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三話

「好きですっ!」

 誰?

 そう問うた自分の心中の声に答えるより早く、疑問は続く。

 なんて言った?

 誰に? どうして? どこで? ――――?

 どれも一瞬で消え、次の問いが押し寄せてくる。

 最後に残った問いは、たった一つ。

――何を言っているんだ、僕は。


 けれども、それは恐らく一瞬のことだったのだ。僕がはっと我に返った時、目の前では、まだ彼女はきょとんと首を傾げていたから。

「ええと、あまり……そういうことは言わない方がいいですよ?」

 素っ頓狂に微笑んでみせたエリノアは、申し訳なさそうに辺りを見回す。ここは図書館で、僕と彼女しかいないはずだ。

「本や机が聞いているかもしれませんから」

 くすくすと笑う彼女の声は、今までに聞いたどんな声よりも甘く響いている。

 しかし、その甘さが僕の意識を溶かすことはなかった。それどころか、むしろのぼせた頭を冷やしてくれたようだ。

「可愛らしいことを言うね」

 投げ返した笑みに、彼女はどうやら驚いたらしかった。まん丸の瞳が僕をじっと見つめ、それから色を変える。

「そこの本棚の裏には誰かいるかもしれませんよ?」

「そっちの机の下にも?」

 エリノアの左手には何やら分厚い本があった。読み終えて返しに行くところだったのか、今日は切り上げて帰るところだったのか。ともあれ、彼女が先ほどまで本を読んでいたのだ。後ろに並んだ椅子のどれかに座って。

「でも、関係のないことだよ」

 言ってから、僕は随分と気安い口をきいてしまっていると気付いた。でも、それがなんだというのか。根拠もなく、僕はそう開き直っていた。

「エリノア、あなたのことはみんなが好きさ。時には妬んだり僻んだりする人もいるけれどね、それだって同じことだよ。憧れてるんだ。誰もが、あなたに」

 言い訳めいた言葉は、けれど心の底にあった本音だ。

 彼女の背を眺める時、その見えない翼を見ようとした時、多少の違いこそあれ、誰もが憧れを胸に抱いている。

「翼の君、ですか」

 笑う彼女の瞳には冷たい色が滲んでいた。頬もやや強張り、僕を見下ろす――そうだ。今気付いたけれど、彼女は僕より背が高かった――視線は些か硬い。

「そうだよ、翼の君」

 最初の一言。

 好きです、という自分でも正体の分からない言葉は、その慣性でもって僕の舌を動かす。

「勝手だよね。僕たち、みんな」

 何か言おうとしていた彼女の口元が行き場を失ったように迷った。瞳に浮かぶのは怪訝な色。けれども、それ以上に興味の色も窺えた。

「当たり前のように言うのですね」

「そりゃ当たり前のことだからね」

 からからと笑う声が自分のものだと気付くまでには数瞬も要した。

「まさか無自覚にやっているとでも思っていたのかい? ……いや、まぁね、中にはそういう人もいるだろうけれど」

 でも、多くは違う。

 自分たちが流し、聞き、笑った噂が、誰かに不幸を押し付けることもあるのだ。いつかの女教師はある意味では自業自得で、また別の面から見れば噂に首を絞められたようなものだった。

 そうした噂の結末にまで全くの他人事でいられる子供は多くない。

「それでも関係ないところで兎や角言うのはやめられないんだから、全くもって自分勝手なものさ」

 言うと、彼女もどうやら得心したらしい。僕を見る――そしてそれは、僕以外のフウルの子供たちを見ているのと同じことだ――視線が、今ようやく色を定めた。

「勝手ですね、本当に」

 笑みから紡がれた声が会話を断ち切る。僕にもそれに抗う気はなく、彼女の脇を通り抜けようとした。

 しかし――。

「え?」

 終わらせた側の彼女が、再び声を上げた。

 何か意外なことでもあったろうかと立ち止まって目を向けるも、特に不自然なところはない。

 ここは図書館で、本を読み終えたエリノアが机に背を向け、今から本を読もうとしている僕が机に向かっている。むしろ先ほどまで立ったまま話していたことの方がよほど不自然だ。

 ……と、そこまで考えて、僕も思い至る。

「自意識過剰」

 笑ってやると、エリノアはさっと頬を朱くした。

「っ。違うのですっ。いえ、違くはないのですが、そうではなくて!」

「図書館ではお静かに、ですよ?」

 彼女は、僕が本を手に持っていることに気付いていなかったのだろう。そもそも読書のために図書館に来たという発想すらなく、エリノアがここにいるという噂を聞きつけたか何かでやってきたのだと考えていたらしい。

