一条姉
『拝啓新さん。
事件です。姉さんはむきむきごっつな可愛いゴリラさんたちに拉致されてしまいました。でも安心してください。姉さんは無傷です。というかその筈ですよね。君が仕組んだのですから。姉さんはそれくらいお見通しです。むしろお見通しなのも新さんはお見通しなのでしょうね、きっと。姉さんは些か不愉快です。後で覚えていらっしゃい。
さて、この脅迫状を読んでいるということは、今頃私は新さんの読み通り神殿にいることでしょう。知ってますよね。はいはいなんでもお見通し~。はい。
それで、私には新さんが何を企んでいるのか知っています。というか知っていると見抜いているからこんなことを企んだのでしょう。もういい加減にしてください。どれだけ読者と作者をおちょくれば気が済むのですか。読者の皆様はともかくも作者はあまり頭の回転がよくないのでこれ以上の複線は勘弁してやってください。そろそろボロが目立ってくる頃です。
さて、では、色々とお互いさぐりーので解りきっているくせに何故あえてこの脅迫状を残しておくかというと、用途はもちろん脅迫状ですので、私は新さんを脅迫しなくてはなりません。なので心して脅迫されてください。
はい、では、新さん。もしも新さんが私の本音を聞きだしたくてわざと遅れてくるというのなら、私は一人で帰ろうと思います。その際は、新さんを二度と帰れないようにしてくださいとソロンさんにきつく申し付けておく所存です。
ソロンさんにしても願ったり叶ったりですよね。ソロンさんをはじめ多くの大人をおちょくった罰です。せいぜい必死こいてこちらに来てください。間に合うといいですね。
それでは長くなりましたが、新さんが間に合うことを楽しみにしつつ、この辺りで筆を置こうと思います。道中お気をつけて。
P.S.それでもやっぱり遅れてみようとか、どうせ姉さんの脅しに過ぎないだろうとか思われては心外ですので、私が本気であるということを示したいと思います。信じるも信じないも自由ですが、私の本気の程はお分かり頂けるかと思います。
【真実を申し上げますと、私は新さんのことが大嫌いです。ですから貴方が帰ろうと帰れまいと構いません。どうとも思いません。なので安心してゆっくりと神殿へいらっしゃい(^^)/~】
いかがでしょう。楽しんでいただけました? それでは今度こそこれで終わります。さようなら。
敬具』
陣の外へ一歩後退したその瞬間、新さんの表情がさっと変わった。そして私はその表情を見て、思い出した。あの夏の日、私は何を言ったのかを。何を、したのかを。
新さんはその時と全く同じ顔をしていた。ありえない光景に凍りついた。そんな顔。
私は一人、取り残された。いや、自ら残ったと言うべきだろう。この、私を必要としていない、私のことを誰も知らない、何の縁もゆかりもない異世界に。
そしてやっぱりその最初の目撃者は、ソロンさんだった。新さんが行ってしまった後、残った私を呆然として見つめていたけれど、慌てて私の方に駆け寄ってきた。緊迫した状態で何かを切々と訴えかけてきたけれど、私には何を言っているのか解らなかった。もう、言葉が通じなかった。
「ごめんなさい。ソロンさんが何を言っているのか、私にはもうわからないんです」
日本語でそれを伝えると、ソロンさんは愕然とした表情で私を見た。言葉が伝わったわけではなく、私が突然意味の解らない言葉を話したことによって、言葉が通じなくなったことを理解したのだろう。それでもその切迫した眼差しが言っていた。
『どうしてこんなことを』
解りきっていたことだけに、苦笑しか浮かんでこなかった。
ただ、もう何を言ってもソロンさんには通じないし、通じたとしても私は彼に教えるつもりはない。だからできるだけ深々と丁寧にお辞儀をして、ソロンさんから離れた。背を向けた私にソロンさんは何かを言っていたけれど、私は振り返らなかった。
言葉が不自由になったのはきっと、それまでは新さんが何らかの形で通訳のようなことをしてくれていたからなのだろう。今更それを知ったところで新さんはいない。仮に知っていたとしても、それでも私はここに留まっただろう。ここに来たときから、そう決めていたのだから。
