人魚の星
久々の重力にも次第に慣れてきて、低重力と船内で鍛えていた分のおかげで座れるくらいにはなった。もうしばらくは休憩が必要そうだが、どうもこの辺りは安全そうだ。
暖かい空気と波の音で眠くなってきた。今にも瞼が落ちそうになる。
急に視界が暗くなった。太陽に雲がかかったかと薄く目を開くと、すぐ目の前に女の子らしい顔が現れた。
一瞬呼吸が止まった。地球では感じられないほどの驚きと恐怖。どれくらい混乱していたかわからないし、その間全く理解すらできなかった。「なぜ人間がここに?」と巨大な疑問が邪魔して結論を出せない。するとその時、ふとあることに気づいた。
足がない。
正確に言うと、長い魚の尾のようなものが代わりについていた。よく見ると、上半身全体がきめ細かい肌色のうろこに覆われ、髪はうっすらとぬめりを持ち、耳は小さくとがっていて、何より猫のように縦切れの瞳になっている。そして尾の部分の大きなうろこは、エメラルド色と空色が不思議に混じる、宝石のように美しいものだった。その容姿からは、「人魚」をあまりにも容易に連想できる。
「誰?」
思考がままならない。対話なんかできるはずないのに、まず率直に疑問をぶつけてしまった。だが彼女は目立った反応をせず、なんなら少し首をかしげている。
「ギィー、ギィーー」
彼女は口をイーと横に伸ばし、クジラのような音を発した。彼女の口には、とがった前歯と平たい奥歯が綺麗に並んでいる。うろこ、髪、瞳、歯…体を覆う何もかもが虹色の光沢を放ち、さながら宝石のようだ。
「不思議ですね、魚類が人型に…いや、人魚型に…?」
背後から、アストラが機械とは思えないほどぬるりと現れた。目の前の未知の生物に集中していたおかげで、思わず「ぎゃあっ」と情けない声を上げてしまった。それに合わせ、人魚はビクンと小さく跳ねる。
「きっと脳も肥大化しているのでしょう。もしかすると、言葉を話せるのかもしれません。」
「それは、つまりどういうことだ?」
「彼女はこの星において人間の立ち位置にいると思われます。」
興奮する心臓を抑え込みながら、改めて人魚の少女を観察してみた。
彼女の顔は人でいうところの「童顔」で、人より眼球が大きかった。また全身がうろこで覆われており、上半身は細かい肌色のうろこ、下半身は大きい宝石のような青緑色をしたうろこになっていた。
何よりの特徴は下半身で、上半身の長さよりも半分くらい長い。その先端にはクジラのように横に広がる尾びれがついており、手の細長い五本指の間には、折りたたまれた水かきと思われる皺があった。
それから、人と同じく乳房のような形状の小さな山や腰のくびれなど、一目で女性とわかる体系をしている。泳ぎに対してこの体型に有用性はあるのだろうか。
また、彼女たちには服を着る文化がないらしい。実際俺の服を不思議そうに摘まんでは引っ張ったり弾いたりしているし、そもそも彼女自身が服らしきものを着ていなかった。
ただ、彼女の首には青、金、黒、赤、白の五つの小さく輝く宝石がついたネックレスをつけていた。それに関して、なぜか彼女は触れられることをすごく嫌がった。
試しに、彼女に近づいてみた。それで分かったのは、彼女は距離が近いことをさほど気にしないということだ。ほんの十センチほどの距離まで顔を近づけたところで、俺のほうがギブアップしてしまった。そりゃ、人に見せれば美少女と言われるような顔にどんなに近づいても表情一つ変えず目を合わせられ続けるのだ。耐えるには俺自身の精神力が足りない。これに関しては同族だと思われているのか、単に警戒心が小さすぎるのか…もしくは、彼女があまりにも強いのか。
現時点では、生殖器らしきものを見つけられなかった。そのため、そもそも彼女を彼女というべきか、そもそも性別がないのかもわからない。
