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七話

 僕は思うのだ。

 エリノアが不幸になるなら、僕も一緒に不幸になりたい。

 僕が幸せになるなら、その横に、エリノアもいてほしい。

 けれど、僕には思えない。

 エリノアが幸せになるなら、その横に僕もいたい、とは。

 風邪でもないのに熱が出た日の昼下がりのことだった。午前中ずっと夢か現かも分からないままに寝続けたお陰か、もう頭の霧も晴れている。

 朝食用に母さんが用意してくれていた黒パンは乾いて硬くなりかけていて、一口も噛んで飲み込んでしまえばお腹がいっぱいになった。母さんは、それから何も言わずに温めた牛乳をカップに注いでくれる。その無言のせいで、僕は椅子に腰を下ろさざるを得なくなった。

「どうかしたか」

 と沈黙を破ったのは父さんだった。新聞片手に、僕のものとは色違いのカップを口元に運んでいる。

「そっちこそ、なんで昼間っから家にいるのかね」

「お前の風邪が感染(うつ)った」

「僕は風邪じゃないよ」

「……昨日は勝ったからな。わざわざ出向く必要もない」

 いつから博徒に転職したのか。けれども、月に一度か二度ほどある父さんの大勝ちのお陰で、母さんが専業主婦をやれているという事情もある。母さんは苦笑いしているし、僕としてもため息をつくしかなかった。

「それで、どうかしたのか」

 居心地の悪そうな調子は、何も母さんの苦笑いと僕のため息だけが原因ではあるまい。

「それしか言えないの? まったく、僕の親とは思えないね」

「俺も、お前を我が娘だとは到底思えん」

「あら、じゃあ私に似たのかしら。テッサちゃんもお母さんに似て綺麗だし」

 しばしの沈黙。

 母さんがそっと台所に消えていったところで、父さんが軽く咳払いをした。僕は手持ち無沙汰から黒パンに手を伸ばしかけ、また引っ込める。これ以上は一欠片も入りそうになかった。

「好きな人がね、結婚するんだよ」

 元は傭兵をやっていた無骨な父に、これ以上何を言わせられようか。吐露するように、自分から言葉を投げていた。

「相手は……その、誰なんだ」

「騎士様さ。少し前に話題になってたでしょ?」

 笑って返した瞬間の父さんの様を、恐らくは絶句というのだ。誤魔化すためか口元へと持ち上げかけていたカップが新聞の下で固まっている。

 カツン、とそれは置かれた。

 父さんは空いた右手でがしがしと後頭部を掻き、呻くように吐き捨てる。

「やめだ、やめ」

 くそ、と舌打ちまで零す。

「そんなに嫌な顔する?」

「当たり前だ。くそ。この手の話でろくな結果になった試しがない。分かるか、お前に。仲間が――あぁ、いや」

 喚き散らしかけた父さんが不意に口を閉じてしまったから、僕も咄嗟に問うてしまう。

「傭兵時代のこと?」

 短めの沈黙の後、「あぁ」と頷きが返ってきた。

「馬鹿げた奴がいてな。馬鹿だった、あいつは。馬鹿だったが、まぁいい奴で、馬鹿で楽しい毎日だった。昔の話だ」

 そんな遠い目の父さんを目にするのは、いくら記憶を遡ってみても、これが初めてのことだった。

「どうなったの、その人は」

「知らんな」

「……知らない?」

「あぁ。今まだ生きているのかも知らないな。知る由もない、ってやつだな」

 それ以上語ろうとはせず、父さんはカップを呷った。

 そこに入っていたのは牛乳ではなくコーヒーだったのだろう。冷めかけのコーヒーは、いっそ冷めきってしまったものよりタチが悪い。父さんは苦々しい顔で新聞を一瞥し、それを机の上に投げ置いた。

「どうするんだ、お前は」

「さてね、それが分からないから困ってるんだよ」

 新聞を拾ってみれば、ずらりと書いてあったのは僕の生活にも関わってきそうなフウルのあれこれだった。内地のものでも、外国のものでもない。移民区製で百部も刷られるかどうかという、少々手の込んだ回覧板のようなものだった。

