帝国の終焉
――大陸歴268年、初秋。
数日経って、何事もない顔をして戻って来た天祥に、珀優は何の疑念も抱かずに、いつもと同じ様に彼を出迎えた。 天祥は、劉飛と共に、岐山に駐留している皇騎兵軍の視察に出向いていた事にしてあったのだ。
それからしばらくの間、燎宛宮では、何事もない穏やかな日が続いていた。
そして――
暑かった夏の空気が、ある日ふと涼やかな冷気を帯びて、そこに初秋に香る花木の匂いを感じた頃、湊都で、崔涼が挙兵したとの一報が届いた。
その年の秋の訪れと共に、都には、南から戦風が勢いよく吹き寄せ始めた。
程なくして、河南領官である劉朋からの連絡が途絶えた。
同時に、河南に残留していた皇騎兵は、河南軍に組み入れられ、先の河南領官である杜狩の息子杜陽が、その一軍を率いて、崔涼と合流したとの知らせが入った。そして共に、燎宛宮を指し、進軍中であるという。
劉飛はこれを岐山に駐留させている皇騎兵で迎え撃つ積りの様だった。西畔の車騎兵軍もここに合流する手筈になっているが、どうもその出発が遅れたらしく、河南軍とどちらが先に岐山に着くか、微妙な具合になっているという話である。
華煌京では、敏感に嵐の到来を感じ取った人々が、こぞって逃げ出す算段を始めていた。先の内乱で蹂躙された事を覚えている者も未だ多い。 あれ以来、この都はすでに不落の都ではないのだと、人々の認識はそういう事で一致していたのである。
取り敢えず、敵が南から来るので、逃げるとすれば西か東という事になる。そんな避難民の行列が、実は、西から来る筈の車騎兵軍の進軍を遅らせる一因にもなっていた。
次第に河南軍が近づいてくるそんな状況に、燎宛宮は落ち着かない空気に包まれていた。
皇帝の間に座する雷将帝の傍らには、華妃が寄り添う様にして佇んでいた。姫貴妃は公子と共に、後宮の方にいる。そこで女官たちを取り纏めながら、後宮を仕切っているのだ。
広間の中央に置かれた大きな卓の上に、地図を広げて、それを示しながら劉飛が、次々に指示を出していく。その命令を受けて伝令の兵士たちが、慌ただしく出入りする。姫元帥の率いる皇騎兵軍が、いつ頃、岐山で河南軍と遭遇するのか。それが、その時その場にいた者たちの、最大の関心事だった。
「申し上げますっ」
走り込んできた兵士に、劉飛がついに来たかという顔をしてそちらに視線を向けた。
「北口村より、火急の知らせにございます。水軍が……海州水軍が全軍をもって上陸。目下、この華煌京へ向けて、進軍中であると」
「まさか海州水軍までもが、寝返ったというのですか」
珀優が信じられないという表情で、その兵士に問う。
「水軍は、我らに味方すべく参ったのではないのですか」
「それが……彼らは上陸と共に北口村を焼き払い、街道に溢れていた都よりの避難民を容赦なく薙ぎ払い……今や北の街道沿いは、赤き血で染まり、人々の屍で溢れかえっているとの事。これは間違いなく、敵であると」
知らされた惨状に、珀優が膝を折り、そこに座り込んだ。
「大丈夫か?華妃。気分が優れぬ様なら、後宮で少し休むがいい」
「いえ……私は大丈夫です」
珀優は玉座に手を掛けて、そこで身を支える様にして立ち上がった。
「私は、全てを見届けなければなりません。この戦で、どれほどの命が奪われて行くのかを。それが、この私の最後の務めなのですから」
気丈にそう言った珀優であったが、その声は震え顔色は明らかに優れない。天祥は立ち上がると、彼女の身を支える様にして抱き、少し離れた所にある妃用の椅子に座らせた。
「何があっても、私は、あなたのお側にいますから。何もかも一人で抱え込まなくていいのですよ」
