一条姉とお別れ
「姉君様……何を」
あーまた戻った。やっぱりね。あーあ名前教えなくてよかった。思いつつも、ここでそこにつっこむKYでもないので、海より深い慈愛で以ってしてスルーして差し上げる。
そんなことよりも、おいコラ主人公。姉貴にしかられてへらへら笑ってるんじゃない。いや、この場合へらへらというより嬉しそうな。新さんって、もしかしてそっちのけがある人? と嘯いてみる。
まあどうでもいいや。無視して、目を白黒させているソロンさんへと向き直った。
「ソロンさん。この馬鹿はね、最初から貴方の思惑も何もかも解った上で、貴方を利用していたんですよ。貴方方が新さんを思う気持ちを知っていたにもかかわらず、腹のそこではもう既に答えは決まっていたんです。……お聞きしますが、貴方は新さんの名前を知っていますか?」
「それは……はい。閣下は自らを『アタラ』と」
何を今更というような顔をされるけど、これで確信がいった。新さんはやっぱり、偽名を貫いていたわけだ。もしもこの国に留まることを悩んでいたのなら、本名を明かさない理由にはならない。それをあえてそれで通していたということは、自分の居場所を既に理解していたからだ。
どれほどレベルを上げてもどれほど仲間を増やしてもそれがゲームである以上、それを自分の世界だと言い張ることはない。あくまでゲームはゲーム。新さんにとってこの世界は、極めてリアルなゲームと変わらなかった。そこに本当の世界があり、本物の人間がいて、例え本当に自分の命をかけていたとしても。
「それは、偽名です。この馬鹿は貴方方に本当の名を教えなかった。何故なら彼にとって本当の世界に、ちゃんと真実の名前があるから」
それだけが確信じゃないけど、ソロンさんにはこれで十分だった。驚きと共に、少しだけ傷ついたような顔になる。
それは少なからず予想していたことだった。でも、可哀相だけど言わなければならない。この人達のためにも、新さんの、ためにも。
「どうせ新さんは貴方に『もうここにはこれない』と匂わせるような発言をしたんでしょう。だから貴方は焦ってこんなことをした。それが新さんによる誘導だとは考えずに」
考えるわけも無い。今でさえきっとこの新さんがそんなことをするなんて、と信じられない思いでいるのかもしれない。それどころかもう、ソロンさんは言葉もないようだ。すっかり青ざめてしまい、可哀相になるほど哀しそうな顔で私を、私の後ろにいる新さんを見つめている。
けれど後ろから聞こえたのは、少しだけ笑いの滲んだ声。
「ご名答。さすが俺の姉さんだ」
「ほざくな。新さん、君は私を利用するだけじゃ飽き足らず、この姉を試したね」
睨みつけると、益々嬉しそうな顔をする。悪意のない、いつもの新さんの顔。でも、不愉快だ。我が弟ながら、本当に可愛くない子。
私は宝玉を見せ付けるように前に差し出して、続けて言った。
「これを使って帰ることは、さっきソロンさんに聞いた。でも彼は十日かかるなんて言わなかった。例えそうだとしても、それならどうしてこれが装置に組み込まれずに私に手渡されているかということになる。だったら答えは簡単。本当は帰るのに十日間もかかるなんて――嘘なんでしょう? 新さん」
十日間の期限は新さんのためのものじゃない。新さんの計画と、私自身のために用意されたものなんだ。
問いかけに対する答えは、少しも動じない新さんの笑みが物語っていた。何を言われているのか解っていないのかと勘違いするほど、穏やかな笑顔だ。まるで、それが暴かれてむしろスッキリしていると言わんばかりに。それが益々私の苛立ちを助長させる。
「私を拉致する計画に狂いが生じたのは、新さんが何かしらの方法で予定を早めさせたからでしょう。だから彼らの行動には穴がありすぎたし、それにしては私を攫うのに手際がよすぎた」
「うん」
「うんじゃないよ。どうせ私が自分からココに来ることも解っていたんでしょう。全部読んでいたけど、新さんはあえて後手に回っていた。どうせ最後には自分の思い通りになるって、知っていたからだね。うん、ちょっと頭がいいからって調子に乗ってんじゃねーぞいっぺん肥溜めに落ちて性格矯正し直せボケ」
おっとここでまた失言。ついつい心の声がぽろっとどころかまるまる出てきちゃったぞう。
最後にものすごい台詞を付け足したことに対して、ただにこにことご機嫌な笑みを浮かべている新さんとは対照的に、ソロンさんは「何今のありえない聞き間違い」みたいな顔で口をあんぐり開けている。おまけに私の突然の毒舌に動じない新さんを見てもドン引きしているようだ。
私もドン引きだよ。どうせそんなに驚かないだろうとは思っていたけど喜ぶとは想定外だ。なかなかやりおるこのチート。そしてやっぱり気に食わない。
思わず深いため息をつくと、慰めるように新さんが頭を撫でてきた。
「姉さんはすごい。ちゃんと俺の期待通りに動いてくれた」
「それ褒めてないから」
「うん、でもまだ一つ足りない。まだ俺は姉さんの答えを聞いていない」
答え。答え、答え、答え、こ、た、え、ね。
さりげなく新さんの手を払いのけながら、じろっと睨んでみる。「言う必要ないんじゃないの?」と目で訴えてみつつも、新さんは相変わらず嬉しさを隠せないような微笑を浮かべたままじっと待っている。
ああ、もう、しょうがない。観念して、ぽかーんと呆けるソロンさんへと向き直った。
「そういうわけで、ごめんなさいソロンさん。私もあの時、新さんがどうするのか知っていたのに貴方に黙っていました。ただ、あの言葉は嘘ではなかったんです。こう見えて新さんは、あからさまに縋られると弱い人なので、望みが無いわけじゃなかった」
