第9話 結界を越えて
「……あ……れ?」
数回の瞬きの後、星海は上半身を起こして辺りを見回した。
周囲は一面の砂漠だった。見渡す限りの砂地である。先刻の万華鏡の様な不思議な光景を思い浮かべて、星海は自分が何処に居るのか思い当たった。
「……幻鏡術の結界を、越えちゃったのか……」
「ここは?」
優慶が身を起こした。
星海は自分の手が優慶の腰に掛かっているのに気が付いて、慌てて手を退かす。
「結界の中……みたいです」
答えながら、星海は自分の上に乗っかった格好になっている優慶を急に意識した。だが、優慶のほうは無邪気なもので、きょろきょろと周囲を見回している。その優慶が、何かを見つけたようにして視線を止めた。
「優慶様?」
星海はその視線を追って、肩越しに後方を振り向いた。
太陽を背にして、そこに一人の男が立っていた。
「劉飛っ!」
優慶がそう叫んで、その人物に飛び付いた。
「……兄さん」
その姿を見つけた途端、星海は言いようのない安堵感に包まれ、同時に全身の力が抜けていくような気がして、そのまま砂の上に仰向けに転がった。
「……陛下。何故この様な所に。それに、星海。お前まで……」
困惑した表情のまま、劉飛は優慶を抱き上げる。
「劉飛、劉飛っ。何故……河南へなど。お前まで、この私を見捨てると言うのか?」
「陛下?」
「私に悪いところがあるなら、直すぞ。お前が望むのなら、地位でも名誉でも何でもやる。もう母上には、何も言わせぬ。言ってくれ。私はどうすればいい?どうすれば、お前は私の元に留まってくれるのだ?」
優慶は劉飛の首に手を回してしがみ付いた格好のまま一息にそう言うと、こみ上げて来るものを我慢できずに、その顔を劉飛の肩に埋めた。押し付けられた肩が涙で濡れるのを感じて、劉飛はますます困惑する。
当たり前のことだが、優慶は彼の前では、常に間違いなく皇帝という存在だったのだ。勿論、まだ七つであるから、子供っぽい部分もなくはなかった。でも、こんな風に感情を露わにすることなど、これまで一度たりともなかったのだ。今の優慶は皇帝ではなく、ただの七才の少女であった。
「陛下、どうかお気をお鎮め下さい」
優慶を立たせて、涙で濡れた顔をそっと拭ってやると、劉飛はその場に跪いて頭を垂れた。そして、腰の剣を鞘ごと抜き取ると、それを優慶に差し出した。
「陛下。私は何処にも参りません。この剣にかけて、誓った忠誠に嘘はございません」
「では……私と一緒に、都に戻ってくれるのか?」
「御意。以前にもお約束いたしましたでしょう?何があっても、私はずっと、陛下の御元におりますと。戦に出ても、私の戻る場所は陛下の元より他にはございません。それは、これまでも、これからも、ずっと変わらぬ事にございます」
その言葉を聞いて、優慶が今度は嬉しそうに劉飛の首に抱き付いた。
「劉飛……もう何処にも……行くな」
「はい。いつまでも、陛下のお側に」
小さな皇帝をそっと抱き寄せながら、劉飛は遠い空の下にいる周翼の面影に別れを告げた。
劉飛には、あの燎宛宮という暗闇の中に雷将帝を一人置き去りにすることは出来なかった。
後に置いていかれる者の気持ちがどういうものか、彼にはもう十分すぎるほど分かっていたのだから……
三人を取り囲むように、砂漠に幾つかの小山が出来た。
それに気付いた劉飛が肩をすくめる。
「また来やがった。全く、あの八卦師め。よくも、こう次々と楽しませてくれる」
「劉飛兄さん?」
「気をつけろ、星海。陛下も、私の側を離れませぬように。今度の邪気はかなり大きい」
劉飛が剣を抜いた。
砂の山が大きく脹らんでいく――
その山の中から、竜が姿を現わした。
