六話
エリノアの噂は、けれどたったの一つしか流れることはなかった。
多くの者が興味を持ちつつも、深く踏み込むことを躊躇っている。当たり前といえば当たり前だった。翼の君は僕たちとは違う景色を見ているのだ。空を翔ぶ銀の鳥の世界なんて、地を這う移民の僕らには想像もできない。
ただ眺めることしかできない。
その翼で、見えないどこかへ翔んでいってしまうまで。
僕が再び図書館へと足を向けたのは、噂の勢いが落ち着きつつあった週の後半のことだ。
先週の金曜日、エリノアは既に知っていたのだろうか。彼女の笑顔を見たのは初めてだったし、ああして言葉を交わしたのもあの一度きり。僕には、その奥に隠された感情を覗き見ることなどできない。
いいや、それどころか、僕は僕自身の心のうちさえも上手く見通せてはいなかった。エリノアに抱いていた『憧れ』と、今まさに渦巻く『憤り』。その本当の名前を、僕はまだ掴めていない。
しかし、悠長に自分の心と向き合っていられる時間などなかった。
ノートに書き連ねた問題ならなんでもいつでも解けるというわけはない。けれど整理することなら誰にだってできるだろう。乱雑に並べた数字を丁寧に並べ直して、見栄えだけは良くする。
簡単だ。
そんな簡単なことに、僕は週の半分も使ってしまった。
ようやく図書館に辿り着いた時、そこは静寂に支配されていたようだ。ようだ、と断言できないのは、僕がその静寂を破ってしまったから。埃の舞い落ちる音さえ聞こえてきそうな本の世界を突き進む。
真っ直ぐ。
四つ目の本棚で左。
その本棚が切れたところで右。
そして――。
僕は、誰もいない机の脇に置かれた椅子の一つに、腰を下ろした。
ふぅ、と吐く息が机に浅く積もった埃を払う。
席を立ち、手近な本棚から手頃な本を手に取った。タイトルも分からない。読めない言葉だった。読めない文字だった。それは異国のもので、けれど僕の心と同じだ。
本の中身に興味はなかった。
読みたい本を手に取ってみたところで、どうせ内容など頭には入らないのだ。ただ何かに逃げたかったのかもしれないし、こうしていれば彼女が来てくれると思ったのかもしれない。
ただ、まぁ、いざ来てみればこのザマだ。
あの放課後からこっち、エリノアはおろか、他の誰一人として図書館で本を読もうなどという酔狂はいなかったらしい。
図書館の高い天井には蜘蛛の巣が張っていた。張り巡らされている、と言ってもいい。端から端まで、びっしりと。本の国の住人は蜘蛛だったのかと笑ったところで、僕はようやく気付いた。笑える自分と、天井を見上げていた自分に。
途端、何もかもが馬鹿らしくなった。
今までと何も変わらない。同じだ。手が届かないほど高いところを見やって、勝手に笑う。同じじゃないか。今までずっと、そうしてきた。
背を起こしているのも面倒で、埃だらけの机に突っ伏す。五分と持たない。埃が鼻に入ってむず痒く、顔を上げた瞬間、盛大にくしゃみをしてしまう。
鼻水は出ていなかったけれど、大きな音は立ててしまった。
「図書館ではお静かに」
ほら、そう注意され……――
「エリノアっ!?」
「お静かに、って言ったばかりじゃないですか」
彼女も、そういえば、異国の人だった。
移民区には同郷の者より異郷の者の方が多い。大陸中から人が集まるのだから当然だ。いつだったか、その銀の髪はどこの国の色なのかと考えてみたことを思い出す。
目の前の現実が信じられず、ほんの数瞬だけ、僕は昔のことを考えてしまっていた。
「その髪、綺麗だよね」
「……。どうしたんですか、唐突に」
「綺麗で、……だから、嫌だ」
エリノアは驚いたように閉口し、そのまま椅子に腰を落とす。
「そんなこと、言わないでくださいよ」
傷ついた口調ではない、とは思うけれど、こうして話すのは二度目だ。僕が驕っているだけかもしれない。
「でも、そうじゃないか。あなたは綺麗だよ。髪もそうだけど、佇まいも、その後ろ姿も。顔は、どっちかっていうと可愛い感じで」
