第7話 羅刹幻鏡(らせつげんきょう)
河南を指して街道を南へ下っていた劉飛は、丘陵地帯の岐山にかかる手前で、駒の速度を落とした。
「おかしいな……」
数日前、都に戻る道すがらに通ったばかりであるのに、何か、前とは感じが違うような気がするのである。
街道の道筋の、木々の間から降る緑の木漏れ日が、顔に差し掛かってまぶしく、頭上に鳥のさえずりが聞こえるのは、変わらないのどかな光景である。だが、その平和な空気の中に、わずかに、その調和を乱す気が交じっている。そんな気がして、劉飛は改めて辺りの景色を見回した。
その時である――
かすかに空気を裂く低い音が耳についた。劉飛は反射的に腰の剣を抜き、勢いよくこれを横に払う。すると、一本の矢がその刃によって両断され、折れて地に落ちた。その矢羽根に目を止めて、劉飛は驪驥から下りると注意深くそれを拾い上げた。
「見慣れない矢羽根だな……南方の琴糸鳥とも、北の月光鳥のものとも違う。なんとも、嫌な色だ」
それは、まるで血でも吸い取ったかのような赤い色であった。更に、矢尻に目をやって、劉飛はその鋭くとがった先端に、何か記号のようなものが書かれているのに気が付いた。
「これは……ただの矢じゃないな。八卦師の術符か……」
そう言いかけた劉飛の、今度は顔を掠めて、同じような矢がすぐそばの木の幹に突き刺さった。
「おっと……」
それを皮切りに、間髪を入れず次々と、劉飛を目掛けて矢が飛来する。
「幻鏡術。呪縛っ!」
同時に術を仕掛ける男の声がして、突然、劉飛の体に大きな重圧感が襲いかかった。
「っ……何者っ」
「せっかく大公共を片付けたと言うのに、また河南へ力が集まるのでは、面白くないのでな」
「お前は……」
劉飛は顔を上げてその声の主を確かめようとしたが、金縛りにあったように身動きが取れなかった。そうして呼吸が苦しくなっていくに従い、劉飛は自分の意識が次第に遠退いていくのを感じた。
――我が幻鏡の内で、永遠にさ迷うがいいわ。
男の声が彼方で聞こえたのを最後に、劉飛は気を失った。
街道の道筋に驪驥の姿を見つけて、優慶は馬を止めた。優慶は驪驥の主の姿を捜して、辺りを見回したが、その主である劉飛はどこにも居なかった。
「優慶様っ」
ようやく彼女に追い付いた星海がそう呼んだのを、優慶は怪訝そうな顔をして振り返った。
星海が優慶を想い、眠れない夜を幾つも過ごしたのに引き換え、優慶の方は、たった一度会っただけのこの少年の事を、その記憶の中に全く留めていなかったのである。だから、優慶を追ってきた星海を、彼女は自分を連れ戻しに来た燎宛宮の者だと思った様であった。
「……城へは戻らぬぞ。劉飛と一緒でなければ戻らない。劉飛を河南などにはやらない。何があっても、最後まで私の味方でいてくれると言ったのは、劉飛だけなのに、こんな事で彼を失ってしまうなんて、絶対に嫌だ」
「……優慶様」
優慶は、皇帝とはいえ、まだ子供だった。
自分の感情を、ありのままに口にできる程に。そして、その嘘の無い言葉が時として、人を傷付けてしまう事に気付かない程に。星海は、唇を固く結んで彼を見上げる優慶に、何も言えなかった。
星海は、ただ黙って雪妃の背から下りると、驪驥の側に近付いて、そっとその首筋を撫でた。落ち着かない様子でその場で足を踏みならしていた驪驥が、次第に大人しくなっていくのを見て、静かに話しかける。
「驪驥、劉飛兄さんはどうしたんだ?お前のご主人様だよ」
そう言った星海の言葉を解したかのように、驪驥が甲高い声でいなないた。そして、星海が何かを捜すように辺りを見回す。
優慶は星海が何をしようとしているのか分からずに、不思議そうな顔をして馬上から彼に声を掛けた。
「何をしている?」
星海は淡々とした口調で、それに答える。
「八卦師が、術符を使った跡があるんだ。この辺りに『鏡封じ』の結界が張られているみたいだな。多分、劉飛兄さんは、その結界に引きずり込まれたんだと思う」
そう言いながら星海は、自分が不思議なほど冷静でいることに、内心驚いていた。
彼はたった今、失恋したばかりと言ってもいい。彼にはもっと取り乱す理由もあるし、権利もある。それでも、この少女に対して、そういうみっともない姿を見せる事は、星海にとっては論外のことだった。
「……一緒に劉飛を捜してくれるのか?お前は母上に言われて、私を連れ戻しに来たのではないのか?」
「……俺だって、優慶様の味方だから」
ただ一言だけそう言って、星海はにっこりと笑ってみせた。
自分は優慶が好きだ――
要するにそういう事なのだ。
優慶が皇帝だろうと、他の誰かを好きだろうと、星海には関係無い事なのである。例え、優慶が星海に対して、好意のかけらも持っていないのだとしても、それで星海が優慶を思う気持ちが、目減りするということはありえない。
幸か不幸か、一度火のついてしまった恋心を消し去る術を、星海はまだ知らなかった。
「その結界を解く方法が、分かるのか?」
星海の笑顔に警戒心を解いた優慶が馬から下りて、彼の側に来て言った。
その時ふと、何とも言えない良い香りが、星海を包みこんだ。それが、香をたきしめた優慶の衣服の香りであると気付いて、星海は静かに深呼吸した。今、自分の隣に優慶がいる。星海はそう思うだけで幸せな気分になった。
「結界を解くには、八卦師の術符を捜さないと……」
星海が辺りを見回すと、近くの木の幹に珍しい矢羽根を持つ矢が刺さっているのが目に止まった。
「なんだろう……」
星海は矢を抜こうと手を伸ばした。だが、彼がそれに触れようとした刹那、矢が突然消えた。そしてその代わりに、恐ろしい獣がそこに現われた。
「結界の守護魔獣……か」
星海は優慶を背後に庇いながら、剣を抜いた。
凶暴そうな赤い瞳と低い唸り声は、明らかに目の前の人間に対して、敵意を持ったものである。その獣の持つ鋭い牙に目をやって、星海は足が竦む様な気がした。呼吸を落ち着けながら、星海は手の中の剣を握り直した。