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年号を擬人化してその不始末を揶揄するというのはこれはまあ滑稽ではあるかな?いやまあ、そういうふうにしてしまったのは人間であろうというあたりを置いておいての遊びではあるから、分かっててやっているのではあろうけど?
いきなり寒くなって妙な考えが浮かんできたりしているな。まあ、結局のところ自分の所為であるということを認めたくないというか常に突きつけられていると気分が塞がれて何も建設的なことができないので、棚上げしているというか思考停止している、そうするための技術なんだろうなぁとは思う。
これはこうでは困る、ではどうするのかというと、軽々には何も行動できないということがわかるだけであり、細かなことを積み重ねていくしかないということになるわけであるけれども、そのような努力とかが、一度の事故やらでふいになる、消え去ってしまうと、そこに無力感を感じてしまうわけであり、まあ、もういいかと諦めにつながってしまうのだろうなぁと。
そのような諦めの積み重ねが今になっているのだろうということは、何となく分かるんだよね、いや、分かるんなら、そう予想できるのなら、何か対策をしろよ、とは言いたいけど、何やかんやで効果的なそれができないという話でもあるんだよなぁと。
明確にこれをすれば良くなるということがないという話でもあるのと、効果がみれるまでに時間がかかりすぎるので途中でダレてしまうという面もあるんだろうなぁとは思う。
それでも徐々に徐々に良くなってきているので、ああ、これくらいの危機ならどうにかなるのだなあ、という奇妙な安心感が生まれてしまうのもよろしくないのか?
危機感を煽るのはまた厄介な問題を引き起こしそうではあり、ヒステリックになりすぎて、過激な行動を容認してしまったり、誘導してしまったりするわけか?
要はその辺りのバランスが大事ということなんだろうな、行政とか政府とかきっちりと考えて、もしくはおおよそでも予想を立てて、システムを構築しているということなんじゃないかな?
間に合うのかどうかという話ではあるんだろうな、いや間に合わなくてもそれにあがらうくらいには遅延させることができるくらいには、やらなくてはいけなくて、そうやって時間を稼いでいるうちに抜本的な対策とか解決策が生まれてくる、作り上げられてくるのを待つというスタンスでもあるのかなぁ?
時間はかかるけれどもこのままいけば解決できる改善できるというのもあるのかもしれないな、遅いのではという批判は、それだからと言ってもこの歩みを止めるわけにはいけないと反論するしかないのか?
もっと効率の良い方法があるのでは、とか言われて、別の方法を試すのは良いとは思うのだけど、今までやってきたことが無駄になるという場合があって、抵抗が出てきたりするんだろうかな?
何が正しいのかがはっきりしないのが難しいところなのか。
今日はここまで。




