ネコさんとわんこ【短編版】
私のクラスにはネコさんがいる。
「おはよう、ネコさん」
誰でも気怠い月曜の朝。クラスメイトで賑わい始めた教室の端がネコさんの席だ。声を掛けられたネコさんは、突っ伏していた顔をのっそりと上げて欠伸をする。
「……おはよう、わんこ」
黒髪をショートカットにまとめた女の子――ネコさんこと猫柳さんは、そう言ってもう一度欠伸する。
「今日も眠そうだけど、何してたの?」
「朝ねむいことに理由がいる……」
「んー、私は眠くないから理由があるかと思って」
「羨ましいな……犬山わんこ……」
「名字と渾名がくっついてるし、そんなに眠い?」
「うん……」
目を擦って眠気に抗おうとするネコさんだが、結局勝てなかったようで再び机に突っ伏してしまう。軽く肩を叩いてみるけど反応はない。
「あと10分でホームルームだよ」
ん、と小さく答えた――ような気がする彼女に肩をすくめて、私は隣の自分の席に座る。
机にカバンを置いて、もう一度ネコさんの様子を窺ってみる。
「……」
朝の日差しが当たる窓際の席で、彼女は眩しがることもせず陽溜まりの暖かさを享受していた。黒っぽいブレザーと黒髪のお陰で、大きな黒猫が昼寝しているみたいだ。
そうなると、寝ているネコにすることと言えば決っている。私はそっと彼女の頭に手を伸ばし、
「あうっ」
うっとうしそうに払われてしまった。残念、今のネコさんは撫でさせてくれる気分ではないようだ。
けれども仕方ない。ネコは気まぐれなものだから。
ネコさんは基本的には一人で居ることが多い。クラスメイトの会話を遠巻きに眺めていたり、ぼんやりと空を見上げたり。
けど、人が嫌いなわけでもないし、友達がいないわけでもない。
「ネコさん」
「……なに?」
授業と授業の間の短い休憩時間。
次の授業の準備をするでもなくぼけっとしていたネコさんの元にクラスメイトの佐藤さんがやってくる。少し緊張気味の彼女を、ネコさんは先を促すようにじっと見つめていた。
胸の前で手を固めていた佐藤さんは、おずおずと若干硬い声で言う。
「ネコさん、数学の宿題ってやった?」
「やった」
「私、今日当てられる番なんだよね……見せてもらっても……」
「構わない」
ネコさんは、短く言ってノートを差し出す。受け取った佐藤さんは、ほっとしたように表情を崩した。
「良かった~。今度、お礼に何か奢るね!」
「うん、期待してる」
口元に薄い笑みを浮かべるネコさん。佐藤さんもつられて微笑んだ。
彼女が席に戻っていったのを見計らい、私はネコさんに話しかける。
「ネコさんって、呼ぶと来るよね」
「……どういう意味?」
「いや、一人でぼーとしてても、呼んだらちゃんと答えてくれるじゃない。そういうの、なんかいいなぁって」
「よくわからない……」
ネコさんが首をひねっていると、不意に『わんこー』と呼ばれる。声の先を向くと、教室の外で友人の山田さんが手を振っていた。
ネコさんに断り、私は彼女の元に向かい、訊ねる。
「どうしたの?」
「いやぁ、借りてたノートがあったことさっき思い出して。ほら、貸してくれてありがとね」
「ああ、そうだったね。どう? 役に立った?」
「ばっちりよ。字がきれいな人って羨ましいわー」
「まぁねー。字には自信がありますから」
「よっ、さすが」
「ふふーん」
特別誇ることではないけれど、褒められればなんだって嬉しいもので。『褒め言葉は素直に受け取ろう』が私のモットーだ。
そんな私を拝むように手を擦り合わせていた山田さんは、ぼそっと耳打ちするように言う。
「でさー、現国のノートも貸してほしいんだけど」
「しょうがないなー」
「おおっと即決。チョロくて心配になっちゃうぞ」
「何か言った?」
「何も」
私は席に戻り、受け取ったノートの代わりに現国のノートを山田さんに渡す。彼女は、ははーと献上品を賜るように受け取ると、お礼を言って自分のクラスへ戻っていく。
