轢轢轢
「美玖ちゃんってさ、視えるんだよね?」
先程までの雑談と同じ調子でハンドルを握る幹也が話しかけてきた。
「視えるって何が?」
「ほら、幽霊だよ」
決して茶化そうというわけではなさそうだったが、どこか幹也の口調は楽しげに聞こえた。
「まぁ……視えるけど」
「へぇーほんとに視えるんだ」
同じ大学のサークルで出会った幹也とは今日で三度目のデートだった。
映画、カフェ、ご飯という当たり障りのない至って普通の内容だったがそれなりに満足している。
少し幼い見た目と常に微笑んでいるような柔らかく優しい空気感ながら、背丈は180を超え、スタイルの良さはシンプルに人目を引いた。どこか他の男と違う余裕は父親が医者という家柄と富もあってだろうが、そこに嫌味を感じさせないのは彼の人柄が成せるものだろう。
幹也と二人で過ごしているという事に優越感を感じていた。
おそらく今日、私達の関係は一線を超えるだろう。車種に詳しくはないが、父親に買ってもらったというおよそ大学生が乗るには本来そぐわないであろう、シックで滑らかな黒い車体の中、夜のドライブを楽しむ今に私は高揚せずにはいられなかった。
ちなみに今の車は二台目だそうだ。それを聞いてあまりの経済格差に思わず笑ってしまった。
そんな事を考えていた所に幽霊の話を持ち出されて少しげんなりした。馬鹿にされたりする可能性もあるのであまり大っぴらには話していなかったのだが、少し前に酒の席で怪談的な話題になった事があった。アルコールで気が緩んだ所もあったのだろう。そこで私は昔から霊感がある事をつい話してしまったのだ。
「どんな感じなの? 僕全然霊感ないから全く視えないんだけどさ」
「昔よりかは視えなくなったけど、割とはっきり」
「へぇーすごいね。羨ましいなー」
時間あるならちょっと付き合ってよと、ただそう言われただけでナビには特に目的地は設定されていなかった。だがもう時間は21時を過ぎている。家まで送るという流れならばとっくにそうしているはずだが、走り始めてニ十分程経っても幹也から特に帰ろうといった言葉は出てきていない。ならばおそらくそういう流れになるだろう。このままどこかのラブホに入るなら私はすんなり受け入れるつもりだった。
「今もさ、視えてたりする?」
暗く細い夜道の先を幹也が指差した。一車線にしては広いが、対向車が来れば心もとない一本道で少し先に交差点が見える。左右にはガードレールと田んぼ。街灯も車通りも少ない。
「視え、るかも」
ちょうど交差点のあたり。道路の右側に立つ男の姿が見えた。遠目だが白シャツにズボンというシンプルな出で立ちだ。
「男? 女?」
「男の人」
「へぇーほんとに視えるんだ」
幹也は怖がる様子もなく、速度を落とすことなく運転を続ける。
暗い夜道に佇む男の姿はやはり異様だった。ただ、もしかすると生きた人間の可能性もある。霊でもはっきり視えてしまう為、見分けがつかないこともままある。
もしあれが生きた人間だとしたら、彼は何をしているんだろう。幽霊とはまた違う怖さが背筋を這い始めた。
「そいつさ、今どんな感じ?」
男との距離が近づく。男は項垂れるように頭をだらんと下げている。
ーーやっぱり幽霊?
どうだろう。分からない。ただいずれにしても気味は悪い。
「なんか、頭だらーんってしてる」
「へぇー何してるんだろうね」
幹也がぐんっと少しアクセルを踏み込んだ。何一つ変わらず先程までと同じ楽し気な幹也の様子にどこか不自然さを感じた。幹也には、本当に男は見えていないのだろうか。
男との距離が刻々と近づく。男の肌の色が視認できる距離まで近づいた。
ふと、男が項垂れながら一瞬こちらを見たような気がした次の瞬間、男は急に道路の真ん中に飛び出してきた。
ーーえ?
