人助けはありがた迷惑?
放課後、良一は迎えの車で運転手にこう言った。
「佐納さん。葛西劉生君のお家知っていますか?」
「葛西家と言えば、恐らく、葛西建設社長のお宅でしょう。いや~建設会社とあって趣向を凝らした特徴的な現代建築のお宅でして、目に付くものですから大体の場所は覚えておりますが。」
さすがは、ベテランのお抱え運転手。左脳は善財家の前も、その前も、貴族を邸宅から経済界へ、社交界へ、時には淫欲の世界へと安全、かつ正確に運ぶ一流ドライバーである。
バックミラーを介して、二人の目が合った。
良一は反射的に目を逸らす。
「忘れ物をね、届けてあげたいのです」
「お忘れ物を?」
「はい。それがないと宿題に困るだろうから」
「お優しいお坊ちゃまだ。ここからなら、そう遠くありませんし、帰宅時間もさほど変わらないでしょ
う。承知致しました」
閑静な住宅街の中に、鉄筋コンクリート造りの台形の建物が見え、その家の前で佐納は静かに停車した。
「こちらでございます。私が届けて参りましょう」
「いや。僕が行ってきますので、少し待っていて下さい」
良一の心臓は、まるで、それ自体が生き物のように大きく鼓動を打っている。門の中まで入ると足を進めるのが怖くなって玄関の手前で天を仰いだ。と、あることに気が付いた。壁一面が大きなガラス張りになっているのだが、昼間だというのに暑いカーテンが閉じられたままだ。良一は胸騒ぎに襲われ、ついに勇気を振り絞ってインターフォンを押した。
「はい。葛西でございます。」
「あの。僕は劉生君のクラスメイトです。忘れ物を届けに来ました」
「まぁ。そうなの」
暫くすると玄関から美容整形クリニックのコマーシャルで見るような、ふさふさの睫毛で唇の厚い女性が出てきた。
「あなた、お友達?忘れ物ってなあに?」
良一はとっさに自分の学習ドリルを取り出した。毎月配られるもので、これなら名前を書いていない。
「あの…劉生君は?」
「今はいないわ。これ、ありがとう」
そう言って、半開きにしていた玄関ドアをピシャリと閉めた。
女性は母親のようだ。常駐している使用人はいないらしい。良一は帰るフリをして、門のところまで行
き、敷地と通路の境に植えられた庭木の陰に潜んで再び建物に近づいた。
はっきりとは聞き取れないが、さっきの女性の大声が聞こえた。
「劉生! さっきの子は何なの? あれほど学校では友達なんて作るもんじゃないって言ったでしょ!」
「違うよ、ママ。良一君が勝手に」
「口答えするな! 学校でさっきの子に何か話したんじゃないだろうね?」
「何も、何も言っていないから、許して、ママ、許してください!」
『パチン!』
(平手打ちの音だ)
「これ以上あんたがお父様に嫌われたらママもここに居られなくなるのよ! どうしてくれるの!」
『ドスン!』
(突き飛ばされたのかも知れない)
「あんた連れてシングルマザーなんて二度と嫌なんだよ! せっかくお金持ちと結婚するために投資した
っていうのに!」
ドス! ドス! バチン! ドスン!
「ううう」
口を塞がれた劉生君が声にならない声で泣いている。
良一は震えながら車に戻った。
(やっぱりそうだ。劉生君は酷い虐待を受けている。でも、一体どうしたらいい? うちの両親はだめだ。担任はもっとなしだ。先生はうすうす気付いていたんじゃないのか? 名門校ではご法度案件だと目を瞑っていたに違いない。警察か? 区役所か? いや、あてにならないな。「適切に対処しましたが防ぐことが出来ませんでした。」と会見で頭を下げるのを何度も見たぞ)
佐納は良一の蒼白した顔色と強張った表情に異変を感じた。
「坊ちゃま。どうかなさいましたか? 私にお手伝い出来ることがあれば仰って下さい」
佐納の声には、安心感がある。1/fのゆらぎとか、非整数次倍音といった専門的な分析もあるらしいが、佐納は、相手に調子よく話させるのが上手い。
(佐納さんなら信頼できるかもしれない。佐納さん一家は保護猫のボランティア活動をしていると言っていたし、娘さんは海外で人道支援を経験したと誇らしげに語っていたではないか。佐納さんは僕の周りの大人の中で、一番良識のある人だ。ここは佐納さんに相談するのが最善策だ)
「劉生君が、お母様に酷い暴力を受けているようなんだ」
「なんと! それは確かでございますか?」
「間違いないよ」
良一は、劉生の様子や、たった今聞いたことを全て話した。
「それは、放っておく訳にはいけません。良一坊ちゃまはなんとお優しいお方だ。佐納がお力になりましょう。但し、これは二人だけの秘密ですよ」
「ありがとう、佐納さん。僕は佐納さんにしか甘えられないんだ」
良一は安堵して目を潤ませている。
「坊ちゃま…」
可愛そうに、と言いかけて佐納は口を噤んだ。佐納は善財家に忠誠を誓った使用人であり、善財家主人とその奥方を悪く言うことは出来ない。
それにしても、産まれてから十年、良一が両親のことを笑顔で語るのを見ていない。良一はいつも大人のように周りの目を気にして、良い子であろうとしている。時にそれは偽善に見えることもある。
それはそうだろう。
良一が気にしているのは周囲の目ではなく、菩薩協会の目なのだから。
佐納は、早速、虐待児童を守る慈善団体に通告をした。慈善団体は十分な調査をした上で児童相談所に通報した。間に慈善団体が入ったとあっては生温い対応はできないと、相談所は葛西家を訪ね母親と面会した。母親は否定したが、劉生の体の痣や整形外科の通院記録を突きつけられて観念した。主人に見捨てられる恐怖心からメンタルが崩壊し、悪いと解っていながらも暴力を止めることができなかったと釈明した。児童相談所は暫定期間、二人の別居が適当だと判断し、母親は従った。
翌日のホームルームで、劉生君は海外留学をすることになったと担任が説明した。それ以降、劉生君に会うことはなかった。