彼女は俺が何か行動するたびに独り言のように何かを呟いており、そのどれもが単調な音の組み合わせだった。これならモールスのように覚えられるかもしれない。
手に触れてみた。その手も硬質で魚的なうろこに覆われていたが、手のひらは薄い肉球のように柔らかかった。親指でぐっと押してみると、淡く赤っぽく発光する。光の様子を見るにこれは皮下組織が発光しているもののようで、色からしてこの生物の血液は赤色なのだろう。がぜん親近感が湧く。
彼女は随分とおとなしい。こんなにも触れたり観察したりしているのに、暴れるどころか逆に観察し始めている。たまに俺がさっき話した言葉を真似するように声を小さく発し、不思議そうに連呼している。頑張れば人の言葉も話せるのだろうか。
「こんなもんかな。お前も俺を観察できたか?」
俺は彼女の右頬から顎下までを撫でながら言った。言葉は通じないのに、なんだか話したくなる。まるで公園の野良猫のようだ。彼女は変わらず俺の言葉を復唱している。「が、かんさ…づ、でき…」と、次第に発声が安定してきた。言葉を話すたびに口の中から犬歯のような歯がギザギザと並ぶ前歯が見え隠れし、見た目のわりにしっかりした顎がせわしなく動く。そのうち発声に満足したように笑い、俺の右手にすり寄ってくる。依然として言葉は理解していないようだが、いよいよ小動物のようだ。
「可愛らしい生物ですね。警戒ついでにこのあたりの海や砂の地質調査を軽く行いましたが、軽い調査とはいえデータが現在の地球にかなり似ています。おそらく、地球とほぼ同時期に太陽系で生まれた星なのでしょう。何に関しても本当に不思議なところです。」
アストラが地面に落としたカメラモジュールを引き上げながら話した。その様子によほど驚いたのか、人魚の少女はその大きな猫目をさらに大きく見開いて硬直してしまった。その顔は見慣れず、少し怖かった。
「頭だと誤認したのでしょう。あえて言っておきましょうか、『私は不思議なので、どこが分離しても元に戻ります』。」
アストラは急いでカメラモジュールを本体に戻し、元の立方体形状に戻った。
彼女、もとい人魚は、俺に随分と懐いてしまった。さっきのがよほど心地よかったのか、異様に右手にすり寄ってくる。そのたびに頬周りを撫でてやると、グルグルと喉を鳴らして満足そうな表情をする。手を離すとまた寄ってくる。
かわいい。半年の宇宙の旅の疲れがじわじわと癒されていくのがわかる。うろこに包まれているせいか体表はひんやりしていたが、俺の体温で頬周りだけ少しだけ温かくなっている。だが、流石に衰えた腕では頬を撫でるのがきつくなってきた。たまらず手を砂の上に下ろすと、彼女はその手を拾い上げて頬にあてた。
「アストラ、体力が戻るまでまだ時間がかかりそうだ。数日間この辺に駐屯しよう。」
「そうですね。私は着陸船を軽く修理しておくので、休憩しながら彼女を愛でてあげてください。」
どうやらアストラもこの人魚に対する警戒心が解けたようで、そう言って着陸船の中に入っていってしまった。
言葉を教えてみることにした。とりあえず俺の名前を覚えさせてみよう。俺は自身の顔を指さし、「鳴海」と言ってみた。案の定、彼女は「だ…なぁ、なりゅ、なる、みぃ?」と復唱した。もう一度「鳴海」と言うと、彼女は「なぁる、みぃ」と続ける。さらに「な、る、み」と分けて言ってみると、「な、る、み」と結構いい発音が返ってきた。「そう、鳴海」と改めて自身の顔を指して言った。すると彼女は真似するように俺を指さし、「なるみ?」と言った。俺はすこぶる嬉しくなって、めいっぱい両頬下を撫でてやると彼女は気持ちよく笑った。
少しして、アストラが戻ってきた。彼はちょうど後方二本の腕で歩いてきているところだった。人魚の少女はやっぱり驚いてしまい、少しばかり警戒しているようだ。
