アストラ
ある日、俺は二つのマグカップを持って研究室のガスコンロのところに向かっていた。瑞野さんの顔からは以前の苛立ちと疲れが消散し、依然と同じ生き生きとした面持ちに戻っていた。あんなにパリパリだった服も柔らかい印象に戻った。そんな時、俺はパソコンの画面を覗き込む彼女の顔を見てふと思った。
「お姉さんって、いくつなの?」
彼女は最初俺が何を言っているか理解できていない様子だったが、すぐに年齢の話だと分かったらしい。
「ああ。私は二十二だが、それがどうかしたのか?」
彼女は少し首を傾け、問い返した。
「いや、初対面から六年は経ってるのにずっと顔綺麗だなと思って。」
そう俺が言うと、しばしの間の後、彼女は急に赤面してしまった。
「え、え?」
彼女は何を言っているのだという様子でわたわたしている。いつもと違う彼女は、ちょっと可愛らしかった。
「小学生が言うことじゃないでしょ。ほら、完成したから、見てちょうだい。」
顔の赤みを絞り出すように頬を引っ張り、机の上の2×2×2の金属でできた立方体のほうを向いた。その八つ組まれている立方体のうち、中の基盤がむき出しになった立方体を手に取る。そして近くに置かれたパソコンのUSBから小さな黒いメモリを取り外し、その立方体に差し込んだ
三つの穴が開いたカバーを取り付け、スライド式のトグルスイッチをはじく。すると、一番右の穴が白く光った。この色は、最初の奇怪な緑の基盤にあったランプと同じ色だ。彼女はポケットから毎度お馴染みのコントローラーを取り出し、十字型のボタンを上に倒す。途端に、ガタリとロボットが動いた。
少しすると、下半分の四つの立方体が花のように開いた。中からは機械的な直方体が顔を出し、スリットから割れて細長いアーム型になった。四つある腕関節を一つずつ回し、先の四本の指をカチャカチャと動かす。そしてその腕は元の立方体型に格納され、元の形に戻った。
と思えば、今度は手前側のある一つの立方体に、横に帯のように広がる窓が開いた。そこからは黒いカメラレンズが顔をのぞかせ、左右にそれぞれクルクルと二回転させてから窓を閉じた。今度は奥側の一つの立方体の上部がシャッターのように前後に開き、中からバッテリーのようなものがいつぞやの食パントースターのように上半分を飛び出させた。それはすぐに収納され、今度は同じところから大きめのソーラーパネルが畳まれた状態で生えてきた。それは二回ほど伸縮すると、またシャッターの中へ姿を消した。シャッターが閉じると、最後の立方体が側面の二面をパカリと開き、大量の端子がついたコードを吐き出した。わかるうちではACアダプター、USB、HDMI、他にもSDカードリーダーとUSBポートが垂れていた。それ以外にいくつか、まるで見たことがない形状の端子が見えた。それらもすぐに収納され、元の形に戻った。それからは微動だにしなかった。
気づけば、俺は彼女の服の袖をつかんでいた。ハッとして手を放し、口を開く。
「これの名前ってあるの?」
「そうねー、『彼』の名前はやっぱりアストラかな。プロジェクト名もそうだし。」
俺は数回軽くうなずいた後、パソコンの画面を見た。そこには「Astra_Unit-06」という文字と、アルファベットと数字の羅列が何文字何行と数えきれないほど連なっていた。
彼女は言った。
「じゃあ明日からアストラの脳みそを作るのに集中するから、しばらく来ないでね。完成したら鳴海教…あなたのお父さんに通知を送るから。」
「わかった。けど、なんでお父さんに? それじゃアストラの存在がバレちゃうでしょ、必要なら俺の連絡先教えるよ。」
俺がポケットからスマホを取り出そうとすると、彼女は人差し指の腹を俺の唇に突き立てた。
