21世紀梨のにおいの男の話
人間にはにおいというものがある。
ふとした瞬間に気づく。
あっ、このひとはさわやかなにおいだなとか。
このひとはやたらに甘いにおいだなとか。
普段はすぐに忘れてしまうのだけれど、中には強く印象に残るにおいもある。
印象に残りすぎて、また会うだけでにおいがしてくることもある。
不思議なことに、そういうときのにおいは、ひどく具体的なのだった。
***
「やあ、ひさしぶりだね」
僕をファミレスに呼び出したのは大学のころの同級生だった。
特別に仲が良かったというわけではないが、よく知っている顔だ。
名前も覚えている。
だが、その顔を見た瞬間、僕は「あっ、21世紀梨だ!」と思った。
鼻をスンスンさせる。
たしかに21世紀梨のにおいがした。
21世紀梨は、180センチくらいの身長の男性だ。
眉毛が太くて、素朴な顔をしている。
なのにどこか、品を感じさせるたたずまいをしている。
おしゃべりではないのだけれど、妙に感じのいい人物なのだった。
椅子に座った僕はチーズケーキを注文した。
このファミレスに来たときは、必ずチーズケーキを注文することにしている。
何の変哲もない、工夫をするつもりもない、「普通のチーズケーキですけどなにか?」と言いたげなここのチーズケーキが、僕は大好きなのだった。
21世紀梨と当たり障りのない話をぽつぽつと交わす。
僕は運ばれてきたチーズケーキを食べながら、「どうしようかな」と考えた。
こうやって、突然昔の知り合いが呼び出してくるとき、たいていその用事はマルチか宗教の勧誘だ。
なかなか本題を切り出さないところからしても間違いない。
「がんばって勧誘しても無駄なのになあ……」と思いながらチーズケーキを食べるのだった。
***
21世紀梨は離婚したらしい。
「えっ、結婚していたんだ!」と僕は思った。
娘もいて、養育費を払っていて、月に一度は会えるらしい。
まあ、そういうこともあるよね、と僕らはうなずきあった。
僕のことを聞かれたので、特に結婚の予定はないと答える。
まあ、そういうこともあるよね、と僕らはうなずきあうのだった。
***
「ところでさ、聞いてほしいことがあるんだ」
おもむろに21世紀梨が切り出した。
「あっ、きたな!」と思いながら、僕はチーズケーキをほおばった。
「実はね、宝くじが当たったんだ」
「ふむ?」と僕はフォークを口から引っ張り出した。
「宝くじ……?」
「うん。いくら当たったと思う?」
「ふむ」
こうやってもったいぶるのだから結構な金額が当たったのだろう。
100万、もしかしたら1000万かもしれない。
ちょっと冗談めかして僕は言った。
「1億とか?」
「ううん、7億」
「ふんふん、7億」
と僕はチーズケーキを口に運んだ。
飲み込んで、
「へえ、すごいね!」
と言った。
宝くじなんかよく当たったねえという気持ちと、宝くじってそんな金額が当たるんだ!? という気持ちと、あれこれいろんな気持ちを込めた「すごいね!」だった。
***
「当たったときに注意を受けてね。宝くじに当たったことは、できる限り人には言わないほうがいいんだって」
「ふむ」
そういう話は聞いたことがある。
余計なトラブルに巻き込まれたりして、結局当たらないほうが良かった、なんてこともあるらしい。
「ちょっと話すだけで広まって、よくわからない人が借金の申し込みに来たり、寄付をせびりに来たり……」
さまざまな実際の事例をあげて、脅されたらしい。
「だから誰にも言わないで普通に過ごしてたんだけど、会社にも行ってたんだけど」
「ふむふむ」
元奥さんに話そうかとも考えたらしい。
じっくり考えて、いい結果にはならなそうだと判断した。
だが、娘にはある程度のお金は渡したい。
「まあそれはもっと大きくなってからの話だけどね」
そうやって黙ってこれまで通りの生活をするうちに、どうにも苦しくなってきたらしい。
「もう今更言えないしさ。聞かされた事例が頭をちらついて、なんか、だれも信用できないなって気分になってきて」
言わないでいると不安が溜まっていく。
しかし、誰かに言うわけにもいかない。
と考えてきたときに僕の顔が浮かんできたらしい。
「だってしまうま君ってさ、ひとのことに興味ないでしょ?」
「ふむ?」
***
それから延々と21世紀梨の愚痴を聞かされた。
僕がチーズケーキを食べ終わると、チョコレートケーキを注文してくれた。
そしてまた、愚痴をこぼす。
「そんな話、僕にしてもいいの?」
と聞くと、
「どうせ、しまうま君、誰かに話したりしないでしょ。そもそも話の内容、覚えてないだろうし」
と答えるのだった。
1時間ほど話して、21世紀梨はスッキリとした顔になっていた。
「チョコレートケーキは僕がおごるよ。話を聞いてくれてありがとう」
ニカッと笑った。
「何か声をかけてあげたほうがいいかな?」と思った僕は、
「まあでも、当たって良かったんじゃないかな。なかなか当たらないものだし。当たらないよりはね」
と言うのだった。
何とも言えない表情になって、21世紀梨は21世紀梨のにおいを残して去っていくのだった。
***
「ただいま」
と言って買い物袋をキッチンに置く。
「おかえりー!」
「ずいぶん買ってきたな……クックック」
という返事が返ってきた。
姪のリンちゃんと悪魔の声だ。
僕が留守の間に入って来たらしい。
こういうことはよくある。
ふたりとも遠慮のない性格なのだ。
「ちょっといいことがあってね、お祝い。と言っても、いいことがあったのは僕じゃないんだけど。知り合いがね」
とたいして説明にもならないような説明をする。
すると、「クックック」と悪魔が悪魔的な笑顔を浮かべた。
「知り合いにいいことがあった……か。それは我のせいかもしれないなあ……クックック」
悪魔は悪魔だけあって、ときどき突拍子もないことを言う。
「いいことがあったのが悪魔のせいって……どういうこと?」と僕とリンちゃんは首を傾げた。
「いいか、お前たちは我の力を使った。因果を乱した」
「悪魔の力? 使ったかなー?」
「クッ……使ったのだ! それで、因果が乱されたのだ」
「うんうん、それで?」
「それで……乱れた因果のせいで、お前たちの幸せが少しずつ周りの人間に奪われていくのだ」
「えっそうなんだ!?」
「そうだ。なにしろ悪魔の力を使ったのだからな。周りの人間が少しずつ幸せになる。するとどうだ、お前はひどく不幸な気分になってくるだろう……クックック」
「ふーむ?」
僕は宙を見上げて考えることになった。
斬新な意見を聞かされたのですぐには考えがまとまらなかったのだ。
しばらく考えたが、僕は特に不幸になっていなかった。
「まあいいや。ご飯食べていく? 今日は焼き肉だよ?」
「んひゃー!」
リンちゃんが細い両手を放り投げるようにして掲げる。
「食べてくー!」
「あっ、我も食べるぞ。我は野菜を巻いて食べるやつをしたいぞ」
「はいはい、野菜も買ってあるから大丈夫。用意するね」
と僕は焼き肉の準備をするのだった。