 それは一面的には正しく、けれど全くの見当外れだ。

「うぅ……」

 そんな恨めしそうなエリノアの姿を見るのは勿論初めてだし、想像したこともなかった。彼女の背はいつでも毅然としていて、恥や後悔なんてものとは無縁に思えていた。

 けれど、そうだ。――こう言い表すのはひどく気恥ずかしいけれど――彼女も僕と同じ一人の子供でしかない。翼の君は、翼を持たぬ人の子だ。

「ねぇ、知らなかったでしょ?」

 咄嗟に何か言い返そうとしたエリノアは、僕が先んじて唇の前に立てていた人差し指のせいで押し黙る。

「あなたの噂はね、ただの一度だって流れたことはないんだよ。どんな流し屋でも、あなたの噂だけは流せなかった。――だから、僕も聞いたことはない」

 手慣れた彼女の様子は、この図書館を幾度となく利用してきたことを思わせる。しかし、『翼の君は図書館で本を読むのが趣味らしい』などという噂は聞いたことがない。それどころか、教室の隅で目立たず俯いている少女でさえも種にされる、『誰彼のことが好きらしい』といった類いの噂ですら耳にすることはなかった。

 理由は、正直なところよく分からない。

 流し屋の中に暗黙の了解が作られているのか、あるいは子供たちが揃って翼の君をある種の高みに置いているのか。理由は分からないけれど、結果として、彼女の噂は流されない。

 だから、エリノアを目当てに僕が図書館に来ることは有り得なかった。

「……なんで、言ってくれなかったんですか」

 口を尖らせるエリノア。

 僕より一つ上の彼女は、今年で十八になる。歳の割に幼げな仕草が、――今までの印象のせいもあってか――どうしようもなく可愛らしかった。

「僕も今初めて気付いたんだよ? 図書館は、だって、本を読むところじゃないか」

 うぅ、とエリノアはまた唸る。

「そんなに恥ずかしがること?」

 もう少しいじめたい気持ちもわいてきたけれど、しかし思い返してみると、エリノアと面と向かって話すのは初めてのことだったりするのだ。あまり……、嫌われたくはない。

「……仕方ないじゃないですか。自分でも、よく分からないんですよ」

「初めてだったから?」

「そう、かもしれません」

 なんと答えるべきか迷って、ひとまず「ふぅん」と頷いておく。睨まれた。

「だって、そもそも、あなたがいきなり……そのっ――」

 言い淀むエリノアの姿に一瞬見惚れ、それから思い出す。

「あ、ごめん。そうだったね、そうだった!」

 本棚の陰から現れて、いきなり告白した女がいるらしい。そんなわけの分からないことをするなんて、いったい誰だろう。

――僕だ。

「……うん。じゃあ、お詫びに、このことは誰にも言わないでおくよ。カリエにだって言わないからねっ」

「当たり前ですっ!」

 頬どころか耳まで真っ赤にして、エリノアは叫んだ。なんなら目まで赤くなって……というか、それはもう、半泣きだ。

「えっと」

 どうすればいいのだろう、と悠長に考えている自分がいる。

 泣きそうな女の子にかける言葉なんて知らないし、そうしようとした経験もない。かろうじて参考になる経験といえば……。

 気付いた時、僕はそっと手を伸ばしていた。

「何をしているんですかっ」

 そして怒られた。

 僕の右手は迷うようにエリノアに向かい、肘が伸びきる寸前の形で睨まれている。

「えっと、カリエはこうされると喜んで笑ってくれたから……」

 親しい女の子といえば、カリエを措いて他に誰がいる。

「さっきから言ってますけど、カリエってどなたですか」

 むっと睨んだままのエリノアは、数瞬考え込むように黙ってから問うてきた。

 あの騒がしさだ。カリエのことなら誰でも知っていると思っていたけれど、そういえばカリエなんて呼び方は僕しかしない。

「テッサだよ、テッサ。テッサ・カリエール」

 言った直後、僕は後悔していた。どうしてかは分からない。自分でもよく分からないまま、けれどカリエの名を出したことを後悔していたのだ。

「あぁ……」

 エリノアはカリエのことを知っていたらしい。

「話したこと、ある?」

「ないですけど、名前は度々……」

 三年生の間でも親しまれているカリエだ。一つの教室の中では声を潜めても限度があるし、そこで耳にしたのだろう。

「……では、あなたは」

「ベアトリーチェだよ、翼の君」

「うぅ、何か怒ってます?」

「そりゃそうだよ! 目の前にいる僕を、どこの馬の骨とも分からないカリエの付属品として思い出したんだから!」

 カリエには、後でそれとなく謝っておこう。

 それと、反射的に頭を下げようとしてから違和感に気付いてしまったエリノアにも、てへっと舌を出しておく。

「なんだか、もう、疲れました……」

 大きくため息をついた彼女に、僕としては同情するしかない。

「だろうねぇ。いつもカリエと話す時のテンションだったし」

「……大変なんですね」

「それ以上に楽しいけどね」

 笑った時、ふと、今までにない感覚が胸を締め付けていることに気が付いた。

 自覚した途端、喉が乾いていく。

「エリノアは、……楽しくない? 迷惑だった?」

 そう言えば彼女は否定するだろうと知った上での言葉なのに、上手く舌が動いてくれるか不安だった。次いで、然もない風を装えたことへの安堵と、答えを待つ瞬間の恐ろしさがやってくる。