うん、人に頼られるのは気分がいい。上機嫌でネコさんが待つ席に戻ると、彼女はじっと私の顔を見ていた。
「私の顔に何かついてる?」
「ううん、別に」
「そう? で、何の話してたっけ」
「名前を呼ばれると駆けつける犬の可愛さについて」
「そうそう……そうだっけ?」
そうだよ、とネコさんは目を細めてそう言った。
ネコさんはよく眠る。大体いつもぼんやりと眠たそうな顔をしていることが多い。けれど、彼女はネコではなく人なので起きていなければならない場面というのも存在する。
具体的に言うと、昼食後の5限目である。
「つまり、ここは――」
私は、がっくりと下がりかけた頭を振って眠気を払う。しかし、その程度で払える眠気ではなく先生の声が遠くに聞こえてくる。
だけど、寝るわけにはいかない。授業中に寝るのは良くない、真面目に聴かないと……。
ちらり、と横目にネコさんを窺う。
「…………」
彼女は、教科書も立てずに机に思い切り突っ伏していた。あまりに堂々としているから、何も悪いことをしてないとすら錯覚してしまうほどだ。幾ら後列端とは言え大胆な……。
「ネコさん、起きないと怒られるよ」
小声で言って、ネコさんの脇腹をつついて見るがやはりその程度では起きない。少し強く揺すってみると、小さく唸って頭の向きが変わり、伏せていた顔が露わになる。
「むっ……」
普段は怒っていると誤解されることもある鋭い目は閉じられ、いつもの澄まし顔も心地よさに頬が緩んでいた。
寝ていることが多いネコさんだけど、窓際を向いて寝ることが多いので寝顔を見たことはなかった。だから、つい起こすことを躊躇ってしまう。もう少し見ていたいと思ってしまった。
私は、そっと彼女の頬をつつく。なめらかで柔らかい感触が指先に返ってくる。ネコさんは、くすぐったそうな顔をしたけど、起きることはなかった。
昼寝するネコを眺める楽しさに、つい私は夢中になってしまう。だから、いつの間にか板書が消され、問題が書き込まれていることに気が付かなかった。
「――というわけでこうなる。じゃあ、問題を犬山、解いてみろ」
「……ん? え、は、はい!」
指名された私は慌てて立ち上がり、黒板の前に立つ。冷静さを装ってるつもりだが、上手く出来ている自信はない。
やばい……何も聞いていなかった……。いや待て落ち着けちゃんと予習はしてあるぞ私。だからこの問題も解ける……解けるんだ!
昨夜の記憶をひっくり返し、知識を総動員し、導き出した答えらしきモノを黒板に書き込んでいく。チョークが擦れる音が、嫌に耳についた。
「どう、ですか……」
書き終えた私はチョークを置き、先生を見やる。うう、緊張する……。
「……うん、あってるな。ちゃんと話を聞いていたみたいだ」
ほう、と息を吐き私は席に戻る。嫌な汗をかいてしまった。
「…………」
隣の席では相変わらずネコさんが静かに眠っていた。……元はと言えば、ネコさんが眠っていたせいでこんな目にあったのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと頭にきた。うん、私は悪くない。なのでこれは正当な復讐である。
私は、ネコさんの髪をかきあげて耳を露出させる。そして、小さく息を吹き付けた。
「ッ!」
効果はてきめんで、彼女は背中をのけぞらせ、その勢いで机に膝をぶつける。突然の音に、クラスメイトと先生の目が彼女に集まった。
「急になんだ猫柳。寝てたのか?」
「いえ……」
「本当かぁ? じゃあ、これを解いてみろ」
「はい……」
ネコさんは、赤くなった顔で私を睨みつけると教壇へと向かう。私は素知らぬ顔でその視線をやり過ごした。
ふふん、どうしても起きない時の最終手段だったが、これに懲りたら少しは真面目に授業を――。
「出来ました」
「正解だ。なんだ、ちゃんと起きてたのか」
……ずるくない?