「読んだって面白い話はないぞ」

「どうして?」

「そこに載ってる首吊り野郎はな、酒の勢いで無理な賭けを吹っ掛けて、そのまま全財産手放したのさ。昨日の今日とは、思いきりの良い奴だった」

「なるほど。じゃあお葬式代くらい出してあげないとね」

「親族の一人もいねえよ」

 大判とはいえ二枚きりの新聞をめくれば、父さんが口にした記事が大きく目に飛び込んでくる。とはいえ、それはよくある不幸の一つでしかなかった。仮に父さんが手加減をしてやったところで、また次の相手を探して散財しただけだろう。

「でも、これが普通なんだよね」

 僕が笑うと、父さんは怪訝そうに左の眉を上げる。

「彼女がこうやって死ぬというならね、僕は隣にいたいと思うよ」

 その言葉をどう受け取ったのか、言葉は返ってきそうになかった。

「僕がドレスを着て天使像の前に跪くなら、勿論、隣には彼女がいてくれたら嬉しいと思う」

 アラステア教の教会で女同士の結婚式を挙げるのも怖いもの知らずだとは思うけれど。

「でもね、彼女のドレス姿の横に、僕がいたいとは思えないんだ。僕が首を吊る横で彼女が一緒に揺れていても、それを嬉しいとは思えないと思う。つまりは……ね」

 それに名前を付けるなら。

 辞書を開いて、最もそれらしい言葉を探すなら。

 僕のそれは、恋ではない。愛情や恋情ではなくて、同情というものではないだろうか。

「お前はドレスを着たいのか」

 驚いたような声だった。

「心外だね。僕だって女だよ?」

 今の僕は、さぞ楽しそうに笑っているのだろう。今なら、多分、何を見たって笑える。そう……、きっと、エリノアの純白のドレス姿を見たとしても。

「なら、そうだな、一つだけ教えてやる」

 父さんも笑っていた。

 あぁ、あれは、いつか見た笑みだ。

 口の両端を吊り上げた、子供心にひどく恐ろしかった笑み。

「そのオヤジの話、もっとちゃんと読んでみるべきだろうさ」

 大酒飲みはフウルに珍しくないし、酔っ払いの賭け事も珍しくない。

 何がそう面白いのかと再び新聞に目を落とせば、しかし、やはり珍しくもない話が載っていた。

 首を吊った男のたった一人の家族だった娘は、その日の昼間、結婚式を挙げていたらしい。相手は内地から来ていた男で、長期旅行の最後の日に、フウルに一つしかない教会で式を挙げた。

