024_20230921
強い言葉で断言されると、頼もしくは感じるけれども、同時に嘘っぽく聞こえることもあるよね。あと主語がやたらでかいと胡散臭く聞こえるという、いやまあ、世界平和が悪いということではないのではあるけども。
発言する機会が少ない場合には、これは印象を強めるために、強い言葉、イメージしやすい単語を使うようにはなるのかなと、だから、実のところ何度も話せて、最後まできちんと物事を聞いてくれるような人たちとの会話なら、必要ないテクニックではあるのだろうなぁと、ただ大体は人の話を聞かない場合が多いように思うので、それだからそういう発言方法が流行る、のかなと。
何度も繰り返してしまうと飽きられるという言いようもあるのだろうなあと、小さな人が大人は信用できない、と繰り返していっていくうちに、それは単なるわがままであるのではとか思われうようなものなのかな、いやまあ、ある程度はわがままというか、自分の気持ちを素直に言っているのであるから、そのまま、わがままではあるとは思うよ。
結局わがままを言うことが悪いことだと言う価値観が悪いのかなと、好き勝手言っているだけではどうにもならない、と言う話とはまた違ったところがあるのかも知れないけれども、嫌なものは嫌であり、その理屈を説明できるのであるならば、対応してもらう必要がある、んじゃないかなぁとは思う。
将来のために教養は必要であるけれども勉強は嫌であるというと、どうなんだろうなぁ、いや、楽しくできるようにしてくださいと言うと、それは難しいのではないかと言ってる方も分かるわけで。学習って、基本あまり楽しくないわけですよね、いやどこかしらに楽しみを見出している人もいるけれども、大半の小さな人は、つまらないと思っているよきっと。
大人もそうだよね、学習というか、教養をつけることが単純に楽しいという人は希少なのじゃないかな?いやまあ、実際にできることが増えるのでやる気が出るという場合もあるけど、それはつまりハウツーが蓄積されているだけの話で、教養が深まっているとは言わないというか、無駄な知識は増えていないよね。
教養とか義務教育というものは、無駄な知識とか経験の積み重ねであるという面が、あるんじゃないかなぁと。直接役に立たないからこそ、必要であるような、自ら欲して求めて積み上げる知識ではないからこそ、貴重なものである、場合があるんじゃないかなぁと、なので、そこのところをきちんと説明してやれば、嫌だけどある程度はやるかなぁ、という感じに、心持ちが変化する、んじゃないかとか。
そこを誤魔化して学習は、勉強は、知識を得ることは、楽しいことなんだよ、と、誤魔化してしまうから、不信感が増していって、嫌だなぁ、という感情が強くなる、ということなのかな?
あ、好奇心は強い方なので、そこまで、学習は嫌ではないですね私。
今日はここまで。