「いいの。次回はアストラのお披露目だから、せっかくだし教授にも見せてやろうと思って。お父さんのマヌケな顔と、最高のサプライズを期待しててね。」
彼女は挑発するような笑顔を見せ、パソコンに向かった。
「…わかった。楽しみにしてるからね。」
そう言って研究室の扉を開けると、彼女は「任せといて」と言わんばかりにグッドサインをパソコンのモニターの上から突き出すように伸ばして見せた。
一か月後と少し後、俺は自宅のリビングで映画を見ていた。
彼女の研究室に行かなくなってからというもの、自分自身にあまりにも趣味がないことに気がついた。既に中学一年生として近所の中学校へ進級していた俺は、まさにそれのせいでクラス内で孤立していた。今日も、ただ放送されていたギャグっぽい時代劇をボーっと流し見していた。
そんな時、お父さんから電話があった。
「航汰か。さっき瑞野くんからメールが来てな、『息子さんと一緒に私の研究室に来てください』だと。今日はこの後どこか時間空いてるか?」
太くてパキッとした男の声がスマホのスピーカーから流れた。案外柔らかな話し口と話の内容に、俺の心臓は「よしきた」と言わんばかりに鼓動を加速させた。
「さっきは映画を見てただけだからすぐ行けるよ。先月言ってたんだ、『最高のサプライズ』があるって。」
あえて「お父さんのマヌケな顔」の件と内容の詳細は伏せておいた。淡々としゃべっているが、もちろん内心穏やかじゃない。この時をどれほど待ちわびたか。
「そうか、それは楽しみにしておかないとな。瑞野くんが俺まで呼び出すなんて、よほどのことなんだろう。じゃあ後ほど俺の研究室で会おう。」
そう言って、お父さんは電話を切った。
俺はすぐに大学に向かい、お父さんの研究室の前まで来た。一呼吸おいて扉をノックしようとした時、そこから扉が消えた。
いや、お父さんが出てきた。内開きの扉がその一瞬でほぼ全開まで開かれ、扉めがけたその拳は空をかすめて危うく倒れそうになった。そこには真顔の、いや少し拍子抜けした顔の、俺より二回りほど大きい男が立っていた。
「おお、来たか。俺はもうちょっと準備するから、部屋の中で待っててくれ。」
倒れそうな俺の肩をサッと支え、手短に話して去っていった。お父さんはなんだか「フットワークが軽すぎて、そのくせ無茶ぶりも割とちゃんとこなす」から、学生に好かれて教授たちにいびられがちな先生という感じだ。端的に要約してすべて話すため、聴き取れさえすればきっと最高の先生だろう。
部屋に入ると、驚くほどきれいに整理された棚と机があった。いつも散らかっている俺の部屋やお姉さんの研究室をずっと見ていた俺からすると、かなり異質な空間だった。ふと部屋の奥を見ると、地上波テレビがつけっぱなしになっていた。そこには「空球、海球の無人探査失敗」と大きく書かれたテロップと、ちょうど中間で太陽フレアのような環がギラギラ光る白い連星の映像が流れていた。
「準備完了。航汰、行くぞ。」
数分して、お父さんが戻ってきた。お父さんは俺に合わせて横並びに歩き、学校のほぼ対角にあるお姉さんの研究室に来た。この「瑞野 凛」という表札はこの六年間で何度も何度も見たが、たった一か月空いただけでこうも緊張してしまう。
お父さんが扉を三回ノックした。
「瑞野くん、鳴海だ。入ってもいいかい?」
数秒後、その研究室の扉が開いた。
「こんにちは、どうぞ。おっ、久しぶりだね、鳴海航汰くん。」
お姉さんはお父さんに対して随分態度が素っ気なかった。転じて、やっぱりいつも通りだった。その口調からは、抑えきれないわくわくと期待感がにじみ出ていた。
「今回はどうしたんだ。航汰も連れてきて、ただ事ではない気がする。」
お父さんは勘が鋭い。きっとほぼ的中している。
