約束
約束をしていた。
彼女の面影が、人混みの中の長い髪の後ろ姿に重なって、追いかけようとすると、人混みに消えていく。
左手の指輪を翳して、嘲笑するように彼女は、馬鹿だなお前、と言って笑った。
いつも粗野な態度で、イラつくと右手の親指の爪を噛む癖があった。冷めた心で人と接して、優しさは見せない。ただ人の真意を見逃さない鋭さはあった。
「お前、私に惚れてんだろ?」
出会ってすぐに恋に落ちていた俺に、社員食堂の椅子に気怠そうにもたれながら、同僚達の視線を集めていることも気にせず、彼女は言った。
「別に」
素っ気なく俺が答えて通り過ぎようとすると、立ち上がって俺の前に立ち塞がった。
頭半分俺より背の低い彼女は、俺を睨むように見上げて、言った。
「女の告白に、別に、はないだろ?」
「今のが告白?」
俺がフッと笑い声を漏らすと、彼女は頬を紅くした。
「いーよ、別に。その気がないなら。わっかりやすい態度で、うじうじ何にも言えないみたいだから、こっちから言ってやったのに」
頬は紅く染めたまま、苛立った様子で彼女は言うと、俺から背を向けた。
俺は咄嗟に彼女の腕を掴んで、ごめん、と謝った。
背中まで伸びた長い黒髪。澄んだ香りがした。
「好きだから、付き合ってください」
俺の告白に、周囲から冷やかしの声があがった。
「後悔すんなよ」
素っ気なく彼女は背を向けたまま言って、俺の手を払うと、そのまま立ち去った。
彼女はその日に会社を辞めて、3日後には俺の部屋にスーツケースと大きなバッグを肩に下げてやってきた。
「え?生活費どうすんの?」
玄関を開けて、開口一番の俺の言葉に、彼女は俺の頬に平手打ちをして答えた。
「後悔すんなって言っただろ」
そう言って彼女は俺を押しのけて、ずかずかと俺の部屋へあがりこんだ。
2人で暮らすには少し狭い部屋に。
彼女はイラストレーターもやっていた。
書店で個展ができるほど人気があるらしく、家賃と光熱費以外の自分の生活費は自分でどうにかするから、と言って、それ以外は俺にはまったく頼らなかった。
俺が出勤してる間、彼女は制作に没頭しているようだった。そういう暮らしがしたくて、手早く惚れた俺を選んだのかもしれない。彼女が俺のことを好きだったのかは、いまだにわからない。
彼女は自分のことはちゃんとしたが、俺のことは一切何もしなかった。自分の分以外は料理もしない、洗濯もしない。
彼女が部屋にいるということ以外、俺の暮らしに変化はなかった。
「主婦になる気はないから、そういうのが望みなら、他の女を探してよ」
セックスの後、余韻に浸っている俺に、彼女は何の欲情を抱く様子もなく、俺に言った。もう一度と思っていた俺の心は、すっかり萎えた。
「一緒にいる意味が見出せない」
俺が言うと、裸のままベッドの端で座っていた彼女は笑った。
「セックスがあれば十分でしょ。あんただって、私の望みを全部叶えてるわけじゃないんだから」
「なんだよ、望みって」
「もっと広い部屋に住みたい。アトリエが欲しい。絵についてもっと知識理解を持って欲しい」
「押しかけてきて、贅沢言うな」
「なら私にも贅沢言うなよ。私はあんたの奴隷になって生きるなんて一言も言ってない。主婦なんてただの奴隷だ」
「別に主婦になって欲しいわけじゃない。葉のしたいようにしていい。ただもっと、2人で色々築いていきたい」
俺はそう言いながら、枕の下に隠していた指輪のケースを取り出して、中から指輪を取った。
裸のまま、俺は葉の隣に腰掛けて、指輪を葉に差し出した。
「このままでいい。でも、2人で暮らしを築いている確証が欲しい。一緒にいる意味が。だから、結婚してくれ」
俺のプロポーズに、葉は嘲笑したように笑った。葉は何も言わずに指輪をはめて、左手を翳して、馬鹿だなお前、と言った。
「私に普通の女を求めるなよ。約束。とりあえず婚約ってことでさ。3ヶ月守れたら、結婚してやるよ」
葉はそう言うと、俺の顔に自分の顔を近づけて、口づけをした。
そのままベッドに倒れ込み、今はそれだけが2人を繋いでいるセックスを戯れた。
3ヶ月。約束をした。
俺は葉に何も求めず、葉も自分の好きなようにした。
