二話
からりと晴れ、夜中から朝方にかけて降り積もった雪も溶けてしまった昼下がり。
昨日は調子が良かったんだと大口を開けて笑うオヤジが上機嫌のままに進め、昼食休憩の半ばまで割り込んだ授業だったけれど、その終わりは早すぎる下校を二年生にだけ連れてきてくれた。
とはいえ、この程度のことで驚いていてはフウル移民区の学生なんてやっていられない。初等科はまだ『普通』らしいが、中等科、高等科と進学するほどに『フウル流』の時間割が増えるのだ。
「べぇあっ! あっそび~ましょ~っ!」
今日は金曜日。説教もなく、ただでさえぐうたらだったはずの一日が、上機嫌オヤジのお陰……もとい、せいで暇に拍車をかけている。
「カリエは相変わらずだねぇ」
本人曰く、高等科一の元気美少女。周りに言わせれば、高等科一のハイテンション野郎。テッサ・カリエールは、今日も今日とて元気でよろしい。
しかし、これはいつも以上だ。
「何か良いことでもあったの?」
「聞いて驚け! もう下校なんだよっ!」
「おぉ、それは奇遇だね、僕もだ」
そう僕とカリエで笑えば、勿論、もう一人もやってくる。
「お前ら、いつもいつもよく疲れないよな、そのテンション」
「あははぁ、実は、僕は疲れてるんだよね」
「奇遇だねっ! あたしもなんだっ!!」
「嘘は良くねえぞ、嘘は」
一通りからからと笑い、三人揃って息をついた。
恒例行事めいた毎度の軽口は、疲れることもあるけれど楽しい時間だ。これは堅物気取りのベルティも同じらしく、だからわざわざ口を挟んでもくる。
「でさでさっ、遊び行こ! ねっ?」
「うーん、どうしよっかなぁ」
繰り返されたカリエの提案に、しかし僕は悩んでいた。
いつもならお昼ご飯の弁当を食べている頃だけど、今日はもう授業も終わっている。帰り道でどこか良いところを探して食べるもよし、教室で食べてしまって遊んで帰るもよし。それは嬉しい悩みだったけれど、僕にはもう一つの悩みがあるのだった。
「え、何か用事でもあった? ないよね? だってベアだもんねっ」
「どういう意味さっ!」
瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「一々んなことしてたら進まねえよ」
ぺしっ、とカリエの頭も叩かれている。ベルティの優しくも厳しい指摘だった。
「えぇ……。じゃあ、まぁ、仕方ないね。真面目に聞くとするよ」
とかなんとか言いながらも、カリエの瞳に浮かぶのは悪戯っ子のそれ。
もう何を言われてもツッコミは入れないぞ、と決意を固める。次やったらベルティは手の平ではなく拳を向けてくることだろう。
「で、相手は誰? 男? 女?」
「なんでそうなるのさっ!」
――しまった。
反射的に叫んでしまってから、思わず両手で頭を守る。……しかし、そこに拳が落ちてくることはなかった。
「んぐむむっ。べう――むぐっ!?」
僕の頭を叩くかと思われたベルティの右手は、眼前でカリエの両の頬を押さえていた。
カリエはなおも喋ろうとするも、口を押さえられてはもごもごと藻掻く他ない。その間にも左手はぺしぺしと頭を叩いているから、カリエの変な声も相まって笑いがこみ上げてくる。
「…………ふぅ」
しばらく笑っているうちにカリエが解放されるも……、
「お前には反省するって頭はないのか?」
「ないねっ!」
と、第二回戦が始まってしまうので、僕はもう少し笑う羽目になる。
教室に残っていた他の同級生たちとしばし笑い合いながら、待つこと数分。カリエがようやく反省の二文字を自らの辞書に書き加えたらしい。
「むぅ。ベルがベルならベアもベアだよ、まったく! 人が心配してあげたっていうのに、止めもしないで笑ってるとか。友達失格だよ! もう、明日からこいび……あ、ごめ、やめて、ほんと」
こきり、とどうやって鳴らしているのかも想像したくないベルティの拳からの異音にカリエが怯える。
「でも、ほんとだよ? あんま一人で抱え込んじゃいけないよ? 何か用事? 悩み事? いいよ、笑ったげるっ!」
「笑う前提はやめてほしいなぁ」
「悩んでなんになるよッ!! ……っで? なになに?」
一事が万事、この調子。
