透明な生き物
ぼくらは透明な生き物のなかにいる。みんな気づいていないだけで、ぼくらは見えない生き物に包まれて生きているんだ。
放課後、ひとりで帰路につく卓也は、そんなことを思いながら、コンクリート舗装された校門へとつづく道を歩いていた。
卓也にとって、透明な生き物の存在は、たしかなものだった。でも、それを人に話したことはなかった。
お母さんに一度だけ、話したことはあるけれど、そのときお母さんは、第二子をお腹に抱えていて、それどころではなかった。卓也は日に日に、薄れていく愛情がひしひしと感じられて、少し悲しかった。
今日はまっすぐ帰らずに、人形屋に寄っていこう。マリーおばさんに今日あったことをお話しするんだ。
その人形屋は、校門を出て、左に曲がってすぐのところにあった。そこに住むマリーおばさんは、とても優しくて、卓也は彼女とお話しするのが好きだった。
でも、そんなマリーおばさんにも、透明な生き物の話はしたことがなかった。きっと言ったら、笑われるだろう。卓也はそう思っていた。
「こんにちは!」
ベルの音とともに、そっと扉を開けて、お店の奥に向かって、あいさつをする。マリーおばさんは最近、耳が遠くなったという。だからもしかしたら、聞こえていないかもしれない。それでも卓也は、元気よくあいさつをするのだった。
壁いっぱいに、布づくりの人形たちが、優しい表情でにっこりほほ笑んでいる。少し甘い香りがする。卓也はしばらく、そんな人形たちと見つめ合い、一つ一つに、心の中であいさつを交わしてゆくのだった。
そうしているうちに、奥からおばさんが出てきた。
「あら、たっくん! 来てたのね!」
「マリーおばさん、こんにちは! 今日、おばさんに聞いてもらいたいことがあるんです。少し変な話だけれど、ぼくはとても真剣なんです」
「わかったわ、たっくん。まあでも、とりあえずおあがりなさい。お茶を用意してあげるから」
そう言ってマリーおばさんは、卓也を手招きし、店の奥の小ぶりな庭に案内してくれた。彼らはよく、その庭でお茶をして過ごすのだった。
「それでどんな話なの、たっくん?」
「おばさんは信じてくれないかもしれないけれど」と卓也は前置きを置いて言った。
「ぼくらは見えない透明な生き物に包まれているんじゃないかな、ってずっと思ってて。おかしいですか?」
マリーおばさんはしばらく、じっと卓也のことを見つめた。マリーおばさんの目は真ん丸としていて、その青は美しく、吸い込まれそうだった。
それからおばさんは、にっこりと、お店の人形みたいにほほ笑んで、卓也の頭を優しく撫でた。
「そうね、そうかもしれない。たっくんはすてきな感性の持ち主ね」
卓也は自分の思っていたことが受け入れてもらえたみたいで、うれしかった。
「だから、だから、もうすぐ生まれてくる、ぼくの弟にも、それを伝えたくて……」
なぜか卓也は、そのときふいに泣きたくなった。きっと、お父さんやお母さんが、お腹のなかの子のことでいっぱいで、卓也にかまってくれない寂しさや、それでも卓也にとって弟ができることはうれしかったり、といろいろな感情がごちゃ混ぜになって、泣きたくなったのだろう。
でも卓也は、おばさんの前では泣かなかった。必死にこらえて、言葉をつづけた。
「いや、いいんです。弟もまた、気づいてくれると思うから」
「そうね、たっくんは偉いね」
お茶の香りがほんのりと鼻をくすぐり、日だまりに包まれて、二人は穏やかな午後のひとときを共にした。