 いや、挙げようとした、だろうか。

 その式が最後まで執り行われることはなかったという。何故なら、途中で――。

「何が言いたいのかな、父さんは」

「有り触れているだろう? これが掃き溜めたる移民区だ。これくらい、驚きもできやしない」

 その言葉は真実ではない。

 僕は、現に驚いたのだ。例えるなら、小説の結末で予想を裏切られた時のような。

 けれど、父さんの言いたかったことが違うところにあることも、勿論知っている。驚かないさ、これは。どれほどの不幸だろうとも、フウルでは有り触れた日常なのだ。

 開け放っていた窓から突然虫が飛び込んでくれば驚くけれど、虫が入ってくること自体は驚くことでもなんでもない。

「意地悪だね。僕が着たいのは白いドレスであって、もっと言えば彼女の隣で立つための白いドレスであって、横たわるための赤いドレスじゃないよ」

 それだけの不幸であっても、新聞の一面を飾れもしない。他人の不幸は蜜の味でも、毎日飽きもせず蜜を舐めて喜べるのは、それこそ虫くらいのものである。

 実際、すぐ横に目を動かせば、同じくらいの大きさでどこぞの騎士の話が取り上げられていた。王国だかどこかの騎士の話が、同じ移民区の父娘の不幸と同程度だ。

「だが、お前が言ったのはそういうことだぞ。あのオヤジにとっては、馬鹿みたいに酒飲んで金すって、それで終わるのが一番だった」

 その娘は、結局、幸せだったのだろうか。

 そんなわけはない、と言い切れれば楽だろう。

 けれど、僕に言い切れることなんて何もない。何一つありはしない。不幸と不幸を並べて、どちらがマシかと比べ合う。それがフウルだと僕は知っていたはずで、なら……。

「ちょっと、行ってくる」

「おう。帰ってはくるのか?」

「分からない」

 半日も眠りこけてしまったのだ。半日は、されど半日。半日もあれば数えきれないほどの不幸がフウルでは起きる。

「ベアトリーチェっ」

 いつから聞いていたのか、母さんが台所から戻ってきていたようだ。背に投げかけられた声に足が止まりかけ、けれども、また前に踏み出していく。

「待て」

 今度は父さんの声だった。

 発破をかけてきたと思ったら引き止める。何がしたいのかと振り返れば、何やら新聞を千切っていた。

「どこに行くのかは知らんが、役に立たないということもない」

 新聞の切れ端で何かを包み、それを僕に投げてくる。

 手の平に収まる大きさの紙包みは、やけに軽かった。少なくとも金属ではない。よく見ようと顔に近付けながら包みを解きかけ、ようやく分かった。嫌な臭いがする。

「それじゃ」

 言いながら笑う。それだけでいいし、それより他に置いていくものもない。

 今日は何日だっただろう。

 考えてみた。

 僕はどれだけの時間を、エリノアと一緒に過ごしてきたのだったか。

 去ったと思っていた熱は、もしかするとまだ頭のどこかに残っていたのかもしれない。当たり前の思考さえも働かず、僕はただ行かなければと玄関の戸を開けていた。

「ようやく出てきたか」

 けれど。

 空で見ている主神アラステアは、どうやらそのまま野放しにはしてくれないようだった。

「どこ行くつもりだ、病人」

 ベルティは笑い、そう言った。


 その青年はコートを羽織り、腕にもコートらしきものを提げていた。

 女物のそれを僕に投げながら、ベルティは言う。

「シフネさんに感謝しておけ」

「なら砕け散ったベルティの恋心を拾い集めるのが僕の仕事だ」

「散ってはいないさ」

「砕けはしたんだね」

 しーちゃんのお古だろうか。僕と似た背格好の女の人といえばカリエくらいしか思い浮かばないけれど、そのカリエがこんなしっかりしたコートを着た姿は見たこともない。

 ベルティの口ぶりからしても、また何か勘違いがあったのだろう。

「それで、女の子の家の前でどうしたんですか」

「お前が学校に来なかった。翼の君も来なかった。これだけで俺がここに来るだけの理由になる」

 笑っていた頬が、そのままの形で引きつる。

 そう自覚するだけの余裕はあっても、何かを問うだけの余裕はなかった。いや、心のどこかで自制したのかもしれない。聞きたくはない、と。

 けれど、ベルティは待ってはくれなかった。心の準備をする暇も与えず、それどころか問う時間すらも用意していなかったらしい。どこか急いた様子で自身のコートの襟元を寄せた。早く着ろ、と言いたいようだ。

「で、どこに行くつもりだ?」

「南区」

「……っ。それは、また……、シフネさんに感謝だな」

 南区、あるいは裏区。フウルでは例外的に治安の悪い一帯だ。

「僕は一人だって行けるけど?」

「あそこは男だろうと一人で行くべきところじゃない」

 このままでは押し問答だ。

 と、思ったのはベルティも同じらしく、僕は笑い、相手は首を振った。コートの袖に腕を通し、着替え忘れていた寝間着兼部屋着のポケットからコートの内ポケットへと、紙包みを移す。

「ん? どうした?」

「いや、なんでもない。早く行こう」

 十三時を過ぎ、けれど十四時には至らない頃。

 一人だったところを見ると、カリエは遠慮したかベルティに止められるかしたようだ。

 どちらも有り得る。

 カリエは底抜けに明るいけれど、それは明るさを保てないような状況を避けているからだ。今の僕の前には現れてはくれないかもしれない。今日このまま家に帰れないとすれば、カリエともお別れというわけだ。

「……嫌かな、それは」

 我知らず口から零れていた。

「そう思うなら、必ず帰るんだ。シフネさんにも礼を言いに行け」

「じゃ、ちゃんと守ってね、ベルティは」

 ふん、と鳴らす鼻はいつになくご機嫌だ。

 何が楽しいというのだろう。

 そう怪訝に思ったのは一瞬のことで、すぐに自分でも気が付いた。僕は、それでもまだ笑っている。頬が緩んでいると、ようやく自覚できた。

 なるほど、これは遺伝だ。

 生きるか死ぬかの戦場から帰った時の父さんは、何がそんなに楽しいのか、恐ろしいまでの笑みを湛えていた。

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