしそもそも英語圏どころか何語なのかすらもわからないしていうか問答無用で荷物みたいにずるっずる引っ張られちゃってるしああもう。
「たぁすぅけぇてぇぇぇぇぇ……」
危機感あるんだかないんだか情けない声を上げてみてもだーれも見向きもしてくれない。むしろあえて目を逸らしてます、みたいな。
うら若き乙女がこんなごつい男に引きずられて助けを求めているって言うのに、この世はなんて薄情なんだろう。あ、違うか。うら若き乙女だからこその絶好のカモなのでこうして引きずっていると。うわあ解りやすい。
解りやすいからなんだってんだ作者このやろういい加減にしてくださいマジで。難しいの勘弁とか言ってテンプレ通りにするとかこっちのほうがマジ勘弁です。
というかあ、あ、あ、あ、もう駄目だ売られる買われるヤンデレ一直線トラウマルート。というかここで私が複線回収なのかふざけんなあああああ。
とか思ってたらなんか背後から聞こえた。
「カエデ」
え。
え、え、え、え。
ちょっと待てまじでなにこの展開予想してないんですけどというか予想したくないんですけどこんなのってアリか。さっき全力で逃げたでしょ。回避したでしょ。フラグ叩き折ったでしょ。なんでまだ聞こえんのこの幻聴。嘘でしょ無しでしょ勘弁してよ。
再び脱兎の如く、とはいかないのが世の常人の常お話の常。リードに繋がれた犬よろしく二の腕つかまれてこれ以上進めないと。それどころか何故かぴったり止まってますけど、みたいな。
うわあん。もうあんな雰囲気ばっちりでお別れしてきたとこじゃんマジでもうちょっと浸らせてくださいよホント空気読め頼むから。ああもうなんか会話してるしそんな井戸端会議するくらいならちょっと離してくれませんかね、後で戻ってくるから。そこの人がいなくなったら戻ってくるから。約束はしないけど。
とか言ってる間にああもうなんか二の腕掴む人が交代されてんですけど。後ろでなんか言ってるやらさっきまで掴んでた人にこやかに手振ってどっかに消えるわああもうまじふざけんなですよ一度拾ったものは責任持って自分で飼え人に押し付けるな頼むから戻ってきてええええ。
涙ながらにさっきの人攫いを見送る後ろでなにやらぶつぶつ話しかけてくるその人。勿論手はがっちり私の手を捕まえている。ああもう振り返りたくない。振り返りたくないったら振り返りたくない。こうなったら絶対に振り向かない手でいこう、と思ったのもつかの間、肩に手を置かれて何の苦もなく簡単に振り向かせられる。
あーもーふざけんなー。
「カエデ?」
ふざ、けん、な?
振り返って、目の前にいた、その人。新さん、じゃ、なかった。新さんじゃ、ない。
その人はもう一度、私の名を呼んだ。
「カエデ」
嘘。
うそ、だ。信じられない。
うそ。嘘です。嘘だよね。
だって、そんな、たった一度、だよ? たった一度しか、言ってない。しかも一瞬。聞き取れてるなんて思いもしなかった。どうせ覚えるわけないって、思ってたもん。思ってた、のに。
嘘でしょ。
もう、なんで、この人。こんなタイミング。
「アブラアム、さん」
「カエデ」
にっこり。いつかの私の微笑を真似るような、満面の笑顔。
でも、私よりもずっとへたくそな、素敵な笑顔。作り物じゃない、この人らしい笑顔。
嘘、だあ。こんなの。こんなタイミング。嘘だよ。本当に。うそ。ほんと。ほんとに、居る。呼んでくれた。覚えてて、くれたんだ。
「はんそくだよ……」
私をカエデと呼ぶ人。初めて、呼んでくれた人。私を覚えていた人。私をカエデと呼んで、笑いかけてくれる人。
哀しいことに、本当に久しぶりだった。久しぶりで、久しぶりすぎて、感極まって泣いてしまった。
そんな風にいきなりほろほろと涙をこぼす私に慌てふためいたアブラアムさんは何度もカエデ、カエデと呼ぶものだから、いつまで経っても涙が止まらなくて本当に困った。本当に、嬉しくて嬉しすぎて、困ったんだよ。ね、新さん。