中には、勿論、こんなカリエを嫌う人もいる。同じ教室で勉強している二年生にだっていて当然。なにせ、この騒がしさに空気の読まなさだ。けれど、この裏表のない性格が僕は好きだった。とても、と付け加えるのも吝かではない。
「……ま、本気で心配してくれてるのは分かるけどね。今日はそういう話じゃありませんっ」
とはいえ、まぁ、話が進んでくれないのは困ったものだ。内容なんてどうでもよくて、話すことに意味があるのだけれど、そんな日ばかりでもないわけで。
「今日はねぇ、なんと……!」
「なんと!?」
「勉強していくつもりなのですっ!」
「べんっ! ……きょう?」
ハテナが三つも四つも続いてきそうなくらい、素っ頓狂な声だった。
「え、なんで?」
五つ目のハテナの後にようやく現れたのは、普段のカリエからは想像もできない静かな声だ。調子が狂う、とはこの様を言う。
ただ、これは仕方のないことだった。
僕たちにとって、――出稼ぎ移民の子供にとって。
「勉強なんて、時間の無駄だとは思ってるけどね」
普通。……そう、『普通』の教師が聞けば、その言葉は許せないものなのかもしれない。明日を生きていくための積み重ねが無駄などとは、口が裂けても言えないのかもしれない。
でも、僕たちは、そんな明日を見ていないのだ。
景色を眺めることはあっても、それは眺めているだけで、そこへ歩いていこうとはしない。来るかもしれない明日より、今ここにある今日を生きる。
「だから、別にいつかのためにって話じゃないんだよ。今日は、ほら、時間もいっぱいあるしさ。今まであんまりできなかったことやろうかなって。これは今日しかできない遊びだよっ」
答えてやれば、頷きが返ってくる。
「そっか。うん、じゃあベアは諦めるかな」
「また誘って。今度はもうちょっと静かに、落ち着いて」
「それは無理ってもんだぁねぇ!」
勉強は時間の無駄だ。
けれど、それは『未来のための』と前置きされたものに限る。
使うかどうかも分からない知識を蓄えることに意味はないけれど、知識を蓄える楽しさまで無意味になってしまうわけではないのだ。
ただ、楽しい。
それだけで全てを正当化できるのだと、僕たちは信じている。
「じゃ、今日は二人っきりだね、べぇるちゃんっ」
「えぇ……」
「あははっ、そんな嫌そうな顔しないでさ。どこか行きたいところはあるかね? 今日だけは特別大サービスであたしんちだって――」
「んじゃな、また明日だ、ベアトリーチェ」
ベルティに「うん、また明日」と笑って返し、そのベルティを必死で追っていくカリエにも笑って手を振っておく。
そして、僕は二人とは逆方向に足を向けた。普段はあまり行くことのない校舎の最奥へと。
フウル移民区にいる子供は多くない。
子供連れで国境を渡る者が少ないのだ。そもそも子供がいない、妻なり夫なりがいない、という大人が多いし、家庭を持っていたとしても一家全員で故郷を捨てる決断を下すことも多くはないらしい。
そんな事情もあり、それほど狭くはないはずの移民区に住む子供でも、初等科から高等科まで一緒くたに一つの校舎に押し込めてしまう。
下は六歳、上は十八歳。実に三倍もの年の差があるせいで、必要とされる本はあまりに幅広い。子供向けの絵本や紙芝居から、果ては医学の専門書まで、欲しいと乞われればどこからか持ち込まれる。
子供と同じく一緒くたに詰め込まれてしまった本たちは、まるで断崖絶壁かのごとくそびえ立っていた。……勿論、本棚に並べられた格好で。
「さて……と」
遠く子供たちの声がする。まだ十歳にもならない初等科生だろう。図書館で騒ぐのはルール違反だ、なんて言ったところで、そもそも騒ぐような年頃の子以外は滅多に訪れないのだから詮なきこと。
後輩たちとは反対に足を向ければ、年単位で人が踏み込んでいないと言われても驚かない埃の山に踏み入ることになる。
本棚の間を進みつつ、誰かが壊したまま捨て置いたらしい箒の柄を拾い、蜘蛛の巣を払いながら更に奥へ。
ようやく辿り着いた図書館の最奥で、僕が探すのはたった一冊の本だ。
「噂は、本当かどうか」
それも実在するのかすら怪しい噂の書。フウルの、特に子供は噂が大好きだった。真実か嘘かなんてどうでもよくて、日常から少しだけ脇へと逸れた物語を楽しむのが常。