「船内はひとまず動くようになりました。おや、随分仲良くなったようですね。」
気づけば、彼女は俺を盾に後ろに回っていた。俺なら相対せると判断したのだろうか。
「なるみ?」
彼女はアストラを指さし、確認するように言った。
「いいえ、私はアストラです。」
「わ、た…あす、と…?」
「アストラ。」
「あす、とら?」
「ア、ス、ト、ラ」
「あすとら。」
彼女はへぇと言わんばかりの表情で繰り返した。
「鳴海さんは、私に名前を教えるときにこうしていましたよね。覚えておけば役立つものです。」
その時、俺の腹の虫がぐうと鳴いた。なかなか大きな音が鳴ったので、彼女は少し驚いたように俺の腹を見た。彼女は自身の右手を俺の腹に当て、同じように左手を彼女自身の腹に当てた。手で触れた部分が淡く光る。俺の腹に触れる彼女の右手は張り付くようにほんのり温かく、そしてこそばゆかった。
「お腹がすいたようですね。食料を取ってきます。」
アストラはそう言ってくるりと着陸船のほうに向きを変え、トコトコと歩いて行った。
彼女はふと、何かを理解したかのように何か話し、地面を跳ねるように海に飛び込んで行ってしまった。太陽光に輝く砂を散らし、目を見張るほどの跳躍の後、青色がかった水しぶきを小さく上げて海中へ消えていく。その一連の動作が、まるでスローモーションのように見えた。
俺はアストラが持ってきた宇宙食を平らげた。満腹とはいかないが、小腹ぐらいは満たせる。それよりも平気でモノを落としたりするような、無重力に慣れすぎた弊害が現れ始めていることが大変だ。重力があるだけでここまで大変だとは思わなかった。いや、初めて宇宙に行った時も無重力なだけでここまで大変だとは…とか思っていた気がする。
その時、海が強く波打った。水面をすべるように動きながらあの人魚の少女が戻ってきた。随分立派な魚の首根っこを咥えて。
やっぱり、この星は動作が異様に大きく見える。水しぶきが滞空し、彼女も映画のように動きが軽い。
砂浜に打ち付ける波の中から彼女が現れた。その光景に、俺は俺の目を疑った。彼女の下あごから胸や腹にかけて、金属のようにてらてらと反射する真っ赤な鮮血が川のように流れているのだ。それは、魚のような生物を咥える口元から絶え間なく垂れてきている。
「もしかして、捕ってきたのか。」
その生物を見て、俺は驚嘆した。それはまるで抵抗しなかったかのように、首の噛み跡以外一つのキズすらついていない。ただその生物元来の黒灰色のうろこが美しく並んでいるだけだ。彼女らも狩りをすることはもちろん当たり前なのだが、いざ見ると何か複雑な気持ちになる。
彼女は口からそれを放し、おもむろに爪でうろこを剝がしはじめた。彼女はずっと楽しそうに笑っている。一通りうろこを剥がし終えたようで、その紫がかった薄ピンクの肉の腹を縦に割き、下処理を始めた。これを食べるのだろうか。
ついに地球でもよく見る「ひらき」みたいになってしまった。手でさばいたのに驚くほどきれいだ。さすがに慣れているのだろう。彼女はそれを手に取り、背から二枚に割いた。身がきれいに二枚に割れ、その片方を彼女はがぶりと食べた。顎や体にはまだ血が残っていて、ちょっとグロいな、なんてことを考えていると、彼女はもう片手に持っている切り身を俺に差し出し、「ン」と俺の手に乗せた。
生で食えるのか。一旦アストラに渡してみよう。
「これ…ですか。…検査結果ですが、生食が正しいようです。バクテリアなどがついてはいますが、寄生虫はいないようです。消化も問題ないでしょう。ただ、この肉はタンパク質の構成が地球と異なり、加熱すると毒になるようです。」