ネコさんはあまり喋らない。訊けばちゃんと答えてくれるけど、逆に自分の意志を口にすることは少ない。なので、何を考えているのかは掴みづらい。慣れが必要なのだ。
「……」
そして、この私の周りをウロウロしているのは『早く帰ろう』という意思表示だ。
しかし、まだ図書館の閉館時間まで30分ある。その時間になるまで委員の私が帰る訳にはいかない。例え滅多に人が来ない時間帯であったとしても。
「……」
ネコさんが無言のまま、私の前にあるカウンターに腰を下ろす。『誰も来ないから帰ろう』ということだろうけど、私は手にした本から目を離さない。
じっと見つめるネコさんの視線を感じるが、目を合わさない。合わせたら――寂しそうな目を向けてくるに決っている。その目には勝てない。
だから、心苦しいがここは心を鬼にして時間が過ぎることを待つ。
「……」
ネコさんは諦めたのか、カウンターから離れる。ほっとする私だが、同時に胸が痛んだ。数ページしか進んでいない本を置き、時計を見る。まだ5分も経っていなかった。
視線を正面に戻すと、ネコさんの姿が無かった。本でも探しに行ったのかと思ったが、彼女は活字を読むとすぐ眠くなるタイプだ。それはない。
じゃあ、どこに……って、
「ネコさん?」
音も無く私の横に立っていたネコさんは、再び無言のまま腰を下ろす。しかし、今度はカウンターではなく、
「わっ、い、いきなり膝に……」
「……」
私の膝に座ったネコさんは、何も言わずにじっと見つめてくる。『一人で帰るのは寂しい』と言いたいのだろう。わかっている。わかっているけど、私には委員という仕事が……。
「……」
葛藤に苛まれる私の首に、ネコさんは腕を回す。そして、甘えるように私に体を預けてきた。
日向みたいに暖かい体温とか、お日様みたいな匂いとか、首筋に触れる髪の感触とか――彼女の全てが私を駄目にする。
いやいや、ここで負けてはいけない。『今はお仕事中だから待っていて』ときちんと言うべきなのだ。まずは、ネコさんを膝から降ろす……降ろす……。
「……ああもう、ネコさんはずるいなー」
私は、ネコさんの髪をぐしゃぐしゃに撫で回して、ついでにぎゅっと抱きしめてやる。彼女は抵抗すること無く、さらに全身を預けてくる。
こんなことされて仕事なんて出来るわけ無いじゃんか。ずるい、ずるいわー。こんなに暖かくて柔らかくていい匂いするのもずるい。けど、一番ずるいのはそれを独占している私かもしれない。うん、じゃあネコさんのずるさは2番だ。
そんな益体もないことを考えていたのは、ちょっと恥ずかしいというのもあったからだ。冷静になると、こう……うん、名残惜しいがそろそろ降りてもらおう。
「帰る用意するから、先に待ってて」
「わかった」
私がそう言うと、あっさりとネコさんは膝から降り、カバンを持って図書館から出ていく。……言ったのは私だけど、未練なく離れられるのも寂しい。
だけど、彼女のきまぐれは今日に始まったことではない。一人で帰る日もあるし、待つのに飽きて帰る日だってある。今日は、たまたま寂しい日だったというだけだろう。
「行こう」
外で待っていたネコさんは、私の手を引くとすぐさま歩き始める。食事を催促するネコは、こんな感じなのかなと考えなら私は続く。
「そんなに慌ててどこに行くの?」
「新しく出来たカフェ。パフェが美味しいって」
「あそこかー。けど、人気で待ち時間あるって聞いたよ」
「わんこだから待つのは得意でしょ」
「得意だけど。けど、なんか言い方おかしくない?」
「ない」
昇降口を出て見上げた空は、黄昏に染まり始めていた。今からカフェに行くには微妙な時間かもしれないけど、たまにはいいか。
「早く」
そもそもネコさんが私の手を離してくれそうにないし。今更断る気もないけど。
「今回のパフェは期待できる。自己ランキング更新の可能性あり」
「ネコさんのグルメランキングしょっちゅう更新されてない?」
「されてるけど、去年の3位と今年の3位は格が違うから。流動的に進化している」
「前に同じもの食べて5位だったり1位だったりしたことなかったっけ」
「覚えてない。だからそんなことは無かった」
「あったけどなぁ」
本当にきまぐれで気分屋。寄れば離れるのに、遠ざけると近づいてくる一人が好きな寂しがり屋。今日と同じ対応をしても、明日にはまったく違う反応になるに違いない。
ネコさんに関して変わらないことは、たぶん一つ。
「ネコさんは可愛いね」
彼女は、少しだけ目を見開きこちらを見る。何を言うべきか考えているようだった。
わんっ、と犬が吠えた。校門前の歩道を犬が走り抜け、引きずられるように飼い主が追走していく。それを見たネコさんは、ふっと表情を緩めて言う。
「わんこもね」
「……えへへー」
やっぱりずるいなぁ。そんな一言で、こんなにドキドキさせるんだから。
ネコと犬が一緒に遊んでると和むから、そんな女の子たちが遊んでいるのはもっと和むだろという発想で出来上がりました。
※追記
続編できました http://ncode.syosetu.com/n0375eg/