第14話 剣術道場の主
その日、星海は梗琳に連れられて、華煌京の八条大路にある剣術道場へ出かけた。
近頃、星海の聞き分けが大分良くなって、勉強時間に抜け出すという事も少なくなったので、梗琳としては至極満足している。星海が何事にも熱心なのは、ひとえに、一日も早く近衛に入り、優慶の側にいたいという、やや不純な動機によるものだった。
しかし、事情を知らない梗琳にしてみれば、彼の若い主人が日一日と目に見えて、宰相の子息らしくなっていくのがこの上もなく嬉しかった。これまで退屈で味気なかった世の中が、近頃はなんと充実している事か……彼の前方を雪妃に乗って進む星海の後ろ姿を見ながら、梗琳はそう思っていた。
「星海様、その小路を右手に……」
「あ……ああ」
梗琳が道を示したのに星海は頷いて、手綱を軽く引いた。
角を曲がりながら、星海は後ろをちらりと振り返った。ここを左に行けば、行商人達が店を広げている市場へ出る。そしてその奥に、彼を育ててくれた占い婆の店があるのだ。
「お婆……元気でやってっかな」
「何かおっしゃいましたか?」
星海がふと漏らした呟きを、梗琳が自分に言われたものかと勘違いして尋ねた。だが、星海はさりげなく話題を変えて、占い婆の事は口にしなかった。
――梗琳の目を盗んで、後でこっそりお婆に会いに来よう。
少年の心の中に、そういう不埒な考えが浮かんだからである。
「いや、俺の剣の師匠は、どんな人かなって思って」
「衛斉は剣術においては、この帝国で五の指に入ると言われる男です。以前に燎宛宮の剣術指南役の話もあったんですが、宮仕えは性に合わないと、断ったらしいですね。それで、この様な所で、道場を開いているという訳です」
「ずいぶん詳しいんだな。調べたのか?」
「調べるも何も、衛斉は、私の同郷の幼馴染みなんですよ」
「お前の?」
「ええ。気さくでいい奴です。星海様もきっと気に入られますよ」
梗琳の知り合い――という点が星海にはほんの少しだけ引っ掛かったが、それ以上は何も聞かない事にした。剣の腕が確かならば、星海には他に言う事はない。それに、梗琳のする事なら、きっと間違いはないのだろう。いつの間にか、星海の心の中には、梗琳に対する信頼感が生まれていた。
衛斉は、体格のがっしりとした偉丈夫だった。
劉飛も体格は良いほうだが、彼に比べても、衛斉は見るものに豪傑という印象を与える。それに、何しろ陽気で、豪快によく笑う。その様子に、星海はしばし圧倒された。
「その腰の剣、抜いてみろ」
衛斉に言われるままに、星海が剣を抜いて構えの姿勢を取ると、衛斉はしばしその様子を見て、おもむろに言った。
「しばらくは素振りだな。ほらっ」
衛斉は、手にしていた木刀を星海に投げてよこした。
「肘を曲げるな。腕を伸ばして……体全体を使え。掛け声は元気よく。気合いを込めるんだ。これは、相手を威嚇する為でもあるんだからな」
星海が素振りを始めると、衛斉は梗琳の方へ向き直って言った。
「剣は立派だが、構えは素人だな」
「剣術を習ったことはないらしい。でも、私の見るところでは、文官というより武官向きだと思うぞ。お館様も恐らく、そのお積もりだろう」
「お前がそう言うのなら、相当なものなのだろうな」
「頭のいい子だと思うよ。教えた事はすぐに覚える。要領も悪くないしな。お前に、武芸一般を仕込んで貰えれば、数年後には、宮廷でも見劣りのしない若君になられるだろう」
「そうなれば、教育係としては言うこと無しだな。だがな、武芸一般と言っても、弓術はやらんぞ。広陵一の名手がいるのに、私の出る幕ではないだろう」
「……昔の話だな」
「もう弓はやらんのか?お前の若様に、その技を教えて差し上げればいいだろうに」
「去年、父が亡くなった為に、私は管財人としてその後を継ぐことになって、都に戻ってきた。広陵公様が、皇帝軍に破れて河南に落ち延びられたのは、そのすぐ後だ。広陵公様をお守りするといった私の弓は、結局役に立たずじまいだった。天海様にお仕えする今、広陵公様に向ける弓は持たぬと決めたのだ。それが、私の腕を最初に認めてくれた方への、せめてものけじめだ」
「そうか。お前、広陵公様には、かわいがって頂いていたもんな……広陵公様は今、河南か……遠いな」
「ああ」
河南へ去ってしまった周翼。それを追おうとした劉飛。それに、星見の宮へ引き籠もってしまった華梨。そして、かつての主であった広陵公、楊蘭様――
内乱の度に、帝国の恵みの河であるはずの天河は、多くのものを遮る壁に……更には想い合う者たちを隔てる壁になる。あの河さえなければ……と、梗林が思ったことは一度ではない。河南公の支配下にある天河以南へは、現状、渡河が禁止されている。南へ行ってしまった者には、内乱の決着が着くまで会うことは叶わないのだ。
「私は、一度屋敷に戻らなければならないんだ。後で、また迎えに来るから、それまで星海様を頼む」
「あの年で迎えはいらんだろう。過保護すぎるのは、為にならんぞ」
「護衛ではなくてね、別の意味で、まだ目が離せないんだ」
そう言って笑った梗琳に、衛斉は訳が分かったというふうに相槌をうった。そうして梗琳は、星海を衛斉に預けて屋敷に戻っていった。
後刻――
稽古を終えた星海は、彼のお目付役が先に帰ったと聞くと、これ幸いと雪妃に飛び乗った。
「迎えに来るまで待っていろと言っていたぞ」
衛斉がそう言った時には、星海はすでに雪妃の鐙を蹴っていた。
「迷子になる年じゃないよ。この辺は、俺の庭みたいなもんなんだから」
「おいっ、ちょっ、待……」
「じゃ、お師匠様、また来ますっ。ありがとうございましたっ」
走り去る星海の姿を見ながら、衛斉は梗琳の苦労を垣間見た様な気がした。
「俺の稽古の後で、あれだけ元気があるとはな。成程、たいした奴だな」
梗琳への言い訳を考えながら、衛斉は面白そうに呟いた。
余談ではあるが、後日、星海の稽古内容が、厳しくなったのは言うまでもない。