耳元に囁く様にそう言って、天祥は珀優の頬に軽く口づけをした。天祥は立ちあがると、そのまま劉飛の元へ行き、何事か言葉を交わしている。
その姿を目で追いながら、珀優もぼんやりと考える。
東から海州水軍が来るというのなら、兵の配分をやり直さねばならないのだろう。燎宛宮に残る者も、戦闘に関わりのない文官や女官たちは即刻、避難させる必要がある。
唯一の逃げ道である西街道への退路を確保する為に、岐山の皇騎兵軍を動かす訳にはいかないから、水軍は、この燎宛宮に残る警備隊や、近衛の兵で退けなければならない。それとも、皇騎を呼び戻して、そのまま籠城という事にするのか……しかし、西への道を塞がれたら、補給線の確保が出来ない。それに、車騎だけで河南軍と対峙という事になれば、恐らく車騎にも甚大な被害が出る。
珀優の視線の先で、天祥と劉飛が、険しい顔で何事かを言い合っているのは、恐らく、その様な事なのだろう……
次第に視界がぼやけて、そんな二人の姿が見えなくなっていく。
――こんな時に……こんな所で……倒れる訳にはいかないのに……私は。
必死に、その意識を保とうとする珀優の思いとは裏腹に、彼女の意識はそこで途切れた。
「……ああ。姫英は呼び戻さない。ここは、俺が最後まで面倒を見るから。大丈夫、剣の腕は鈍っちゃいないから。任せておけ……」
言いながら劉飛が珀優の方へ視線を向けて、その様子に気づいて言葉を切った。天祥がそちらを見ると、珀優は椅子に座ったまま、気を失っていた。
「……お前、何かした?」
「ええまあ……少し。今からあんなに気負っていたら、持たないだろうから」
八卦で眠らせたのだという天祥に、劉飛は肩を竦めた。
「兵に言って、後宮へ運ばせよう。天祥……」
劉飛が今までに見せた事のない真剣な眼差しをして、天祥の名を呼んだ。
「……」
「この先、あの方をお守り出来るのは、もうお前だけだ。だから、しっかりお守りしろよ」
「ああ。分かってる」
そう答えた天祥に、劉飛が手を差し出した。
「生きていたら、また会おう」
差し出された手を握り返そうとした天祥の手が、一瞬止まる。
「……不敗の戦神が何を言ってるんだか」
「そうだな」
「死んだら、承知しないからな」
念を押す様にそう言って、天祥が劉飛の手を握り返す。握り合った手は、しばらく互いの存在を確かめる様に固く結ばれた後で、ゆっくりと離れて行った。
「それじゃあな……」
何時もの様に、またすぐに会えるとでもいう様な、そんな軽い挨拶を残して、天祥は劉飛に背を向けた。
「じゃあな」
その背に劉飛が応えを返すと、天祥は振り向かずに、右手だけを軽く上げた。
互いに意識したのかは定かではないが、共に、またな、とは言わなかった。
そして、二人にとって、それが今生の別れとなった。
――それから数刻の後、岐山。
東の空に、突如、にわかには信じ難い様な火柱が噴きあげたのを、そこにいた多くの人々が目撃した。
西へ向かう人々も、岐山のこちら側にいた河南軍の兵士達も、そして岐山の上に陣取っていた皇騎の兵達も、ただ茫然と魅入られた様に、その炎を見据えていた。
高台にいた皇騎の兵達は、更に、その火柱の下で、巨大な火の玉が膨れ上がり、それが華煌京を呑み込んでいく様を、つぶさに見る事が出来た。
一体、何が起こったのか。だがその問いに答える事が出来るものは、誰もいなかった。
その炎は三日三晩燃え続け、そこにあったものの痕跡をすべて消し去ってようやく、収まった。
その業火の後。
皇帝も燎宛宮も、最早、どこにも存在せず、一つの帝国があっけないまでの幕切れと共に、この地上から姿を消した。
大陸歴二百六十八年、初秋の事である――
本編31-(2)、(3)、(4)