「そうですね。航汰くんは何が何だか大体想像つくと思うけど、教授にはやっぱり驚いてもらおうと思って『あえて』何も言ってないんです。」
彼女は一瞬俺を見て、確認するようにウインクして見せた。俺はそれにこたえるようにニッと笑って見せた。おそらくお父さんと差別化するためだろうが、名前呼びされるのはなかなか新鮮だった。
「それじゃあ、こっちに来てください。」
俺たちは部屋の奥に案内された。その先に見えたのは、まさにアストラが動いているところだった。アストラはカメラのある立方体の窓を展開し、三つあるうちの真ん中のランプを緑色に光らせ、四本の腕を下半分の立方体から出し、クラゲのような姿で立っていた。
「…これは?」
お父さんが口を開いた。お父さんは少し警戒するような、それでも「へ?」というような顔をしていた。
「AIロボットのアストラです。外から得る情報によって思考を変化させ、学習していきます。現時点ではまだ三週間くらいしか『教育』していませんが、今後もまた変化があるでしょう。彼はインターネットにつながる能力を持っていないため、私たちがイチから教える必要があります。」
アストラは一本の腕を持ち上げて一枚のコピー用紙を器用につまみ、折りたたみ始めた。
「あれは何をしているのだ?」
お父さんは淡々と、それでいて好奇心を感じる声で聞いた。
「とりあえず紙飛行機の作り方を教えたんです。体の使い方、作業の繊細さ、力加減、記憶力を同時にテストできるので。現時点でも10TBほどの記憶領域があるため、約二か月分くらいは知識を記憶できます。」
知らない単位や用語が出てきてよくわからないが、彼女は常に楽しそうに話していた。十分ほどかけてアストラは一つの紙飛行機を折り上げ、それを投げて見せた。途端に、紙飛行機は思い切り下へ急降下していった。というのも、紙飛行機は綺麗にできていたが、紙飛行機を投げる力と離すタイミングが恐ろしく悪かったのだ。
まさかの早とちりだった。紙飛行機は地面すれすれで急激に方向を変え、空中へ戻っていった。
「おそらく、『投げ方を変える』より『紙飛行機の構造を変える』ことを選んだんでしょう。」
腹を擦るように着陸した紙飛行機は、確かに羽の最後尾が上に反っていた。
「これは…驚いたな。」
そう言ったお父さんの表情は完全に緩み切っていた。対してお姉さんは満足したように笑っていた。
お父さんが何か難しそうな混乱した顔で部屋を出ていった後、お姉さんが言った。
「彼は君にあげる。」
「え?」
あまりに突飛なことを言われて、理解するために二秒くらい考えてしまった。
「…なんで?」
俺がそう言うと、「何を分かりきったことを」と言わんばかりにフンと鼻を鳴らし、答えを言った。
「最初に言ったでしょ、『君に合わせて作る』って。アップグレードや修理はその都度してあげるから、好きに教育しな。後で同じものを私用に作るつもりだから、気が向いたらいつでも彼と一緒にここに来てちょうだい。あと、声は彼が勝手に決めるはずだから、そのうち話せるようにもなるはずだよ。」
彼女は話すうちに段々と早口になっていっていた。
俺はしばし考えた。
「…わかった、ちゃんと育てるよ。」
なんだかペットを得た気分になった。
「あ、そうだ。彼のことはできるだけ他の人には教えないでね。万が一のことがあったらマズいから。」
「そりゃもちろん、そのあたりはちゃんと考えて動くよ。それじゃ、頑張ってね。」
俺はお姉さんにアストラのストレージを増やしてもらい、飛び切りの笑顔を見せて研究室を出た。
その日の夜、スマホからメールの着信音が鳴った。
「こんばんは。教授から連絡先を聞いておいたから、何かあったら教えてね。」
それは、瑞野お姉さんからの着信だった。