だから、エリノアは騎士にあてがう嫁に選ばれた。
容姿だけじゃない。彼女には才能もある。勉強も、剣も。磨かれた才能は、それこそ翼だ。大空を翔べるだけの翼。
「どうしてあなたがそんな悲しい顔をしているのかしら」
それは僕も思うことだ。
エリノアは平然としている。先週の金曜日にはもう決まっていたはずなのに、誰も彼女の異変には気付かなかった。
「エリノアは嫌じゃないの? 若手っていっても、三十じゃ一回りも上だよ」
「耳聡いんですね」
「普通だよ、ここはフウルだ」
彼女は、やっぱり、銀の鳥と似ている。大陸を渡る銀の鳥はとても美しく、ゆえに――。
「鳥籠に囚われるようなものじゃないか」
持ってきた本のページをぺらぺらと鳴らしていたエリノアの手が止まる。その瞳は僕を見て、本に落ち、また僕を見た。
「詩的ですね」
「そうだよ、翼の君」
悩むように口元を迷わせつつ、彼女はにやりと笑う。蠱惑的というほどでもなく、それは悪戯好きな少女を思わせる笑みだった。
「でも、それを言うなら、このフウルこそが鳥籠ではないですか?」
淡い唇に添えられた指から目が離せない。
「空を翔ぶことを諦めてしまった鳥には、ここはさぞ心地の良い場所なのでしょう。けれど、中にいる鳥は、外の鳥を羨むんです。いつかは自分もその中の一羽だったのに、まるで遠い誰かのように眺めるんです」
地に落ちるくらいなら、あるいは海で溺れるくらいなら、罠だと知っていても鳥籠が眩しく見えるのかもしれない。事実はどうあれ、現に移民は増え続けている。
「ねぇ、そうは思いませんか?」
僕が鳥籠だという世界は、彼女には鳥籠の外に見えるのだろうか。
「まぁ、どっちも鳥籠の中だろうさ」
笑ってやると、エリノアは怒ったような呆れたような顔でため息を漏らす。
「あなたにはどう見えているんですか? ねぇ、ベアトリーチェ?」
試す声は楽しげだった。たったそれだけなのに、先ほどまでの憤りが薄れていくように思えてしまう。
「僕かい? 僕には、こんなところ、ネズミの巣にしか見えないけどね。みんな餌に釣られて罠にかかったネズミさ」
「あら、詩の次は風刺ですか?」
「風刺? ……まぁ、あなたがそう言うならそうなのかもしれないね」
彼女の笑みは甘美なものだ。僕は酔ってしまった思いで口元が綻ぶ。……実際に酔ったことなんて、数えるほどしかないけれど。
「でも、じゃあ、私はネズミの巣にさようならするのですね。それは、喜ぶべきことではないですか?」
「ネズミの巣がどんなに嫌でも、猫の胃袋よりはマシだと思うな」
「私が嫁ぐのはネズミ好きの猫ではなく、偉業を成し遂げた騎士様ですよ?」
「それも同じさ。泥棒猫ってやつだね」
「あら」
僕たちの話は、いつの間にかそんな調子になって、いつまでも続くかのごとく流れていった。
しかし、勿論、永遠などはありえない。
遠くから鐘の音が聞こえてきた。普段は滅多に聞かない、学校の門を下ろす最終下校時刻を知らせる音色だ。
僕とエリノアは、どうやら互いに同じ思いだったらしい。渋るように言葉を交わしつつ、ゆっくりとした手付きで本棚に本を返していった。
「エリノア」
「なんですか?」
本棚の高いところに手を伸ばす彼女は、自覚しているのだろうか。背伸びをしていて、いつになく幼く見えた。翼の君と呼ばれるエリノアであっても、まだ十八の少女なのだ。
「式はいつなのかな」
「教えられませんよ。……でも、卒業までは待ってくださるそうです」
「ならさ、なら――」
大したことでもないはずなのに、やけに喉が乾いた。
「また、こうして話してくれるかい? 約束なんてしてくれなくてもいい。けれど、僕は、またここで待っていてもいいのかい?」
彼女の瞳を覗こうとして、しかし僕は床を見ていた。
いくら歩いても去りきらなかった埃を数えるだけで時間が過ぎていく。
「ベアトリーチェ」