個展も決まっていて、葉は忙しそうだった。
このまま時が過ぎれば、約束は果たされると思っていた。
けれど約束の日を間近に控えて、葉は俺の前から姿を消した。
いや、彼女の意志ではないから、消された、と言っていい。
彼女は個展の在廊の帰り道で、変質的なファンに拐われて消息を絶った。
しばらくして拐った犯人は捕まり、葉は犯人の供述通り、山中から遺体で発見された。
葉がいなくなっただけ。
俺の生活は、することは何も変わらない。
ただ葉の面影を探して、粗野な態度と爪を噛む癖と皮肉な笑顔と、まぐわいの温もりの記憶を辿っている。
部屋で1人、慟哭して、憎しみに心を掻きむしってもがいて、夜の暗闇が永遠に続けばいいと願う。
葉が殺された理由は、左手の指輪だった。
指輪に気付いて発狂し、殺せば永遠に葉は自分のものになると、犯人は思ったらしい。
約束さえしなければ。あの暮らし以上の何も求めなければ、葉は生きていたかもしれない。
葉。ごめん。俺のせいだ。俺が、殺した。
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咲馬へ
もしも私が突然いなくなったら、きっと犯人はあいつだろう。路木弘。お前と付き合うずっと前から私に付き纏って、お前に告白する前日には家の前で待ち伏せされていた。
お前が私に好意を抱いていて、尚且つこういうことに巻き込んでも私が罪悪感を抱かない男だったから、私はお前を選んだ。
告白の時に照れた様は、迫真の演技だっただろう。
後悔すんなよ、は私がどうなってもって意味だ。私のことをよく知りもせずに、好きになりやがって、あからさまに態度で見せて、正直鬱陶しかったよ。
私はこういう人間だ。自分の身に危険が迫っていても特に気に留めない。しつこい男は嫌だか、それで何か起こったとしても、変質的な性格は私も同じだ。そんな輩が寄ってくるのは仕方ないと思っている。
お前を巻き込むことに罪悪感を抱いてはいない私を、お前は呆れるか憎むか?この手紙を読んでる時点で、私はこの世にいないだろうから、確認する術はないな。いや、あの世から嘲笑ってやるよ。
私が本気でお前に惚れるわけないだろってな。
おそらく路木は、私を殺すだろうと予感はしている。私は変わり者だ。生への執着はないし、恐怖心もない。
お前が私に指輪をくれた日に、私は死を確信したよ。まぁもう描きたい絵は描ききっていたから、未練も何もない。私は幸せだったよ。絵を描ききれたことが。お前のダサいプロポーズじゃなくてな。
何もしらずに、馬鹿だなお前は。本当に馬鹿だよ。
個展の在廊の後に付き纏ってくるのは路木のパターンだから、きっとこの指輪のせいで私は殺されるだろう。
お前には理解しがたいだろうけど、偏執な人間同士思考はわかる。
私も最後は血生臭い体験をして、死にたいと思っているところだ。だから、私がどんな殺され方をしても、憎しみなんて抱くなよ。
私は喜びの中でそれを受け入れて死ぬからな。死の瞬間まで笑っていてやるよ。
この手紙は、私が死んで何の気力も失ったお前がようやく立ち直って、私の遺品整理をしだした頃に見つかる様な場所に隠しといてやるよ。
この手紙を読んでお前が再び絶望に打ちひしがれる様を想像すると、楽しくて仕方ない。できれば生きて拝みたかったな。まぁそれは贅沢な話だ。あの世から拝ませてもらうよ。そんなものがあるならな。
はじめから、私がいついなくなっても良いようにしといてやったろ?私のせめての優しさと償いだ。
お前のことだ。俺のプロポーズのせいで殺されたなんて馬鹿なみたいに自分を呪うだろう。殺された当人はこれっぽっちもお前を憎みはしないよ。
ああ、最後に救いの一言を書いちゃったな。
まぁ最後に謝っとくよ。もしも何も起こらずに、この手紙を私が生きてるうちに見つけてしまったら、私はそういう女だ。別れた方がいい。
今度の在廊の後に路木が何もしてこなかったら、警察へ行くつもりだ。
お前との約束だからな。絵も描ききったことだし、主婦って奴隷になってやってもいい。
叶わぬ夢だろうけどな。じゃあな、咲馬。
殺されてなきゃ、きっとお前を愛せてた。