20話
「ストラディバリウス『メサイア』。イギリスのオックスフォードにあるアシュモレアン博物館に所蔵されてるんだけど、その音を聴いたことがある人間がもういないんだ。今後、人類が滅亡するまでに聴けるかどうかも不明だね」
やれやれとジェイドは手を広げて戯ける。降参。白旗。たとえ世界一のショコラティエールになっても不可能なことはある。
ストラディバリウス、その中でも頂点に君臨する『メサイア』は、誰ひとりとして触れてはいけないものとされているため、博物館の最高責任者でさえそれに該当している。楽器とは演奏されることで進化する。だが、これは別。象徴としてのヴァイオリン。頂点としてのヴァイオリン。
そしてここにあるヴァイオリンは。実は『メサイア』ほどの価値はつかないにしても、ある意味では貴重。ほぼ全ての人間が名前すら聞くことのないストラディバリウス『シュライバー』。なのだが、両者ともにもちろん知る由もなく。
メサイア。救世主。救うってこと。その閉じ籠った殻から。どこか捻じ曲がった解釈をポーレットはする。
「なーるほど。私にそれを強奪してこい、と?」
盗めたら猫を描いたカードでも置いてこよう。いくらくらいの値がつくかな。いや、オークションには出せないか。闇ルート的な。
それもいいね、と乗っかるジェイド。
「頼むよ。せっかくだから弾いてみたいね。でも私の名前を出さないで単独犯の愉快犯、ってことにしてくれよ。まだ捕まりたくないんでね」
「んで。遠鳴り傍鳴りがなんだって?」
自分で脱線させた部分もあるが、怪盗時のタイトな衣装を着た姿を想像すると、ポーレットは恥ずかしくなって話を戻す。ジョークなんて慣れないことはするもんじゃない。
もうひとつショコラを頬張るジェイド。うん、ほんのりとした抹茶の味もいい。
「あぁ、そうだったね。これは名のある演奏者でもよく理解できていないことでね。音楽特有のことでもあるだろうね。奏でている音というのは、自身の耳に届いている音とは違う。だから弾き手は常に『この音でいいのか?』という疑念が付きまとう」
とは言っても自分はそんなことが気になる実力はないけど。知識として。音楽をやっていれば、やっていたなら知っている。




