第3話 月下の語らい
数日来降り続いていた雨がようやく上がり、時折雲間から、秋の明るい月がその姿を見え隠れさせている。
何と無く寝付かれず庭に出ていた星海は、いつの間にか梗琳が傍に控えているのに気が付いた。
「まだ寝てなかったのか?」
「私は星海様の、護衛の役も兼ねているのですから……お館様から、危なっかしいので目を離すなと言い付かっております」
梗琳は天海の管財人を務めている青年である。
年は二十だと言っていた。
元々は、彼の父親が、戦場に出ている事の多い天海に代わって、屋敷の留守居役を務めていたのだそうだ。そして、父亡き後、梗琳がその跡を継ぎ、今では天家の財産管理を任されているという話だった。天海が、彼に星海を預けたのは、まあ順当なことなのであるが、星海には身に余っている感がある。
実のところ天海が彼を養子にすると言った時に、それがどう言うことなのか、星海にはよく分かっていなかった。今まで占い婆が彼の親代わりであったが、ただ、それが今度は天海という、ちょっと身分のある偉い人になる――その程度の認識だった。
それがどうも違うようだと気付いたのは、天家の、この豪勢な屋敷の門をくぐった時である。そして、星海がその状況を正確に把握するよりも先に、更に追い討ちをかけるように、『天海の息子』というのが、『帝国宰相の息子』の同義語になってしまったのだった。
何だかとんでもないことになっているとは思うものの、未だ星海には状況がよく呑み込めていなかった。
「俺みたいなのの、お守りなんて……大変だよな」
星海が珍しく殊勝な事を言ったので、梗琳が不思議そうな顔で星海を見た。
月に照らし出されて青白く見える少年の横顔が大人びて、何となく寂しげに見える。梗琳はやや間を置いてから、静かに答えた。
「私の父は、天海様にご信任を頂いて、ご当家の管財人をしておりました。父亡き後、私がその跡を継がせていただきましたが、毎日書類とにらめっこで、やや退屈しておりました。若様のお相手をしていると、いい気晴らしになります」
「なら、いいけど」
「……ずっと、ここに居てくださいますね?」
「なんだよ、改まって……出ていったりしないって」
「あなた様を見ていると、昔の劉飛様を思い出しますね。元気が良くって、一つ所にじっとしていない……天海様が気に入られた訳が何と無く分かります」
星海は笑いながらそう言った梗琳が、ふと誰かに似ていると思った。
「そっか……梗琳は、周翼兄ちゃんに似てるんだな」
「……星海様。『兄ちゃん』ではなくて、『兄さん』でしょう?もう少し、言葉遣いを丁寧にしておかないと、宮中の姫君方に相手にされませんよ」
「『周翼兄さん』ですね、先生」
「星海様ったら。それで、周翼様が何か?」
「俺、よく分んないんだけど……劉飛兄ちゃ……じゃなくて兄さん、と周翼兄さんって、すっごく仲良かったんだよな。なのに、どうして周翼兄さんは、一人で河南へ行っちゃったのかな。劉飛兄さん、てんで落ち込んじゃって……訳も言わずに行っちゃったって」
「周翼様は、蒼家の方々とご懇意のようでしたから、逃亡なさった蒼炎様を、お見捨てには出来なかったのでしょうね。謀反人は捕まれば死罪。蒼炎様がそのような事になったら、華梨様が悲しまれますでしょう」
「華梨様?」
「蒼炎様の姉君ですよ。周翼様の許嫁だったと聞いておりますが……」
「なんか……いろいろと複雑なんだな。劉飛兄さん、早く元気になってくれると良いけど……」
「季節がうつろい、地に落ちた種子がやがて芽を出すように、何事もその変化は少しずつでも、物事は確実に変わっていくのですから。天の雲も、そういつまでも太陽を覆い隠しているものではありません。雨天の後には晴天。これが自然の摂理というものでございます」
「梗琳が言うと説得力があるな。今度、劉飛兄さんに、そういう話、してやってよ」
「劉飛様なら、私などが言うまでもなく、ご自身で立ち直られますよ。さっ、そろそろお休みになられませんと。明日は、燎宛宮へ行かれるのでしょう?」
梗琳に促されて、星海は寝所へ戻った。
その夜の同じ月を、劉飛もまた、思い悩むこと多く、寝付かれないままに眺めていた。
周翼が河南へ行ってしまったという事は、今では紛れもない事実として、彼の心の中に言い様の無い刺となって、存在していた。
どんな事情があったのかは知らない。だが、それが例え、どのようなものであるにしても、すでに周翼と劉飛の関係は、もう元に戻ることの無いものに思われた。
ただ……そうは思っても、今まで当たり前に存在していたものが、突然無くなってしまったという現実を、劉飛はまだ受け入れられなかった。
――もし、無くしたものが取り戻せるなら。
他には何もいらない。
周翼が自分の元に戻ってくるのなら、今の地位も名誉も財産も全てを引き換えにしたっていい。
晴れぬ心の重圧感に疲れて、いつしか劉飛の心をそんな考えが支配するようになっていた。
――周翼に会いたい。
ただ、その顔が無性に見たかった。そう思って思い詰めた劉飛が、河南に向けて密かに都を発ったのは、その翌朝の事であった。