第11話 彼女との距離
翌日、華梨のもとへ梗琳が星海を連れてやって来た。
実のところ、梗琳は華梨とはあまり顔を会わせたくはなかったのだが、星海が、どうしても華梨に会いたいというので、梗琳は仕方なくお供してきたのである。
梗琳は昨日の優慶のお忍び騒動で、華梨に助力を請うためにここを訪れていた。その時とて、実は心情的には、かなり不本意ながらというものであったのだ。
昨日会った華梨が、初めて出会った四年前とあまり変わっていなかったこと――
加えて四年という歳月の分だけ美しくなっていた事が、梗琳の気分を更に重くしていた。
実は、華梨は梗琳が想いも告げられず終わった、片想いの相手であった。
二人が出会ってすぐに、梗琳は事情があって都を離れてしまい、その時点で彼自身、その恋に気付くこともなかったのだ。だが、離れてから、ふとした折に華梨という少女のことを思い出すことに気付き、遅ればせながら、勝手に心に宿したその少女の面影が、自分に安らぎを与えてくれるものであると気づいた。
――そう。今更ながら思う。何もかも遅すぎたのだ、と。
色恋事には疎い。その自覚はあった。だが、自分の恋に気付かないにも程があるだろうと思う。次に会うことがあったら、今度こそ間違えないように、きちんと思いを告げよう。そう思っていた。だが、次などなかったのだ。
去年、梗琳が再び都に戻った時には、華梨は宰相の息女となっており、皇帝の側に仕える女官になっていた。もう、梗琳などが、簡単に声を掛けられる人ではなかった。
更に、彼女には周翼という許嫁もいると知って、梗琳にとって彼女は、すでに遠くから見ているだけの存在になった。淡い恋の思い出は、誰に知られる事も無く、彼の中に美しい思い出として封印された。
世の中、出会った者が全て幸せに結ばれる訳ではないのだ。時には手の届かない恋もある。いやむしろ、叶わぬ恋の方が多い筈だ。だから、気に病む程のことではないと……そう思い切ったのだ。思い切ったのに――
星海が来てから、何かと華梨に会う用が出来る。
それは、彼にとっては、本当に本当に皮肉な巡り合わせだった。
二人が訪れた華梨の部屋は、昨日の今日の事であるのに、部屋の様子が一変していた。その室内はきれいに片付けられて、少ない調度品が部屋の隅にまとめられていたのだ。
――これは一体……
「もう、ここへはいらっしゃらないかと思ってましたわ」
愛想の良い顔でそう言う華梨と、その表情に戸惑ってしまう梗琳の関係は、四年前と変わっていない。一度失恋した相手に、また恋をするなど……馬鹿馬鹿しいにも程がある。梗琳は自分の心に、何度もそう言い聞かせていた。
「今日は星海様のお供ですから。私事ではありません。それより、お引っ越しですか?」
梗琳は部屋を見渡しながら、平静を装って尋ねた。
「陛下のお許しが出ましたので、星見の宮へ戻りますの」
二人に椅子を勧めながら、華梨がにこやかにそう言った。
梗琳の心中を知ってか知らずか、華梨は以前と変わらない親しげな笑顔を見せる。普通、貴族階級の女性が人前で笑うのは、あまり品の良いものだとされていない。しかし彼女は、宰相の娘らしからぬと陰口を言われながらも、快活でよく笑う少女であった。
「……あの様な所へ?」
星見の宮とは、皇帝に仕える星見の詰めている宮である。国家事業の吉凶を占う星見という存在は、神の声を聞くという立場上、純潔の女性に限られており、基本、宮に仕えたら俗世から隔離され、死ぬまで外には出ない神聖な存在とされている。
「父が宰相にならなければ、私は陛下に星見としてお仕えするはずでしたのよ」
「しかし、今更、星見になられる訳ではないのでしょう?」
「ええ。陛下は渋っておいででしたけど、無理を言って、しばらくお暇を頂いたの。……少し、一人で静かに考え事がしたくって。これからの事を……」
「これからの?」
「私は何をするべきなのかって……という辺りのことをね」
その瞳の強さに、梗琳は感服させられる。この人は、まだ何も諦めていない。家族や恋人と突然に別離し、名誉も身分も何もかも失ったというのに。
「……強いな」
「え?」
思わず口から零れた呟きに、華梨が怪訝な顔をする。
――変わらずに、強くて美しい、高嶺の花だ。私などにはとても手の届かない……
「いえ……独り言です」
「そう?」
今ここで、何もかもを失って弱っている彼女に思いを告げたら……と、考えなかった訳ではない。もしかしたら、今なら自分の隣に彼女をとどめて置けるのではないかと。だが違うのだ。彼女は……翼を休めることなど考えもせずに、もう次に飛び立つ先を探しているのだから。
「さて、星海様。宰相閣下のご子息が、私の様な者にどんな御用でしょう?」
「実は、華梨様に八卦を……教えてほしくって」
星海が、華梨の反応を伺うように言った。
「まぁ。私は八卦師ではございませんと、そう申しましたでしょう?」
「それは、そうですけど。でも……」
「それに、武家の御方が八卦を覚えられるのは、あまり感心いたしませんわ。武芸を習うのとは訳が違いますもの」
「でも、俺は。強くなりたいんだ」
星海の言い様に、華梨の表情が少し険しくなった。
「何か思い違いをなさっていますね。八卦師とは影の世界に住むもの。術を用いて敵を討ち取るなど、武人として恥ずべき事です。そんな抜け道に目をやらずに、真っすぐ武芸の鍛練でもなさいませ」
「勿論そっちもやるよ。でもそれだけじゃ、あの方を守れないんだ」
「あの方……?」
華梨が卓上に身を乗り出して星海の瞳を覗きこむ。その鋭い視線に、星海が余計な事を言ったという表情をして、慌てて顔を背けた。だが、そのほんの僅かの間に華梨は全てを察した。
「お邪魔致しました。他を当たります」
まるで心の中を覗き込まれるような居たたまれなさから、星海が立ち上がった。
「お待ちなさい」
だが、自分を引き留めた華梨の語気の強さに驚いて、星海はその場に立ち尽くしてしまった。
「影の技を使えば、それなりのツケを払わなければならないわ。人間の持つ力には、限度というものがあるの。それを越える力を持てば、体力や精神力を通常の人より早く消耗することになるわ……術者が短命なのはご存じね」
「知ってます……それでも、自分で守るって決めたものを守るためにそれが必要なら、どんなに危険でも逃げる訳にはいかないでしょう」
華梨の刺すような鋭い視線を、今度は正面で受け止めて、星海が吐き出すように言った。少年の真っ直ぐな瞳に込められた思いに、華梨の心が動かされる。やがて、華梨がふと口元に笑みを宿し、その場の緊張が解かれた。
「……分かったわ。私は術者ではないから、あなたに手解きをしてあげる事は出来ないけれど、良い導師をご紹介しましょう」
「本当ですか、華梨様?あ、ありがとうございますっ」
「かんばりなさい。あの御方には敵が多いわ。しっかりお守りしなさい」
「はい」
「後程、こちらからご連絡します。今日はお帰りなさい。それから、梗琳様。あなたに少しお話があるのですけど……」
「私に?」
梗琳は訝し気な顔をしたが、星海に宰相の所へ先に行っているように言って、星海が出ていったのを確認してから、華梨のほうに向き直った。




