38話
脳裏に一瞬だけ、色味のないちょっとだけ前のレッスン室のことが。ストラディバリウス。ヨハン・ゲオルグ・グレーバー。決して楽しい思い出ではないけど。みんなで喋りながらコーヒー飲んでるよりも楽しくはないけど。大事な、そう大事な。
髪を指でくるくると遊びながら、オーロールは問いを躱す。
「さぁねぇ。不意に弾きたくなる時もあるデショ?」
「いいじゃない。あの時は私もいた。それと環境は違うけども」
振り切るようにヴィズはステージから降りた。永遠にも思える、数十歩の距離。その重く感じるヴァイオリンケースを手にして戻る。そして突き出すように手渡した。
一瞬だけ間を置いて受け取ったオーロール。
「ありがとー」
感謝を伝えてケースから取り出す。照明に艶のあるボディが反応し、輝きを放つ。この瞬間に生まれたかのように、産声を上げたかのように。
ヴァイオリンが持ち主を選ぶ、などという話は信じない。パガニーニは演奏会の前日にギャンブルで大負けして、愛用のものを売ったりしているし。だから楽器は楽器でしかないけど。それでも、これはいいものだ。
切り替え切り替え。自分にできること。それをイリナは実行するだけ。
「……問題ねーって。やることは一緒だ。ストラディバリウスは使わなくていいのか?」
見たところ、たぶんブランシュが使っていたものとは違う。つまりそれはあの名器ではないということ。
頬擦りし、過ごしてきた時間の香りをオーロールは吸い込む。雨に打たれ、風に晒され、虫や鳥が触れ、それら全てを閉じ込めた大先輩の香りを。
「いいよん。たぶんこっちのほうが私の『死の舞踏』には合ってる。あ、それと……」
「……なに?」
まだなにかあるの? 少し硬い表情でヴィズは確認を取る。