がん、ごっ。ぼちゃっ。
車は勢いよく男を撥ね上げた。車体に響く衝撃。フロントガラスにぶつかった男はそのまま左に流れ、田んぼの中へと落ちて行った。
悲鳴をあげる間もなかったが、信じられないことに車は何事もなかったかのように走り続けた。
「止めて!」
はっきりと叫んだはずだが、幹也は車を止めない。
「止めてって!」
二度目の悲鳴。そこでようやく車が止まった。
心臓が爆発しそうなほどに激しく鼓動した。
人が、車が。今目の前で起きた一瞬の出来事が頭の中で凄まじいスピードで何度も繰り返される。
「どうしたの?」
幹也の言葉は一切波打っていない。先程までの雑談と変わらず平常心を保っている。
何だ、この男。自分の運転する車が人を撥ねたんだぞ。何故そんな調子でいられる。全く理解ができない。
「だって、今ーー」
視線を前に向ける。そこで少しずつ違和感が身体に染みわたっていくように広がっていった。
轢かれたはずの人間。
轢いたはずの車。
この二つの事実に対して明らかにおかしな点があることに気付き始めた。
「今、何か視えてるの?」
視えていない。何も。
おかしなものは何もない。男が現れる前の状況から何も変わっていない。
そう、何もだ。
あれだけの衝撃がありながらフロントガラスにはひび一つ入っていない。
ゆっくりと車から降りる。暗く静かな夜が私を見下ろしていた。車体の前に移動する。当然のように車体には傷どころか汚れ一つない。呆然としながら私は再び助手席に戻った。
「何も、視えてないよ」
ーーあぁ、そうか。
あの男はやっぱり生きていなかったのだ。きっと昔にもこうやって死んだのだ。
今みたいに車道へ急に飛び出して、今もその時の死を繰り返しているのだ。
そういった霊ならこれまでも何度か見たことがある。つまりはそういう事だ。ならば車に傷も汚れもないのは当然だ。実体のないものを轢いたのだから。
そうなると轢いた瞬間のリアルな衝撃は何だったのか。おそらくは男を轢いた瞬間その当時の時間、空間に戻されたか、いわば男の世界の中に巻き込まれたのだろう。
「ここね、よく来るんだよ」
私が恐怖と混乱の渦にいまだ片足一本残して抜けきらない中、幹也だけはずっと同じ調子だった。
「凄いよね、もういないはずなのにまた轢けるんだもん」
幹也の妙な言い回しに、また渦に一歩引き戻された。
また、轢ける。また、とはどういう事だ。
「ここに来るとね、何度でも轢けるんだよ。僕には霊は視えないけど、リアルに人間を轢いた時の感覚はいまだにこの場所に残り続けているんだ。だからいつでも体験できる。轢きたいと思ったらここに来ればいいんだ。便利だよね」
微笑みを絶やさず動く口元が途轍もなく気持ち悪かった。人間が話しているのではなく、人間を被った何か別の生命体が口を動かしているような気味の悪さに胃袋が気持ち悪くなった。
「こうやってね、たまに視える子と一緒に来るんだ。中にはくそみたいな嘘つきもいるけど、美玖ちゃんは本物みたいだね」
心臓が警鐘を鳴らすように再び鼓動を速める。気味の悪さの理由が幹也という理解不能の危険な生き物に対してである事を、今更脳と身体が理解し始める。
だがもう遅い。逃げ場はない。ここで降りて全力疾走で逃げたところで、あの男と同じように自分も轢かれて終わるだけだ。
「帰ろっか」
*
結論から言えば、私は無事に家に帰ることができた。結局ホテルに立ち寄ることもなく、真っすぐに幹也は私を家まで送って帰って行った。それがまた怖かった。私を誘った目的は、本当にただこれだけの為だったのだ。
「今日のこと、誰かに言ったら殺すからね」
別れ際、挨拶のように笑顔で言われた言葉に私はただ頷くしかなく、その後大学はもちろん、知人にこの日の出来事を話すことはなかった。
サークルは当然辞めた。幹也と会うのが怖かった。
わざわざ幽霊を何度も轢き続ける行為の理由は、何度思い返しても理解できない。
サイコパス、異常性癖。虫も殺せないような柔和な笑顔からは想像できないどす黒い邪悪が幹也の中にあるのは間違いなかった。
“美玖ちゃんは本物みたいだね”
さっさと忘れたい記憶だったが、どうしてもこの日の出来事は長らく頭にこびりついて離れなかった。そしてそのせいであの時気付けなかった別の違和感の正体が露わになった。
何故彼は私を本物と認めたのか。
彼は自分には霊は視えないと言った。なのにどうして私が視えていることを認める事が出来たのか。
幹也はあの男を知っていた。
項垂れた白シャツの男を彼は見た事があった。生前の彼の姿を。
“ここに来るとね、何度でも轢けるんだよ。僕には霊は視えないけど、リアルに人間を轢いた時の感覚はいまだにこの場所に残り続けているんだ。だからいつでも体験できる。轢きたいと思ったらここに来ればいいんだ。便利だよね”
彼の車は二台目だった。何故、一台目から乗り換えたのか。
想像でしかない。そんな事があるわけない。そう信じたい。だが彼に金と権力があるというのは事実だった。
幹也は一台目であの男を轢いた。だから乗れなくなった。
男の死は車と共におそらく闇に葬り去られた。
これだけでも十分恐怖だ。だが幹也の行動は恐怖の上を笑顔で轢き潰していくような悍ましいものかもしれなかった。
あの場所に行けば、また同じように死のうとする人間を轢けるとでも思ったのだろうか。真意は分からない。何にしても、自分が轢き逃げを起こした場所に幹也は平然と訪れた。
そこで偶然にも知る。あの男を轢いた時の感覚を、そっくりそのまま追体験出来ることを。霊感のある人間を同席させたのは、本当にまた自分はあの男を轢けたのかを知りたかったから。
それ以上の悪意があったであろう事も十分考えられる。およそまともな人間の思考回路で対応できる存在ではない。考えたところで到達することはできないし、したくもない。
“美玖ちゃんってさ、視えるんだよね?”
今となれば、何も知らず浮かれていた自分も恐ろしい。
私の知らない所で、彼は今もあの男を轢き続けているかもしれない。
でも私には、真相を追及する事も彼を止める勇気もない。




