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一話

 月曜日の朝は早い。

 というか、月曜日以外の朝が遅すぎる。

 アラステア教国最西部に位置する我らがフウル移民区は、良く言えば大らか、親しみを込めて言うならば……、ひどく大雑把なのだった。

 毎週月曜は内地から牧師や神父がやってきて朝の八時には説教を始める。初等科から高等科まで、生徒もそれに合わせて早く登校するのが決まりだ。

 しかし、では説教が始まらない月曜以外の朝はといえば、である。

 高等科生の僕たちにとってはとても、とても有り難いことに、なんと朝の九時まででも寝ていられるのだ。定刻でも十時、教師役のオヤジ衆が賭けで負けた翌日ともなると昼の目前にならないと授業は始まらない。

 そう考えてみると、遅くとも朝の七時には起きなければいけない月曜日のなんと気の乗らないことか。まぁ、勿論、この月曜日がなければ僕たちは皆ろくな大人にならないだろう、とも察しているのだけれど。

 ともあれ、今日がその月曜日だ。

 普段ならそこまでしっかり締める必要もないネクタイを息が詰まるくらいに堅苦しく結べば、身支度は終わり。

「行ってきまぁすっ!」

 キッチンで朝ご飯の洗い物をしている母さんに大声を投げ、走っていった玄関で紐を緩めておいた靴に爪先から滑らせる。

「また行儀の悪い」

 と、そこへ頭の上から声が落ちてきた。

「父さんに言われたくないんだけど」

「そんな調子で……。神父殿に小言を言われんようにな」

「今日来るのは牧師ですぅ!」

「どっちも一緒だろうが」

 まったく、誰も彼も大雑把なんだから。

 そうは思うものの、けれど仕方のない話でもあるのだった。

 いかに移民に職が与えられているとはいえ、穴を掘って埋めるだけでお金が生まれるはずもなく、無限に仕事があるわけではない。元々の性根もあってか職にあぶれる人はいるし、移民区という性質から予期せぬ不幸も少なくはなかった。

『来てくれるかも分からない明日のために今ちゃんと手元にある今日を投げ打つのは馬鹿げてる』

 いつかの商店通りで、見知らぬ女性が十にもならないような少年に投げかけていた言葉だ。そんな言葉すらも、移民区では当たり前の部類に入る。明日への投資とは博打とイコールで、常に酒瓶の横に置かれているはずだ。

 明日に求めず今日を生きる移民は、ゆえに大雑把。

 けれど、それはあくまで移民の話だ。内地から派遣されている牧師や神父は毎週月曜の説教を厳格に八時から始めてしまう。

 学校の本校舎から少し離れたところにある広場は芝生に覆われていて、今は一面が小麦色になる時期だ。僕がそこへ着いた頃には、もう小麦色も見えないほどに子供が集まり、半円を描くようにして座り込んでいた。

 その光景一つで、今日来た牧師が誰か分かる。

 半円の先、背の低い講壇の手前にある階段を椅子にする格好で、枯れかけた老木のような女性が座していた。ペラジー先生だ。誰よりも暖かく優しい説教が特徴で、信心などろくに持たない移民の子供でも親しみやすい微笑をいつも浮かべてくれている。

 もう老齢も老齢で、いつ天に召されてもおかしくはないと冗談めかして言われるほどの先生だから、声はひどく小さい。聞き取りづらいわけではないけれど、皆がこうして肩も触れ合う距離にまで近付かなければ後ろまで声が届かないのだ。

 今日は出遅れてしまったので諦めて後ろに座ろうかと考えていた頃、中腰になって手を振ってきている人物を見つけた。同じクラス――フウルの学校では、それがそのまま同級生を意味する――の男子で、噂好きな子供たちの中でも特に『(なが)()』と呼ばれるうちの一人だ。

『こっちだ、こっち。代わろう』

 届かない声は、恐らくそんなことを言っていたのだろう。

「ありがと、アンブレ」

 噂を流すことを何よりの楽しみとし、時にはそれを小遣い稼ぎにもする流し屋。アンブレは、けれど良識的で良心的な同級生である。

「なに、俺も用事を終えたところだ。それより、さっさと座れ。怒られちまう」

 先ほどまでアンブレが座っていた場所に入れ替わりで座り、すぐ右手に座っていた生徒に軽く頭を下げる。

「よう、遅かったな」

「――って、なんだ、ベルティか」

「俺で悪かったかよ。なんなら今からでも後ろ行くか?」

「ごめん、ごめんって」

 どうやらアンブレが噂を流していた相手がベルティらしい。

 斜め前からの咳払いに二人揃って顔をしかめ、それから黙り込む。前からは優しく頬を撫でるような声が漂ってきた。説教が始まったのだ。

「皆さん、今朝も、また、良い日和ですね」

 特有のゆったりとした声を聞きながら、ベルティとは反対に座る生徒を見やる。左手にいたのは、小さな女の子だった。初めて見る顔だし、初等科の、まだ通い始めて何年も経っていない子だろう。

 僕は特に小柄ということもないけれど、アンブレと比較すれば幾分も横幅は取らない。少女はそれでもアンブレが座っていた時と同じように、窮屈そうな姿勢で座っていた。

 ちょんちょんと芝生を叩き、手招きする。少女は恐る恐るといった調子でお尻をずらしてきて、最後にぺこりと頭を下げてきた。

「ロリコン」

「黙れ夢見がちな純朴青年」

 小言を投げ合って、また黙る。

 しかし、今度はペラジー先生の声に意識を傾ける前に、横から何かを押し付けられてしまった。

「教国も根の先まで腐り果てたわけではないらしい」

 つまらなそうに、けれどもどこか安堵し、誇らしげでもあるベルティの声。押し付けられた紙を受け取り、広げてみる。

 それは、新聞だった。

 ベルティがいつも読むような外紙――正規での輸入はされていない品だ――ではなく、内地で国内向けに発行されている類いの新聞。元は分厚かったであろうそれから一枚だけ抜き取り、更に記事の部分だけを切り取ったものらしい。

