第8話 守護魔獣との戦い
星海は武家の生まれではないから、ちゃんとした剣術を習った事はない。実のところ、剣を握ったことも、まだ数えるくらいしかない。だからと言って、この状態で逃げ出せるはずもなかった。
守護魔獣は、八卦師の幻術によって生み出されるものだと、以前、占い婆から聞いたことがある。
星海がもう少し八卦の術に詳しかったなら、簡単な呪文でこの魔物を消すことが出来たのだろうが、そうそう世の中、都合の良い風には行かないようである。
おぼつかない剣術で、自分にこの魔獣を倒す事が出来るのだろうか……星海は心の中の不安が、次第に大きく脹らんでいくような気がして軽く頭を振った。
不意に魔獣が飛んだ。
二人の上に大きな影が落ちる。
見上げた星海の瞳の中で、そのおぞましい姿が、みるみるうちに大きくなる。
星海は夢中で剣を横に払った。
手に重い手応えがあった。
と同時に、星海の左肩に激痛が走った。
魔獣が星海の肩を後ろ足で蹴って、再び大きく飛んだのである。飛び越しざまに、足の鋭い爪が少年の肩を大きくえぐっていた。
「いってぇ……」
その痛みに気が遠くなりそうだったが、星海は辛うじてそこに踏み止まった。
「血が……」
優慶の震える声が聞こえたが、星海にはそれに答える余裕はない。
星海が魔獣の方へ向き直ると、ちょうど魔獣は地面に着地したところであった。その場所に赤黒い血が滴り落ちて、地面に幾つもの斑点を描いている。どうやら、星海の剣先が獣の腹を掠ったようだった。
「……これのどこが……幻術なんだよ……」
星海は血の匂いに酔いそうになって、思わず口を押えた。魔獣は、そのままそこにうずくまる様にして、体を丸めている。それが、少しずつ崩れるように、何か別のものに変わり始めた。
「こいつ変化するのか……」
顔に鋭い嘴が現われ、その背から赤い羽根の翼が現われた。星海が目を見開く前で、体を真紅の羽根に覆われ、長い嘴と尾を持った巨鳥が大きくはばたいた。星海の背丈ほどはあろうかという長い尾が風になびいて、少年の鼻先を掠めた。
「羅刹鳥……」
優慶が鳥の名を呟いた。
「え?まさか。だってあれは」
「書物で見たことがある。冥界に住むという、空想上の鳥だ。人の魂を食らうという。七つの獣身を持ち、自在に変身するという不死の怪鳥」
「いくら八卦師の幻術っていったって……」
「来るぞ」
羅刹鳥が耳障りな鳴き声を発しながら、彼らに向かって真っ直ぐに降下してくる。星海は他に成す術もなく、それを追い払うように、手の剣を大きく振り回した。
羅刹鳥が近付いてくるに従って風が巻き起こり、辺りに砂ぼこりが舞う。それに視界を奪われた、と思ったら、いきなり剣の動きが止められた。砂ぼこりの中、薄目を開けて見れば、羅刹鳥の太い足が星海の剣をがっしりと掴んでいる。
――まずい。
そう思った途端、ものすごい力で手にした剣が引っ張られた。剣を離すまいと星海は足を踏ん張ったが、羅刹鳥の力は、少年のそれよりも遙かに強かった。
少しずつ、星海は剣ごと引き摺られ始める。しかし、星海が剣を離さないせいで、羅刹鳥のほうは飛び上がることが出来ない。半ばもがくように、怪鳥は激しく翼をはばたかせた。すると、羅刹鳥のはばたきで信じられないような強風が起こった。
「きゃっ」
星海の後ろに居た優慶が、小さな悲鳴を上げた。風に煽られて、優慶が飛ばされたのである。
「優慶様っ。わっ……しまっ……」
一瞬、他のことに気を取られた星海の手から、剣が離れた。羅刹鳥は大きくはばたいて、剣を足に握ったまま空高く舞い上がった。
「大丈夫ですか?優慶様」
「ああ、大事無い」
「しかし、参ったな。あいつ、剣持ってきやがんの」
「済まない。私のために……」
「えっ……いや、そんな……俺の集中力が無かったのが悪いんだから……」
優慶に謝られた事が、星海にかえって自分の非力さを再認識させる事になった。
優慶を守りたいだなんて、そんな大きな事を言っても、今の自分には何もできない。例えば劉飛なら、こんな場面でも、きっともっと上手に切り抜けられるんだろう。そう思いながら、自分を見上げる優慶の不安げな表情を見て、星海は肩を落とした。
「情けないったら……」
小さな声で呟きながら星海は空を仰ぐと、再び彼らを指して飛来してくる怪鳥を、その視界に収めた。
一体、どうすればいいのか――
不死とも言われる敵を相手に、何が出来ると言うのだろう。少年は必死に思考を巡らせたが、答えと呼べるようなものは、何一つ見付からなかった。
微風が頬を掠めた。
まだ遙か上空にいるあの羅刹鳥の、はばたきの起こす風だろうか……星海がそう思ったとき、頭上で陽の光に反射して何かが光ったような気がした。
「何だ?」
何かが落ちてくる。
鳥よりも小さく、落下速度の速いあれは……
「剣が……」
少年の瞳めがけて落下してきたのは、先刻奪われた彼の剣であった。それが、見事にばらばらに砕けているのを、星海は呆気に取られて、吸い込まれる様に見据えていた。
「危ないじゃないか。何をしているっ」
突然、優慶が力一杯、星海の腕を掴んで引いた。
「うわっ……」
突然のことに、星海はよろめいて転びながら、たった今、彼のいた場所に砕けた剣の破片が、雨のように降り注ぐのを見た。そこに生じた銀色の光の乱反射が二人を包み込む。
その光の中で、星海は何百という二人の虚像が一度に現われるのを見た。
――万華……鏡?
幾百もの星海と優慶が、皆同じ動作をする。
その虚像達が地面に倒れていく姿を横目に見て、このままでは、自分が優慶を押し潰してしまう事に気付いた。
星海は体を反転させて優慶の体を抱き寄せると、そのまま彼女を抱き抱えながら、肩から地面に倒れ込んだ。
体に来る衝撃を予想して、着地の瞬間、星海は体を固くした。だが、鈍い音と共に砂ぼこりが舞い上がっただけで、星海の体に来た衝撃は思ったほど大きくなかった。
「あれ?」
目を開けた星海がそこで最初に見たものは、抜けるような青空であった。雲一つ無いその空に、輝く太陽の日差しの強さに星海は思わず目を細めた。