表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
書痴日記  作者: 茶屋ノ壽
41/100

041_20231008

 連休の中日です、中日ドラゴンズではない、なかび、漢字で表記する方が分かりにくくなることもあるのよね、いやまあ、変換が自動で行われてくれて手書きより便利ではあるのであるけれども誤変換が問題ですかね、いやこれは誤変換ではないのであるけれども。


 どうして生きなければならないのか、いずれ死んでしまうのに?という話は結構、小説とか物語とか随筆やら歌集や詩集やら読んでいると良く出てくるテーマではあるんだろうなぁと、いやまあ、結論から言うと、生きている方が楽しいから生きているだけである、と言う単純なものであるわけで。


 何と比べるかというと、死んでしまうくらい苦しいことがいやであるという、比較なわけであり、生きることが苦しくなってしまったら、あっさりと、それを辞めてしまう、場合もあるんだろうなぁと。


 世界はどこかで終わりが来るわけで、じゃあ、今色々やっていることは全部無駄になってしまうのでは、虚しいと言う発想とそれほど変わりはないわけで、で、その感覚は結構正しくて、それはそう。


 いつかなくなってしまうことは確定しているわけではあるので、じゃあ、どう折り合いをつけて生きていくのか?とか、生きる意味を捻り出してみるべきであるのか?とか、考えることになるわけで。


 これが精神が幼い頃に思い悩むと絶望感がかって、そのまま命を絶つとかする人もいるわけで、いやまあ、幼いと言うか、繊細?考え過ぎてしまう?頭が良すぎると言うか、杞憂がすぎるような感覚であろうかな、そう言う精神がいけないというわけではなく、時と場合によってはかなり優秀な感じではあるのだけれども。


 小さな人は経験をしていないので、楽しさが分からない、命の重さが分からない、人生の価値が見られない、想像が足りない、と言うような言い方はまあ、普通にできるわけではあるけれども。


 それを知らしめることが先に生きていきたものの勤めではないのかと言う反論は至極真っ当ではあり、同時に的外れでもあるのかな?とか。


 そんなものは周囲の環境によって簡単に左右されるものであり、洗脳されるものであり、そもそもその発想に至るまでの思考の流れは、確固たる自我によってなされるものであるのか?


 自我というものがそもそも存在するのか?

 というところまで思考が回ると、大体のことはどうでもよくなってくる、ような気がするのだけど、いかに?


 今日はここまで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