そうして神殿の中を歩いていると、あの時の白い薔薇の女の子が柱の陰からじっと私を見ているのが見えた。不思議そうに首をかしげ、それでも私に駆け寄ってきた。
何かを持っている。あの白い薔薇だ。何事かを言いながら、きらきらとした眼差しで私に差し出してくる。今度のその薔薇には、傷一つついていなかった。
「ごめんね。それはもう受け取れない。新さんは、もうこの世界にはいないの。ここには私しか、いないの」
どうせ解らないとは思いつつも、そう告げて薔薇は受け取らなかった。彼女は訳がわからなそうに私を見上げていたけれど、私はただ苦い微笑を向けるしかなくて、逃げるようにその場を去った。
私は早く――神殿から出たくてたまらなかったから。
神殿を出るまでは、幾人か顔見知りの人がいて私を不思議そうに見ていたけれど、出てしまえばなんて事はなかった。人種が違う人間なのだから見られることには変わりなかったけれど、その眼差しにはそれ以上の意味は込められていないように感じた。そしてそのまま、とくにあてがあるわけでもなく歩いた。歩きながら、考えていた。
『どうしてこんなことを』
新さんの目もそう言っていた。
「どうして」って。それは、そうだ。私がここに残るなんて、新さんは微塵も思わなかったはずだ。だってこの世界が必要としていたのは、新さんだったんだから。
そんなのは解ってた。でも私は残った。こっちがよかったからなわけじゃない。あっちが嫌だったから残った。もっと言えば、新さんのいる世界が嫌だったから。それだけだ。だからもし新さんがこちらに留まると言ったならば、私はあっちに帰っていたことだろう。
最初から、新さんの答えと共に私の答えも決まっていた。ううん。きっと、多分、新さんよりも先に決めていた。だってこの世界にきたその時から、そう決めていたんだから。
どこへともなく歩きながら、今までに感じたことのない心地をじわじわと感じ始めていた。不快ではない。それどころか晴れ晴れとして、とても清清しい気分。
そうだ。これが、開放されたってことなんだ。新さんから、新さんを取り巻く全てのものから、開放された。そんな気分。すごく自由で、晴れ晴れとして、気持ちがいい。雲ひとつない空のように、爽快な気分だ。
「してやったぞー」
最後に見た新さんの顔を思い出して、独り言ちる。泣きたいような、笑いたいような気持ちを抱えて、空を見上げた。
私の空。私だけの空。私しかいない、私だけの世界。新さんのいない世界。
見上げた空は、どこまでも澄み切っているような気がした。
『お姉さん』
『一条君のお姉さん』
『新君のお姉さん』
『新の姉ちゃん』
『一条の姉』
『一条姉』
私は『お姉さん』なんて名前に改名した覚えはないし『一条姉』という呼び名でもなんでもない。もちろんあなたの姉でもなんでもない。私は楓。一条楓。元は、佐藤楓。
でも誰も覚えていない。覚えない。知らない。私の旧姓が佐藤であることも、名前が楓であることも、本当は新さんの姉ですらないということさえ、誰も知らないし、聞かない、覚えない。
それだけじゃない。彼らは呼び名だけではなく私本人ですら、新さんを繋ぐパイプかなにかとしか捉えていなかった。私に対する質問も興味も話題も、何もかもが新さんに関することばかり。私自身のことなんて微塵も聞いてこないし、興味すら抱かない。
ごくたまにそうかと思えば、なんてことはない、新さんの姉だからという理由で興味をもたれているだけ。期待も、羨望も、嫉妬も、興味も何もかもが、新さんを媒介して向けられてくる。
私が私だからという理由で目を向けてくる人なんて誰一人としていなかった。誰もが私を一条楓という存在ではなく、『一条新の姉』として認識した。
それだけなら良かったのかもしれない。私が我慢していれば済むことだった。気にしなければどうということはなかった、のかもしれない。
けれど私はある日突然気づいてしまった。周りだけじゃない。私が、私本人が、自分自身を一条新の姉という存在として認識し始めているということに。何を考えるにしても、私は新さんの姉だから。新さんのお姉さんだし。新さんのお姉さんとして。気づけば思考の基準が何もかも新さんを照準としてあてられていた。