「今度は、砂竜か」
「あれって……」
「結界の魔物だ。五頭か……数が多いな。まともに闘ったんじゃ……」
「来た」
竜がその長い首を、三人のいる場所へ容赦なく突っ込んで来た。
どんっ、という重たい音と共に砂ぼこりが盛大に舞い上がった。
優慶を抱き抱えて、劉飛は後ろに飛んでいた。星海もそれに続いたが、竜の直撃は避けたものの、大量の砂をかぶって激しく咳こんた。
「大丈夫か?星海」
劉飛の問い掛けに、星海は頷いたものの、さすがにすぐには声も出せない。優慶もしたたか埃を吸い込んでしまったようで、むせ返っている。竜は何事もないように、また悠然と首を起こしていた。彼らの回りでは、他の竜達が攻撃を仕掛ける隙を伺っている。
「このまま逃げ続けても、埒が明かないしな……さて、どうしたものかな」
「兄さん、それ」
「え?」
「その、腰の袋……」
星海に言われるままに、劉飛が自分の腰に目をやると、そこに下がっている小さな皮袋の口が、僅かに開いていた。その中から金色の光が漏れ出ている。
袋を開けて、劉飛が中のものを取り出すのを、星海は興味深そうに見守った。
「それって、あの時の封魔球?」
「ああ、燎宛宮で捕まえた羅刹を、この中に封じ込めてあるんだよ」
「……って、兄さん。それ、使えないかな。占い婆に聞いたことがある。封魔球で捕まえた魔物は、術者の下僕になるって」
「周翼はそんな事、ひとっ言も言ってなかったぞ。ただ、魔除けのお守りになるから、持ってるといいって……」
「その球、初めからそんな色だったか?」
二人のやりとりを聞いていた優慶が、口を挟んだ。
「いえ……前に見た時は、確か黒かったかと」
「中の魔物の気で、封魔球の色は変化するのだと聞いたことがある。球に封じられた魔物は、死んだのではなく眠っているだけで、その主の召喚に従い目を覚ますのだと。燎宛宮の八卦師もそのような事を言っていた」
「魔物には魔物か」
もしもこの中の羅刹が、言う事を聞いてくれるのなら、勝機はある。ただ、解き放った羅刹が彼の命令を聞かなければ、それまでであるが。
「だめで、もともとっ」
劉飛は剣を鞘に収めると、右手に金の光を放っている封魔球を乗せ、頭上に掲げた。心を落ち着けて、神経をそこに集中する。
「……我が封魔球に宿りしもの、汝が名を呼ぶ者の召喚に従い、目を覚ませ……目覚めよ、蓬莱っ!」
劉飛の言葉が終わると同時に、金色の光が強さを増して膨れ上がって弾け、砂上に落ちた。そこに光の柱が伸びたと思ったら、それはすぐに人の形に変化していく。程なく、光の中から羅刹の娘――蓬莱が姿を見せた。
金色の髪に、緋色の瞳――
蓬莱は艶やかな赤い唇の端を少しだけ上げて、劉飛に向かって艶然と微笑みかけた。
「普通の魔物は、あんな呼び出し文句じゃ、出て来ないんやけどな……特別やで」
「……そりゃ、どうも」
劉飛が蓬莱に会うのはこれで二度目だったが、まだ彼女をよく見慣れないためか、その出で立ちにいささか圧倒された。
「名前ちゃんと覚えててくれたから、おまけや。で?最初の願い事は何や?願いは全部で108つ。大事にお使い」
「108つ?」
「何や、知らんのかいな。封魔球に引っ掛かった魔物は、ご主人様に108回ご奉仕する。それが済むまでは、ずっとあの狭い球の中にいなきゃならないんやで。まあ、あんたがご主人様なら、ずっと封魔球に住んどっても、ええなぁ。んふふ」
意味ありげに笑った蓬莱に、劉飛は何気なく目を反らした。
「蓬莱。最初のお願いだけど……」
「はいな」
――別の意味で、何かを失敗した様な気がする。
平静を装って蓬莱に命じながら、劉飛は内心で頭を抱えていた。