 小難しい内容を覚悟し目を通すも、そこにあったのはこの上なく明快な見出しだ。

『若き聖騎士、不遜(ふそん)なる族長を討つ』

 記事の中身を読んでいっても、話の大筋は変わらない。聖アラステア騎士団の系譜に連なる若い騎士が、遠征先で遭遇した不遜なる亜人の族長格を討ち取ったというニュース。

 野蛮なる亜人や卑劣なる亜人と並ぶ亜人の一種である不遜なる亜人は、教国にとって無視できない仇敵である。その族長格ともなれば時に征伐隊が組まれるほどで、決闘――文字通りの意味だ。不遜なる亜人は族長同士の一騎打ちを好むらしい――とはいえ三十の若さで首を取ったのは偉業と言えるだろう。

「なるほど……。これは、ベルティ好みだ」

 思わず漏れてしまった声に右手から鼻を鳴らしたような音が返された。

 このベルティという青年には、騎士を夢見ていた頃がある。今の新聞にあった『聖騎士』などではなく、弱きを助けるために悪しきに立ち向かう理想像としての騎士に、だ。

 今の時代、あらゆるところに騎士はいる。

 教国では国家の矛としての騎士団が存在するし、隣国ベルタでは国家の軍に対する形で民間の騎士団が、またジーク王国には軍と騎士団と傭兵団がそれぞれ密接に関わり合いながら鎬を削っているという。

 そうした外の騎士たちを『騎士崩れ』と見下し、自らを『聖なる騎士』と誇らしげに呼ぶ教国の騎士。移民区での日々の横暴を見ていれば、不満を抱くなというのが無理な話でもあった。

「まぁ、これでも一部なんだろうけどね」

「零か、一か。その違いが大きいんだよ」

 呆れるように言い捨てたベルティは嬉しそうな色を隠せていない。移民区の子供の多くは夢を忘れたか、あるいは遠からず諦める。遠い昔に投げ捨ててしまったものの輝きは、寂しさと同時に一抹の喜びを与えてくれるのかもしれない。

 ネズミの子にも希望はあったのだろうか、と。

 僕は、そこで詮索をやめた。踏み込むべきではないと考えたのもあるし、そろそろ時間だろうと思ったからでもある。

 ペラジー先生の説教はそう長くはないのが常だった。いつも早めに切り上げ、生徒からのあれやこれやと取り留めのない雑談に応じる。だからこそ先生は好かれてきた。

「それじゃあ、今日も、この辺に……」

 ほら、そうだ。

 いつもと同じ言葉で説教を締めた先生は、しかし、いつもとは違う言葉を口にした。

「カレンベルク」

 一瞬賑やかになりかけた半円が、しんと静まり返る。

「エリノア・カレンベルク」

 それは、ある生徒の名だった。

 知らぬ者がいるはずはない、彼女の名だ。

「――はい」

 唐突な呼びかけにも、彼女は落ち着いた所作で返していた。ぴんと伸びた背は、見えない翼に引っ張られているようにも思えてしまう。

 歩み出るエリノアに、間にいた生徒たちは言葉も交わさず道を空ける。無言のまま半円の前に出た彼女は、講壇の前、ペラジー先生と向き合う形で膝を落とした。片膝をついた、それこそ騎士のような姿勢だ。

「あなたは、まだ、幼い。妻となり、母となる歳かもしれませんが、それでも、まだ、幼いのです」

 先生の言葉は優しく暖かい。けれど、それは春の穏やかな雲に似ている。有り触れているのに、曖昧で、本当の形を捉えることは難しい。

「はい」

 急いたところのない先生の声に、エリノアもまた静かに答える。

「人の道には、苦難は多いものです。しかし、苦難とは、ただあなたを苦しめようとしているものでは、ありません。試練を越えた先に、必ず…………」

 消え入る言葉に続きがあったのかどうかは分からない。僕のところまでは届かなかったし、不思議と、それは最前列に座っていた生徒でも同じなのだという気がした。

「はい。覚えておきます」

 エリノアは、変わらぬ穏やかさで頷いた。

 彼女のきらきらと銀に輝く長い髪が、冷たい風に揺れている。冬の間は南へと行ってしまう教国の鳥も、あんな煌めく銀色の翼を持っていた。

 とても幻想的で、ひどく胸を締め付けるそれ。

 今の僕の胸にある感情を、今の僕はなんと呼ぶのか知らなかった。

「……それでは、皆さん」

 老木のように曲がってしまった腰を、背を、両手の杖で支える立ち姿。しゃがみ込んでいたエリノアの髪の向こうで、ペラジー先生が微笑んでいる。

「幼き汝らの、試練多き未来に、――導きがあらんことを」

 先生の、神父様の、こうした説教の席での言葉は難解だ。

 僕たちのテストで出される国語の問題を考えた教師はさぞかし心優しい人物なのだろう。アラステア教徒が闊歩する内地の言葉は堅苦しく、それは学問と言って差し支えない難問なのだと、僕は確信できる。

 すぐ左手の少女も同じだったようで、可愛らしく眉間にシワを寄せていた。

 あれを難しいと感じるのは僕だけじゃない。

 そう内心で笑っているのも僕だけではなかったはずで、だから――。


 だから、誰も気付いていなかったのだと、後になって分かるのだった。

 彼女の背がいつも通りだったことの、その異常さに。

 それは僕が十七になった年の瀬。北と東を海に面するアラステア教国で、冬の寒さが本格化してきた頃の一幕である。

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