アストラもさすがに動揺しているらしい。俺はアストラからその肉を受け取り、匂いをかいでみた。思いのほか香ばしくて悪くない。一度深呼吸して覚悟を決め、恐る恐る齧りつく。それは甘いようなしょっぱいような、まるで知らない味がした。思ったよりうまい。
俺はその肉をちびちびと少しずつ咀嚼しつつ、彼女に名前を聞いてみることにした。まず俺自身を指さして「鳴海」と言う。彼女はすぐに反応して「ン、なるみ」と答えた。今度は彼女の顔を指さしてみる。すると彼女は自身の顔を指さし、首を小さくかしげながら「ル、ジュ」と言った。「ルージュ?」と問いかけてみると、今度は逆向きに首をかしげて「ルィージュ」と言った。「ルイジュ?」と言うと、ウンウンと頷きながら頬下を撫でられた。撫でることを「褒めること」と解釈したのだろうか。
彼女の手はやっぱり少し冷たい。その手が発光しているのを視界の端で見ながら、肉の不思議な味を吟味した。気づけば既に太陽は海岸線に消えて、巨大な空球が空を白く明るく照らしていた。
海球時間で三日が経過した。かなり体の感覚が戻り、この星にもだんだん慣れてきた感じがする。ルイジュこと人魚の少女はどうやらこの付近に棲んでいるようで、日が昇ってはこの砂浜に現れ、砂がたっぷりついた手で顔をペチペチと叩いて起こしてくれる。彼女はよく海生動物や海藻を取ってきてはふるまってくれた。この星は一日が地球よりも長いようで、日が落ちきっていないのに眠くなる日や、ぐっすり寝て真夜中に起きる日があった。今日は太陽が地平線に被り、反射光が半月型に光る空球が昇っている。地球とは違って雲が厚いため夕日は白く、太陽光の反射で海が乳白色に煌めいている。それから「空球が昇って」とは言ったが、どうやら一日通しても天球上の空球の位置は変わらないらしい。
「鳴海さん、そろそろ出発しませんか?」
アストラが探索を促してきた。ルイジュの相手ですっかり忘れていたが、タイムリミットは五年なのだ。そんなにちんたらしていられない。
「そうだな。ルイジュはどうしようか?」
「とりあえず軽く意思疎通できるくらいには彼女の言語を学習したので、聞いてみましょうか。」
そんな提案で、改めてアストラがいかに便利かがわかった気がする。
「じゃあ、頼む。」
この辺りは磯のいい香りがする。一昨日のうちに修理された着陸船は近くの森の中に隠され、もはや探索以外に任務は残っていない。今は、こうして暖かい潮風に包まれながら、白い夕日と乳白色の海を眺めるだけだ。重力の影響か、波の音が地球よりも軽いのがまた良い。この景色は後でアストラに撮ってもらおう。
五分ほどして、アストラが戻ってきた。彼は何事もないようにスタスタと二本腕で歩いてきたが、話し声は疲労にあふれていた。
「単純な言語とはいえ、異言語での会話は疲れますね。言語学習能力に関して、心からルイジュさんを尊敬します。」
確かに俺が日本語を教えれば、自分の言語とは全く違う発音のはずなのに一瞬で順応していた。なんて奴だ。
「どうだった?」
「どうやら同行したいようです。雑な解読ですが『準備をしてくる』というようなことを言っていました。」
アストラは手前側の三本目の腕を出し、海のほうを指さした。やっぱりルイジュは本来水生らしい。
「じゃ、俺たちも準備を始めよう。」
「そうですね。」
俺が荷物をまとめるために着陸船のある森へ向かおうとすると、「あ、ちょっとこっちを向いてください」とアストラに呼び止められた。何事かと振り向くと、アストラの「ぱちっ」という独特なシャッター音が聞こえた。
「よく撮れましたよ。やっぱり、本当に美しい星ですね。」
アストラが腕モジュールから小さなモニターを取り出して写真を見せてくれた。それには、太陽と半月型の空球と乳白色の海を背に、影となった俺の姿が完璧に映っていた。




