第5話 白い天翔馬
星海の捜す姫君――優慶はその頃、独り自室に籠もり、物憂い気分に沈んでいた。
雷将帝という、重々しい名前を持つもう一人の自分が、彼女には時々耐え難いものになる。
最近になって、母である太后が、自分をその権力の道具としてしか見ていない事に気付いてしまってから、前にも増して一層、雷将帝である自分が疎ましくなっていた。
「劉飛……」
手の中の小さな肖像を溜め息交じりに見て、優慶は自分がただの貴族の姫であったら、どんなに良かっただろうかと考えた。
気晴らしのお忍びを思い立って、優慶は部屋の隠し扉から衣装部屋へと抜け、そこで衣装を質素なものに改めた。着替え終わってふと、衣装部屋の、鏡の中の自分を見て、優慶は言い様の無い寂しさに襲われた。
「皇帝という名前と引き換えに、無くしてしまったものが多すぎる……」
お供も連れず一人で出かけてしまう優慶を、今まではそのお目付け役であった華梨が、いつも慌てて連れ戻しに来ていたものだが、その華梨も官を辞してからは、自主的に謹慎しているのか、顔も見せない。
近衛の隊長として、いつも自分の護衛をしてくれていた蒼炎は河南へ去ってしまった。
自分の気に入る者は母太后の手によって、皆、次々に遠ざけられていく。そうして、後に残っているのは、母の機嫌を取って私腹を肥やす事ばかり考えている、そんなつまらない人間ばかりなのだ。その中に、本当に自分やこの国の未来を考えているものが、一体どれほどいる事か……
「……もう何も無くしたくない。誰も失いたくない。一人になるのは嫌。臣下のもの一人守れないで、何が皇帝か」
優慶が皇帝としての責任を自覚し始めた事で、母である太后との間に次第に溝が出来つつある。でも、自分の大事なものを守るためなら、母との多少のいさかいは仕方がないと、優慶はそう思っていた。
だが、雷将帝が真の意味で皇帝となるには、いずれお互いの存亡を賭けて、母と対決しなければならないのだという事を、今の優慶はまだ理解していなかった。
優慶は馬屋から、愛馬、騏驥を連れ出し、地下の抜け道を使って、華煌京の街中へ出た。どこに行こうかとしばし考えてから、都大路を左に折れ、車騎兵軍元帥璋翔の邸宅のある、東の六条大路へ駒を向けた。
燎宛宮の私室で自主謹慎中の華梨は、思いがけなく彼女の部屋を訪れた星海が、優慶に会いたいというのをどうやって諦めさせようかと思案していた。
この燎宛宮に星海の捜す優慶という名前の姫は居てはいけないのだ。優慶は雷将帝であり、雷将帝は男なのである。雷将帝が女であるというのは、宮廷の極秘事項なのだから……
「……優慶様は、もう、ここにはいらっしゃいませんわ。お父上とご一緒に、ご領地の方へお戻りになりましたので」
「ご領地って……?」
「ええと……広陵の西畔の方だとか……」
「華梨様を置いて、ですか?」
「私は、都を離れたくはありませんでしたから、お暇を頂いたんですわ」
「……そうでしたか」
星海がひどくがっかりしてしまったのを見て、華梨は少し気が咎めたが、所詮叶わぬ恋なのだから、深入りさせない方がいいのだと自分を納得させた。
「さっ。もうお帰りなさい。お供の方が、きっと捜してらっしゃるわ」
「はい……」
星海は華梨に別れを告げると、重い足取りで回廊を歩き出した。西畔という所がどのくらい遠いのか、星海には見当もつかなかった。
ぼんやりしながら歩いていた星海は、近くで人の怒鳴りあう声を聞きつけて我に返った。何時の間にか城の中庭を抜け、正面の門へ出るところが裏へ回ってしまっていたようである。
「何の騒ぎだろう……」
何気無しにそちらへ足を向けた星海は、近くの馬屋の中で何やら騒ぎが起こっているのに気が付くと、たちまちいつもの調子を取り戻し、馬屋を覗き込みに行った。
「何をしているのだっ!早く、取り押さえぬかっ!」
身分の高そうな男が入り口に立ち、中の者を怒鳴り付けている。男の背後からその中を覗きこんだ星海には、二人の男が暴れる一頭の白馬を押さえ付けようとしているのが見えた。白馬はしきりに首を振って、自分の手綱を掴む男達の手を振りほどこうとしている。
「雪妃っ!」
星海の叫んだ声に反応して、白馬が顔をこちらに向けた。星海の思った通り、その馬は周翼の愛馬、雪妃であった。
雪妃は北方産の天翔馬という種で、天を翔ける如く早く走る馬というその名の通り、普通の馬の、数倍の距離を一日に走ることが出来るという名馬である。帝国全土で十数頭しかいないとされる希少種で、特別に功績のあった者に皇帝から下賜される特別な馬であった。
男達が星海に気を取られた一瞬の隙に、雪妃は大きく首を振ると前足を高く上げ、男達を藁の山へ放り投げた。そして、入り口に向かって勢い良く突進してきた。入り口に立っていた男が驚いて尻餅をつく。雪妃は男の頭上をひらりと飛び越えると、そのまま星海の脇を抜けて走っていく。星海は反射的にその手綱を掴んでいた。
「おいっ、雪妃ってば。どうしたんだよ。落ち付けって……」
だが、雪妃は立ち止まる気配も無く、星海はそのまま引き摺られる格好になる。
「そいつの足を止めろっ。おい、お前達、早く追わぬかっ。城外へ出すのではないぞ。言う事を聞かぬなら、殺しても構わぬ」
後方で男の声がそういうのを聞いて、星海は手にしていた手綱を勢い良く引いて、雪妃の背に飛び乗った。
「あんな奴がお前の新しい主人なのか?雪妃。お前が逃げ出したくなるの分るよ」
星海が鐙を蹴ると、雪妃は走る速度を上げて、そのまま宮殿の正門へと走っていった。
梗琳は星海を捜して、広い燎宛宮の中をさんざん歩き回っていた。今度、星海を燎宛宮に連れてくる時には、首に縄でも付けておかなければならないと真剣に思い始めて、ちょうど彼が馬車を置いてある場所に戻って来た所であった。
彼の目の前を、白いものが横切った。通り過ぎたものが白馬であったと、その後ろ姿を見て確認した梗琳は、その馬上の人物の衣服に見覚えがある事に気付いた。
「星海様っ!何をしているのですかっ!」
星海は雪妃の首にしがみついて、肩越しにかろうじて後方を見た。自分を呼んだのが梗琳であると知って、星海は大声で叫んだ。
「雪妃が、言う事きかないんだ。止まんないのっ!」
「星海様っ」
手綱の取り方もろくに知らないくせに、一体、あの少年は何をしているのか。梗琳は、星海の軽率さを呪いながら腰の剣を抜くと、目の前の馬車に馬を繋いでいた綱を勢い良く切った。そして、その馬に飛び乗ると、星海の後を追った。