ぞっとした。私が私じゃなくなっていることに。佐藤楓も、一条楓ですらもなくなっていることに。
何をするにも新さんの影がちらつく。どんなときでも新さんの存在が私自身を覆ってしまう。とても恐ろしくなった。いつのまにこんな変貌を遂げてしまっていたのか。もはや私は私を私と呼ぶことすらできない。私ですらなくなっていたから。
だったら私は誰。一条の姉なんて知らない。私は一条楓。佐藤楓。でも思い出せない。新さんに出会う前の自分がどんなだったか思い出せない。どんなことを感じて、どんなことを思って、どんなことに怒り、悲しみ、笑い、喜んでいたのか。それすら解らない。
私は何なの。どうなってしまったの。これからどうしたらいいの。新さんの姉として生きていけばいいの。それってどういうこと。どんな生き方なの。それすら解らない。
もう何もかもが解らない。私がどんどん消えていく。私が私でなくなって、見る間もなく霞んでいく。
私は一体何なの。新さんを無くしたあとに、私の中に何が残るの。それとも、何も残らないの。私ですらも残らないの。
誰か助けて。怖い。嫌だ。
新さんが、新さんがいるから。新さんのせいで。新さんのせいで私が消える。
返して。元の私を返してよ。新さんなんかいなければよかった。本当は私の弟でもなんでもないのに。ただの赤の他人なのに。
新さんなんか嫌い、大嫌いだ。消えて。消えてよ。私の中から、私の周りから消えて。新さんなんか私の世界から消えてしまえ。消えて、いなくなって、一生私の前に現れないで。一生私と関わらないで。
新さんなんて嫌い。大嫌い。憎たらしくて恨めしくて疎ましくてたまらない、私の弟。
でも、新さんは消えない。消えてくれない。消すこともできない。ずっとそこにいて、私の弟として輝き続ける。どんなに願っても、消えてはくれない。
だから私は考えた。新さんが消えないなら、私が消えてしまえばいい。私が新さんの世界からいなくなってしまえばいい。そうしたら私は、私の世界には、新さんがいなくなる。私だけの世界が手に入る。
だから留まった。後先も考えず、他の望みも不安も展望も何もないまま、殆ど衝動的に残った。何の計画性もない行動。これこそが新さんの予測していなかった鬼門。私の一世一代の大勝負。
そして勝った。もうこの世界には新さんはいない。新さんと離れて、私だけがいる。私の世界に、私だけが存在している。
それがどんなに嬉しくて、ほっとして、たまらない気分か新さんにわかる? 心が震えるの。破裂しそうなの。嬉しくて哀しくてどうしようもなくて、壊れそうなくらい苦しくて心地いいの。こんなに不安で、こんなに素敵なことってない。
後悔なんて微塵もない。この先例え後悔することがあったとしても、私は何度でもそれでも、と思う。思い直しては喜びに震える。かみ締める。立ち上がれる。例え時間を巻き戻しても、私は何回でも同じことを繰り返す。逃げたと思われてもいい。自分勝手だと詰られてもいい。馬鹿だと笑われてもいい。それでも今の私の悦びに比べれば、そんな事は瑣末に他ならない。
私は新さんから解放された。新さんを取り巻く世界から、新さんの世界から解放された。新さんを嫌い、憎み、呪う自分から解放された。
もうあの善良な弟を憎まなくて済む。嫌わなくて済む。
ずっと苦しかった。あの優しく純粋な弟を憎むのが辛かった。でも止められなかった。どんなに理不尽でも際限なく憎み続けた。恨み続けた。
でももうそれも今日でお終い。もうそんな自分からも解放された。明日からはきっと、遠い世界で生きる弟を憎むことなく思い続けることができる。素直に幸福を祈ることができる。
私は、私の心は自由だ。自由になったんだ。
知らず知らずのうちに零れていた涙に気づいて、それを拭う。晴れた空気を吸い込んで、前を向いた。そのときだった。
「カエデ!」
その名を呼ぶ人。呼んでいた人。私は、一人しか知らない。
自由になったはずのその心で、その身体で、私は立ち尽くした。自由な空の下、何かに捕らえられたように、その場を動けなくなってしまった。