「…………答えたくありません」

 今すぐにでも背を向けて走り去りたい衝動が確かにある。水飲み場でも、トイレでも、どこでもいい。喉の渇きを誤魔化したかった。

「それは答えてくれてるってことじゃないの?」

 けれど、それを邪魔する思いもある。なんだろう。分からない。

 知っているはずの名前。

 その思いをなんと呼ぶのか僕は知っているのに、言葉にしてしまうことはできないでいた。

「ねぇ」

 続く言葉が何を意味しているのか。

 いいや、それ以前に、僕は何を口にしようとしているのか。

 分からないけれど、どれでも同じなのだろう。

「それってさ、帰ろうとしてたの? それとも次の本を取りに行こうとしてたの?」

 僕は、やはり勝手だ。

 自分の思いすらも上手く掴まないまま、それを彼女に投げかけようとしている。

「暇だったら、一緒してくれない? ほら、君は聞かないと思うけれどね、噂っていうのは面白い本のことも教えてくれるんだよ」


 フウル移民区の夜に静けさなんて望めはしない。

 カーテンを閉め、ベッドに寝転がっていても、夜の喧騒は耳に届く。その喧騒のせいなのか、違うのか、ともあれ頭の中を巡る考えはあっちへ走りこっちへ走り、寄り道を繰り返していた。

 夕方の図書館を思い出そうとすると、じっとしているのが辛くなる。

 あの言葉。

 僕が口にしてしまった言葉の意味を考えようとして、思わず跳ね起きる。

 落ち着かず、喧騒のほうへと寄っていた。カーテンを開け、窓も全開にする。冬の夜の冷たい風が部屋に雪崩込んできた。

 首元を撫でる冷風が胸の奥まで冷ましてくれるようで心地良い。

 フウルの喧騒も、また心地良かった。

 僕の部屋は二階にある。一家で一階と二階を使うのは珍しく、そう人に言われたこともあって、昔から窓の外を見渡すのが好きだった。

 もう十年も見てきた門前の細道に一組の男女が立っている。女のほうは、冬だというのに肩が見えていた。

 そもそもが故郷に居場所を失った移民たちなのだから、この移民区では夜の仕事に事欠かない。

 それにアラステアは宗教国家ゆえに戒律が厳しく、内地ではそうした娯楽にも制限があるらしかった。北から南、東から西。大陸のどの地方の女でも移民として集まってくるフウルの夜は、内地の男にはさぞ魅力的なのだろう。

 ネズミの巣である移民区はその捌け口に重宝されるためか、内地から派遣されている司教や騎士といった取り締まり連中も口を出したことはない。

 だから、まぁ、それは見慣れた光景だった。

 ただ、見慣れているようでいて、もしかすると初めて見る姿だったのかもしれない。気付くまでに一分か二分も眺めてしまっていた自分に、その奥に抱く思いまで見透かす心地になる。

「――」

 男の言葉に、女は無言で首を振ったようだった。様子がおかしい。何かを迫るわけでもない男が、着もせずに手に持っていた上着を女の肩にかけた。

 その男を、女を、僕は知っている。

 さっと辺りを見回す男の仕草に、僕は身を引く。開けっ放しの窓とカーテンはそのままに、数分か十数分もベッドに座り込んでいた。あれ以上は野暮というものだろう。

 彼に限って、何かが起きるということもないのだけれど。

 まぁ、僕も人のことに構っている余裕があるわけでもなかった。

「ねぇ、ベルティ」

 僕は男の名を呼ぶ。

 小さく、小さく、喧騒に掻き消されてしまう声だった。

「その『好き』はさ、どういう意味なんだろうね」

 夢見がちな青年は、自身の胸に答えを抱いているのだろうか。

 ベルティと一緒にいた女は、僕もよく知る女性(ひと)だった。シフネという十ほど上の隣人。九つかそこらから、しーちゃんしーちゃんと呼んでは日々の暇潰しに付き合ってもらっていた。

 今夜も、しーちゃんは仕事だったのかもしれない。そこで何かあったのだろう。内地の住人から見下される移民の中でも、特に蔑まれがちな娼婦だ。二日に一度は仕事があって、二、三回も仕事をすれば何も起きないわけもない。

 そんな女に身を寄せていた男は、身だけでなく、思いも寄せているらしい。

 でも。

 でもさ……。

「分からないんだ、僕には」

 君はしーちゃんのことを大切に思っているけれど、僕だって、それは同じだ。しーちゃんのことは好きだった。カリエのことも、ベルティのことも、勿論。

 僕がしーちゃんに向けるそれと、ベルティが向けているそれ。

 二つが違うのなら、……じゃあ。


 やはり、フウルの夜は騒がしい。

 増築や改築を繰り返す街の家々は壁も薄く、そのせいで喧騒を遮れないのだ。

 人が一人通れるかどうかという路地を挟んだだけのところにあるアパートの一室から、よく知る女の人の声が聞こえてきた。

 その言葉を、僕が受け取ってはいけない。

 夜が更けていく。

 声が涙になって、涙が届きはしない寝息になった頃、僕もようやく眠りに落ちていった。

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