第2話 少女の願いと宰相の思惑
燎宛宮では、新しく宰相になった天海が、就任式もしないうちから、前宰相の残務整理に追われていた。前宰相蒼羽が今度の謀反騒ぎで突然失脚してしまい、宮中はなんとなく落ち着かない雰囲気に包まれていた。
彼が雷将帝に呼ばれて、皇帝の間に姿を見せたのは、夜半過ぎであった。
帝国第十代皇帝である雷将帝は、即位して三年になるが、まだ七つの子供であった。先帝光華帝の急逝で、わずか四才で即位したのである。当然名ばかりの皇帝であり、政治の実権は、実質宰相蒼羽と雷将帝の実母である太后が握っていた。
皇帝の御前に参上した天海は、その隣に、太后が不機嫌そうな顔付きで座っているのを見て、また厄介事があったのかと、人知れず溜め息を吐いた。
「忙しい所済まぬな。どうしても、お前に相談したい事があるのだ」
雷将帝が年に似合わない、大人びた口調で言った。
「私でお役に立ちますれば……何なりと」
天海は畏まって答えながら、また、何事だろうかと考えた。
今までは、恐らく太后と蒼羽の間でいろいろな事が取り決められていたのだろう。それが、最近では皇帝が思いがけず反抗的で、太后のいう事をきかないという。太后がこの所ずっと不機嫌なのも、大方そのせいなのだろうと察するものの、二人の仲介役にされるのは、天海にとって気が重いことには変わりない。昨日も、蒼羽の娘の処遇をめぐって、諍いがあったばかりなのだ。
前宰相の娘、華梨は皇帝付女官で雷将帝の覚えもよく、宮中の才媛と目されていた少女であった。それを、太后が蒼羽と共に北境へ流刑にするというのを、雷将帝が真っ向から反対したのである。結局、北境送りは取り止めになったが、官位もそのままにという皇帝の意向を、華梨の方が辞退して、事態は一応の決着を見たのである。
雷将帝は、まだ年若いという事もあって、不正や過ちをひどく嫌う。だがその一方で、自身の気に入った者を特別に寵愛してしまう。何事にも素直なのだろうが、自身の皇帝としての力の大きさを理解するには、まだ幼なすぎるのだろう。そんな事を考えるにつけ、天海は宰相という責任の重さを殊更に感じていた。
「劉飛の事なのだが……そろそろ謹慎を解いて、復職させようと思うのだが」
「……陛下。またそのような」
天海が答えるよりも早く、太后が口を挟んだ。
「謀反人を取り逃がしたのです。謹慎では軽いぐらいの処罰ですのに。早々に復職などとは。他の者が納得致しません」
「しかし、劉飛ばかりに非があるという訳ではあるまい。それに、先日の秋白湖の戦いでは、大公軍の左将軍を討ち取って、たいそうな手柄を立てたというのに……」
「陛下、このような事を陛下のお耳に入れるのは如何かと存じますが、宮中には、劉飛は蒼炎をわざと逃がしたのだという者もおります」
「そのような、埒もない」
「蒼炎と共に逃亡した周翼は、あの者の義兄弟だというではありませんか。戦場にも参謀として、一緒に参っていたとか……」
「天海、そちはどう思う?」
太后を制して、雷将帝が天海に意見を求めた。
劉飛は確かに、武人としては申し分ない。兵達にも人望がある。だが、雷将帝の寵愛が大きく、武勲を立てたのだといっても、十八で准将などと異例の出世をしてしまったために、宮廷内では彼を快く思っていない者が数多くいる事も事実である。その筆頭が恐らく、この太后なのだろう。
天海はしばし考えてから、返事をした。
「……復職と申しましても、そのまま元の位に、という訳には参らぬかと存じます」
「まさか、降格せよと……」
意外そうに雷将帝が言った。
劉飛は天海の幕僚を務めていたのである。天海はいわば彼の上司で、劉飛の実力を一番認めている人物に違いないのだ。天海ならば自分の意見を支持してくれる。雷将帝はそう考えたからこそ彼を呼んだのである。
「ちょうど、皇宮警備隊の指揮官補佐に空きがございます。そのあたりが、妥当かと」
「ばかな。皇宮警備隊など……話にならぬ……」
天海の意見を聞いて、雷将帝が呆れたように呟いた。
それでは、降格もいいところだ。
皇騎兵軍准将と皇宮警備隊の指揮官補佐。階級にして軽く、五つ六つは違う。
「元帥の子息にそのような……」
「皇宮警備隊とは、良いところに空席がございましたな。陛下、宰相殿もああ申しておられるのですから。ほんに、有能な若者をそう遊ばせておくものではございませぬからな。宰相殿、良いご意見を賜りました」
太后がそう言って嫣然と笑う。
「まこと、そうするのが良いとお考えか?」
確認するように、雷将帝が天海の顔を見た。
「はい。劉飛ならば、此度のお役目、立派に務めましょう」
そう言う天海の表情の内に雷将帝は何かを読み取ったのか、しばらくの沈黙の後で頷いた。
「よかろう。追って、辞令を出すように」
「はっ」
雷将帝はそのまま立ち上がって退出した。太后もその後について退出する。天海は、二人の気配が完全に消えたところで、ようやく身を起こした。
「やれやれ、この年になって老体に鞭打って、帝国という重病人の介護役とは……蒼羽殿もこの老人にたいそうな宿題を残してくれたわい」
天海はすでに齢六十を越え、戦傷を負ったのを良い折と、元帥辞任を考えていた所であった。
星海を養子にしたのも、引退後の暇に劉飛のような有望な息子を育ててみたいと考えたからだった。同じ元帥仲間である璋翔が、折に触れて彼の養い子である劉飛を自慢するのが、娘しかいない天海にはかなり……そう、かなり羨ましかったのだ――
そこへ、今回の事件である。
宰相の指名は雷将帝のお声掛かりだったのだが、辺りを見回しても他に適当な人材がおらず、辞退するという訳にもいかず、それなりの葛藤の後に、やむを得ず受けたものだったのだ。だが、太后の意向を考えると、なかなか骨の折れる仕事である。
「まぁ、考えても埒の開かぬことだ。いずれ時が、色々な事を解決してくれよう」
あと十年もすれば、陛下は十七――皇帝としての権力も磐石なものとなっているだろう。
そしてその頃、劉飛は二十八である――
「宰相にするには、ちょうど良い頃合いだな」
天海は自身の描いた未来図に、満足そうに頷いた。
ただこの時の天海は、雷将帝の皇帝としての唯一の欠点を知らなかった為に、大きな誤算をしてしまっていた。
前宰相蒼羽と太后が、ひた隠しにしていた事実――
雷将帝は、実は女であるという事実を。
光華帝崩御の折、皇弟であった大公の勢力を退けるために、太后がその素性を隠し、即位させたのである。いわば、雷将帝とは皇帝の資格のない皇帝であった。
河南の大公が、兄、光華帝の崩御は仕組まれたものであるといって、雷将帝の即位を認めず、乱を引き起こしたのも、あながち的外れな事ではなかったのである。