私の言うことをいつも拒めないように、ね。
何が嬉しいんだかいつまでもにこにこしている小憎たらしい弟を手招きして、一緒に頭を下げさせた。
「本当にごめんなさい。新さんはあちらの世界に帰ります」
「……ごめんなさい」
頭を下げているその顔が、どれほど嬉しそうな顔をしているのか私には見えない。
きっと新さんはこの言葉を私に言わせたいがために、こんな回りくどいことを仕組んだのだろう。高校一年生になったばかりの中学生上がりの子供が考えるような、無邪気なゲーム感覚の企みによって。
そして、頭上から静かなため息が降りかかる。頭を上げると、少し寂しそうな、けれどもう諦めきった表情のソロンさんの顔が私達を迎えた。
「解っておりました。……ええ。ちゃんと、解っておりましたとも」
諦観した、けれど暖かい眼差しが新さんに注がれている。まるで悪戯をした子供を最後には許してしまう親のような、仕方ないなって顔。
その表情に、これまで新さんがどれだけこの人に目をかけられてきたのかが、解るような気がした。そこには私の知らない、今まで積み上げてきた沢山の思いが詰まっているのだろう。それはきっとソロンさんだけじゃない。この国にいる、新さんに関わった人々全てが抱えている、共通の思いだ。
新さんはこの国の人に心から愛されている。必要とされている。私は今回のことで改めてそれを思い知った。本当に痛いほど、思い知った。
そして一連の事件はひっそりと終着を迎え、残りの数日間で新さんはお世話になった人々に別れを告げていった。私はそれを彼の横で、彼との別れに多くの人が涙する姿を見届けた。誰も彼もが彼との別れを惜しみ、けれどその別れすら最後には祝福に代えて、沢山の笑顔を最後の手向けにと彼へ贈っていた。
最後のお別れのための夜会が終わり、新さんは今度こそ本当に全ての人と別れを済ませた。一応その隣には私もいたけれど、もちろん蚊帳の外で、それどころか私がいることさえ気づかれていないような状態だった。
ま、いいんですけどね。役割の終えたモブに誰も用なんかありませんよね。へーへー。ぐったりしながら、私と新さんは少しだけ抜け出して休憩室のソファに座り込んでいた。
「あー本当に茶番もいいところだった。疲れた。新さん肩揉んで」
「うん」
新さんに振り回された数日間を思い出しながら嫌味に言うと、新さんは特に嫌な顔をせずに私の後ろに廻って肩を揉み始める。力の加減も申し分なく、的確につぼを押さえている。こんなところまで手際がいいのはどうかと思う。気持ちいいからいいけど。
「姉さん」
「んー?」
「ありがとう」
二人きりの部屋に、新さんの静かな声が、しんみりと伝わった。私は新さんに背中を預けて項垂れながら、解りきっているその意味にこっそりと苦笑を漏らした。
「一応聞くけど、なんで?」
「うん。俺、姉さんがああ言ってくれると信じてたけど、本当は怖かったから」
言いながらも、肩を揉み続ける。優しい、新さんの指。その指が私を傷つけたことなんて一度もない。声も、仕草も、何もかもが、私に優しい。どうしたって、触れるときも話しかけるときも、いつももどかしいくらい、そっと私を包み込む。
それはきっと優しいからだけじゃない。新さんはきっと、私が怖いのだ。それを知りつつも、その感触をかみ締めながら、私はゆるゆると首を振る。
「お礼なんて必要ないよ。あの時は叩いてごめんね、新さん」
解っていた。新さんがあんなことをした理由も、本当はゲーム感覚なんかじゃなかったってこと。どうにかソロンさんに解ってほしくて、あんなことを企んだのだということ。きっと最後には、「自分はこんな人間なのだから気にかける必要はない」と思わせたかったのだということ。
新さんは、だって、いつだって相手のことを思っているから。そこには悪意なんて微塵もない。新さんは新さんなりのまっさらな心で、いつも相手と向き合っている。そう。私と違って。
「姉さん」
「……なに?」
ふと、肩を揉む力が止む。その肩に、くすぐったい感触がさらりと乗る。新さんの頭が、甘えるように私の肩に乗っていた。
「あの手紙、嘘なんだよな?」
手紙――とは、脅迫状のことか。まだそんなこと覚えていたのか。ふっと笑って、答えの代わりに新さんの頭をぽんぽんと撫でた。新さんは私の肩に両手を乗せて、そのままポツリと呟く。
「帰ったら、言いたいことがある」
穏やかな、けれど熱の篭もったその言葉。聞き返す前に、新さんは再び呼ばれて席を外した。
そして私はそこに取り残され、肩に残った新さんのその感触を忘れまいと、いつまでもずっとそこに座り込んでいた。
そして、最後の日。見送られるのは苦手だからと、向こうに送ってくれるソロンさんだけを伴い私達は神殿を訪れた。
ソロンさんは宝玉を新さんに託して、陣の上に立つように促した。新さんと私は陣の中心に立ち、ソロンさんが呪文を唱えている横で新さんが呟く。
「姉さん。いや、カ」
「新さん」
新さんが何か言いかけたのを遮った私の声と同時に、ソロンさんが「送ります」と告げた。それとともに、淡い光を放ちだす陣の内側。
私はゆっくりと新さんを見上げ、微笑んだ。きっと今まで生きてきた中で一番、心のそこからの、とびきりの笑顔で。
「さよなら新さん」
大き目の一歩で後退し、陣の外側へ。その瞬間に、あの時と同じ光を放つ陣。唖然とする新さんをそこに置き去りにして、そして私は――異世界に一人、留まった。