僕の名を呼ぶエリノアの声が幾度も頭の中に反響する。
「私は、また来てもいいですか? 次からも、待っていてくれますか?」
鼓動がうるさい。
欠片も聞き逃したくない彼女の声が掻き消されてしまいそうなほどうるさくて、思わず僕は顔を上げていた。音が届かなくても、その唇を目で追いたい。
けれど。
それは叶わなかった。
だって、エリノアの唇は、彼女自身の銀の髪で隠れてしまっていたから。
彼女も、また、床を見つめていたから。
その朱く染まった頬を見て、僕は僕の頬の色を知った。
それから、僕とエリノアの、図書館で会う日々が始まった。
とはいえ、毎日顔を合わせていたわけでもない。僕が足を運ばない放課後はあったし、エリノアも同じだ。それでも週に一度か二度は机を挟み、言葉を交わす。
そんな日々が三週間、四週間と過ぎていくうちに、僕たちは互いの身の上話なんかもぽつり、ぽつりと口にするようになっていった。
エリノアの両親は、こちらに移住してすぐに事故で亡くなったらしい。父は増築工事中の三階から足を滑らせ、母は同じような工事現場で上から落ちてきた建材によって……。
その後、彼女はフウルの孤児たちを集めた修道院に引き取られ、中等科になるまで育ったのだという。
「そんな修道院があるなんて知らなかったな」
僕が笑うと、彼女も笑う。……寂しげなものだった。
「もう潰れてしまいましたから」
フウルに善意の寄付金などあるわけもない。
潰れてしまった修道院の最後の子供がエリノアで、最後の先生が彼女の第二の母となって今は暮らしている。ペラジー先生と同じくらいだという母親代わりの先生も、もう長くはない。そういう意味でも、エリノアはちょうどよかったのだろう。
僕のことも、エリノアに話した。
傭兵になりたくて木剣を振り回していた、という話を妙に気に入ったらしく、彼女は幾度も僕に傭兵の冒険を描いた小説を持ってきたものだ。けれど、僕はそれを読まず、代わりにエリノアの言葉で物語を教えてほしいとからかっていた。
彼女はそうして物語を紡ぐのがとても上手だったのだ。
五週目を過ぎ、六週、七週となってくると、僕の心中には楽しさよりも寂しさの方が増えていった。ちゃんと自覚できたのは、もう八週目、二ヶ月が過ぎようとしていた頃だ。
「ねぇ、エリノア。君に見せたい本があるんだ」
時折、僕はそれを逢瀬だと笑った。
エリノアは真面目で、アラステア教が女同士、男同士の恋愛を禁じていることを持ち出しては「いけませんよ」と口を尖らせる。けれど、そう怒ってみせる彼女の瞳が優しく笑い、頬が朱くなってしまっていることは、見逃してやれというほうが無理な話だった。
その日も、僕はそうからかっていた。だからか、エリノアは怪訝そうな視線を向けながら言ってくる。
「……またいつかみたいな破廉恥なものを見せるんじゃないでしょうね」
いつか? 破廉恥? 王国秘書官全集だろうか。あれは名著だろうに。
「あれが破廉恥に見えるのは、エリノアの心が破廉恥な証拠だね。あれほどの歴史書をエッチな目で見るなんて、まったく、君はいけない子だよ」
それから、むっと頬を膨らませ顔を背けてしまった彼女の頭を撫でに行く。その銀の髪を伝うように頬にまで手を伸ばし、顔を近付けていくと、エリノアの手に払われてしまった。
「行く気になってくれた?」
「このままここにいたら何をされるのか分かったものじゃありませんから」
「素直じゃないなぁ」
言いながら、彼女の手を掴む。一瞬戸惑ったように強張った手は、しかし僕の手を握り返してくれた。
「ふふふっ」
「ニヤニヤしないでください」
「どうして僕の顔が見えるのさ」
僕はエリノアの手を引いていく。
「見なくても分かりますよ。あなたっていう人は……」
お互いに色々な話をしたものだ。ベルティには悪いけれど、彼としーちゃんのもどかしい恋の行方を語ってみたり……。どうやらエリノアもその手の話は嫌いじゃないらしく、「今度はちゃんと本人たちの許可を取ってからにしてくださいね」と、子犬ならぱたぱたと尻尾を振っていそうな表情で僕を咎めた。