フウルに流れる噂の量と速さは、刹那的に生きる僕たちの集大成と言ってもいいのかもしれない。
果たして、僕は埃まみれになってしまった。
けれど、同時に――。
「あった……!」
目当ての本。噂レベルでさえ実在不確かと言われていた書物、『王国秘書官全集』が手中に収まる。
……まぁ、ここは図書館なわけで、他の図書同様に持ち出しは禁止されているのだけれども。
でも、今この瞬間だけは僕のものだ。所有権がなくとも、見るのは自由。ぺらぺらとめくって中身を確認すれば、そこにあったのは噂に違わぬものである。
――曰く。
その昔、南の王国がまだ王によって統治されていた時代、王に仕える『秘書官』とは見目麗しい女史たちを指す隠語であった。『秘書官』は王やその側近に飽きられぬよう、日々新たなる衣装を開発し、それを自ら身に纏っていたという。
そうまで言われてしまえば我慢できる道理もない。
カリエとのお茶会を蹴ってまで埃の中を突き進むほどの魅惑の品。
けれど、これは思っていた以上に魅力的だと、僕は立ったまま数ページ読んで気付く。
南の王国、隣の王政帝国。
王の統治によって発展を遂げた国は未だ歴史の表舞台に存在するものの、今現在の実態は王が全権を握っていた時代とは大きく異なる。帝国は国家最高機関たる六王議会――文字通り六人の『王』による議会だ――の三席だか四席を王の血筋とは関わりのない軍や政治の出身の者が占めると習ったし、王国に至っては王家そのものが実権を失ってお飾りになっているのだという。
そうやって考えていくと、王様にこんな……、こんな奔放が許されていた時代があったという歴史自体が、僕にとっては衝撃だし、一つの娯楽たりえる。
いつか女性の教師が……そう、珍しくオヤジではなかった教師が言っていたことだ。
『王国からも帝国からも王というものが消え去った現代において、最も王に近い地位と権力を持つのは、当代アレク教皇ではないか?』
その日の授業は女の人の声で進められたこともあって、強い印象とともに記憶に残っている。あの教師をその日以来見ていないのは、まぁ、噂が回りすぎることの弊害だろう。
「ともかく」
僕たちは、みんな、覚悟していることだ。
噂を好む心中に芽生えてしまった罪悪感を独り言で摘み取って、僕は来た道を戻っていく。振り返ってみれば最短距離ではなかった。けれどまた一から埃を払っていては日が暮れてしまう。
手持ち無沙汰な気持ちを探し当てた本で埋め合わせ、本棚と本棚の間を縫っていく。気付けば入り口のすぐ近くまで戻ってきていて、子供の声も聞こえない時間帯になっていたらしい。
図書館には滅多に来ないけれど、噂とは素晴らしいもので、座って読めるスペースがどこにあるかくらいは僕の耳にも届いていた。
入り口から真っ直ぐ歩いていって、四つ目の本棚の前を左に曲がり、本棚の切れ目を今度は右に曲がり、そして――。
時間が、止まった。
冬の雪が溶けずに凍りついてしまったような銀と、その冷気が夏の夕日さえも一際輝くその瞬間で凍らせてしまったような紅。
幾度となく眺めてきた彼女の、けれどあまり目にする機会はなかった表情に、僕の心は動くことをやめていた。
何秒だろう。何分だろう。
止まってしまっていた時が動き出したのは、そんな彼女が――、エリノアが首を傾げたからだった。
「エ……」
何か紡がなければと口を開くが、喉が痺れたように声となってくれない。
「え……?」
たった一音。
それも不可解なものに思わず漏れてしまったらしい声だというのに、僕の胸は締め付けられていた。僕に向けられた初めての声が、彼女のまとう冷たい印象とは裏腹に、意識までも溶かしてしまいそうな熱を呼び寄せる。
「……エリノア」
ようやく口から出てくれた声に、言葉に、彼女は頷いてくれただろうか。分からなかった。はい、と頭の奥に響く音は、眼前で発せられた声なのか、いつか眺めていた彼女が誰か僕以外に向けた声だったのか。
「えっと……、えと……、エリノアっ」
「はい」
確かに聞こえた、その声に。
僕の意識は溶け切ってしまったようで、次の瞬間の言葉を、自分でも上手く理解することができなかった。
「好きですっ!」
十七の冬。
耐え難いほどに愚かで、後悔するほどに笑ってしまう日々を、僕は送る。