「ベアトリーチェさん?」
おっと、またニヤニヤしていただろうか。
恐る恐る振り返ると、銀の髪にいくらかの埃をつけたエリノアが、不安そうな視線を投げかけてきていた。
「こんなに奥へ行くんですか?」
「名著は奥に隠されているんだよ?」
そこは、いつか王国秘書官全集を探すべく分け入った通路だった。
「でも、その……、かなりの埃じゃないですか」
「埃は嫌い?」
「……好きな人がいるとは思えません」
何を恥じることがあるのだろう、エリノアはさっと目を逸らしながら小さく言った。けれど、そういえば、二ヶ月も一緒に本を読んでいるというのに、エリノアが埃塗れの本を持ってきた記憶はただの一度もない。
「じゃあ、まぁいっか、ここで」
彼女は声にならない疑問符を浮かべていた。
「えっ、本があったんじゃ――」
「ねぇ」
驚いた声を遮ったのは、静かな、静かな声だった。
あれから二ヶ月も過ぎ、なおも埃に塗れた図書館の奥で、僕は彼女と向かい合う。驚きを浮かべる彼女の瞳には、けれど、全く逆の色もあった。
これから何をするのか、されるのか、それを知っているかのような――。
知っていて、それでもエリノアは瞳で問うてくれていた。手を振り払わず、そこに立って、僕を見てくれている。
「僕も、じゃない」
みんなが彼女のことを好きだ。翼の君のことを嫌いな子供はいないと断言できる。
しかし、違う。
「僕は、好きだよ、エリノアのこと」
迷ったようだった。
エリノアの瞳に浮かんだ迷いは、数瞬で見えなくなる。顔が近付きすぎていたし、彼女は目を瞑ってしまったから。
「だめですよ、こんなこと」
と、彼女が僕の胸を軽く押す。
「嫌だ」
抵抗と呼ぶにはあまりに弱々しかったその手を掴み、もう一度引き寄せる。
「嫌だ……っ!」
たった二ヶ月だ。
今までのどんな二ヶ月よりも長かったけれど、どう足掻いても、それはただの二ヶ月でしかない。毎日会っていたわけでもなく、週に一度か二度、放課後だけしか言葉を交わさなかった相手だ。
馬鹿げている。
ベルティはもう何年もしーちゃんを見つめているし、僕とカリエは十年の付き合いになるほどだ。
それなのに、このたったの二ヶ月で、分からなくなってしまった。
「行ってほしくない、どこにも」
三ヶ月前にはこうして話すことすら想像できなかったというのに。その背を眺めても、憧れという名の好意しか抱かなかったというのに。
「だめです。ベアトリーチェさん、だめなんです」
「どうしてっ」
どうして彼女は。どうして僕は。
分からないことだらけだった。今まさに起きていることも、自分の胸の奥にある感情も。
「君は、だって…………」
「私たちは、皆、移民なんですよ? 帰る故郷も、助けてくれる友人も、将来を買うだけのお金もありません。逃げ出したところで、待っているのは不幸だけです。一日、二日と逃げられても、三日目には疲れ果てて、一週間もせずに尽き果てます」
毅然とした声は、僕がよく知っていた、翼の君のものだった。
「じゃあさ、エリノア。僕が一緒に不幸になってくれって言ったら、君は頷いてくれるかい?」
自分が何を言っているのかなんて分からない。
夢のようにふわふわとしていながら、夏の特に暑い日のようにぐじぐじしている。エリノアの顔も霞んで見えた。普段は足りないくらいの光が、今はうるさく感じられる。
「お断りします。私は、だって、騎士のところへ嫁ぐのですよ? わざわざ不幸を選ぶ理由なんて、ないじゃないですか」
そう彼女は笑った。
エリノアの頬を垂れていく一筋のそれが、やはり、僕の……。
明瞭な思考を保てたのは、そこまでだった。
熱が出た。
翌朝になって母さんから聞かされた時、当たり前のことだけれど、エリノアの姿はもう見えなくなっていた。