突然の来客としましまの猫 下
もちろん、大さんの尻尾が二本に分かれているところを見たいわけじゃない。
見てしまったら、怖くて一緒にいられなくなる。だから見たくなかったが、大さんの猫としての変わり者っぷりがあまりにも凄すぎるせいで、臆病で小心者な俺はどうしても不安になって確認せずにはいられなかったのだ。
確認する度、ちゃんと一本しかないふっさふさなしましま尻尾に心から安堵して、温かな大さんのふかふかの毛を撫でてからまた寄り添って一緒に眠ったものだ。
◇ ◆ ◇
大さんと出会ったときの俺は、両親を失った直後で人生最悪の状態だった。ぶっちゃけ、棺桶に片足を突っ込んでいた。
考えてもみて欲しい。常に母親のスカートの後ろに隠れているような臆病な子供が、いきなり両親を同時に失ったのだ。普通でいられるわけがない。
俺は両親がいきなり奪われたことを悲しみ嘆き、両親をいきなり奪った『死』に怯えていた。
――そりゃ誰だっていつかは死ぬさ。でもよぉ、いくらなんでも死ぬには早すぎるだろうが!
俺の頭の中では、通夜の席で聞いた父の友人の叫び声が何度も何度もこだましていた。
――誰だっていつかは死ぬ? じゃあ僕も?
その瞬間、『死』は俺の中で最悪の魔物になった。産まれた時からずっとすぐ側にいて、隙をついて命を刈り取りにくる、目には見えない恐ろしい魔物。絶対に逃れられない恐ろしい魔物だ。
母親のスカートの影という安全地帯を無くしてしまった俺には、もはや逃げ場は無い。怖くて怖くてたまらなかった。
両親の葬式の直後、田舎の祖父母の家に引き取られたが、恐怖は去らなかった。
そもそも、その当時の俺は、年に一度会うかどうかの祖父母にはまったく懐いていなかった。
それまで暮らしていたのが、東京の真新しいマンションだったのもまずかった。白くピカピカした綺麗な建物になれていた俺は、祖父母が暮らすある意味贅沢な和風建築には馴染めなかった。
木で作られた家はマンションと比べると、どうしても暗く薄汚れて見える。薄暗い部屋の隅に、なにかがいるような気がして怖くてしかたなかった。
すっかり馴れた今では開放的で好ましい縁側でさえも、白い壁に覆われた部屋で暮らしていた俺にとっては恐怖の対象だった。なぜそこを完全に開け放っているのか。開け放った広い縁側から、怖いものが家に入ってきたらどうするのか……。
最高潮に怯えていたそのとき、それは起きた。
――ブッブブブ。
俺の耳元のすぐ側を、縁側から入り込んだ小さな羽虫がかすめ飛んでいったのだ。
その瞬間、俺の中でなにかがプツッと切れる音がした。
ぞわっと、生理的な恐怖で全身に鳥肌が立つ。もはや羽虫を追い払うことさえできず、俺はその場で頭を抱えて丸くなって泣きじゃくった。
羽虫だけじゃない。変わってしまった周囲の状況も優しくしてくれる祖父母でさえも、なにもかもが怖くて怖くてしかたなかった。
いま俺がこんなに怖い目にあっているのは、『死』が俺から大事なものを奪っていったからだ。そして『死』は、いまもここに、俺のすぐ側にいる。
――こわいこわいこわいこわいこわい……。
もうなにも聞きたくないし見たくない。俺は頭を抱えてうずくまったまま、泣きじゃくった。
祖父母は泣きじゃくる俺をなんとか宥めようとしたようだが、俺はテコでも泣き止まなかった。泣き続けて二時間も過ぎると、さすがの祖父母も心配になったのだろう。頭をがっちりと抱えて丸くなったまま動こうとしない俺を、そのままの状態でふたりがかりで抱きかかえ医者に連れて行った。両親の死後、ろくに食事もとれない状態だったから体力的にも限界だったのだと思う。病院で打たれた点滴に鎮静剤でも入っていたのか、そこで俺の記憶はいったん途切れる。
目覚めたら、祖父母の家に戻ってきていた。
薬の影響からか俺はぼんやりしていた。もう夜になっていたようで、部屋の隅にある行灯風のルームライトが仄明るく周囲を映し出している。
布団の上に寝かされていた俺は、ふと左腕になにかふわふわしたものが触れていることに気づいた。俺を宥めるために使っていたぬいぐるみだろうかと、そちらに顔を動かし目線を向けて、そのまま固まった。
目の前に、普通の猫の三倍はあろうかという巨大な猫がいたからだ。
――ば、化け猫だ。
猫は俺が目覚めたことに気づくと、のそっと起き上がって俺の顔を覗き込んできた。
――なー。
小さな声で鳴いて、べろっと大きな舌で俺の頬を舐める。
――ひっ!!
味見された! 食われる! そう思った。
バリバリと頭から囓られて、そして俺は死ぬんだろう。
『死』は怖い。でも、もう逃げられない。死んだら、きっと両親に会える。それなら、いいか。
俺はすさまじい恐怖の中で、ほんの少しの希望を感じながら、ふっと気を失った。
が、しかし。
――……あれ? 僕、死んでない。
次に目覚めたとき、俺は自分が生きていることに驚き、そして、ほっとした。
両親に会えなかったのは残念だけど、それでもやっぱり『死』は怖い。『死』から逃れられてよかったと思う。
そしてふと、左腕にふわふわして温かなものが触れていることに気づいた。
化け猫はまだここにいるようだ。どうしたわけか、俺を食わなかったらしい。
恐怖に固まったまま、恐る恐る視線を向けると、こちらを見ている化け猫と目があった。
仄明るい部屋の中、猫の瞳孔は完全に開いていて、真っ黒な瞳はつぶらでまん丸だった。毛並みは茶トラで、鼻はピンク。丸顔で、長毛種らしく頬の毛がふさふさしていて、可愛かった。
そう、化け猫は物凄く可愛かった。
サイズさえ普通なら、なんの問題もない可愛い茶トラの猫だった。だが、とにかくでかい。太っているわけじゃなく、でかいのだ。頭の大きさなど普通の猫の二倍以上ある。いっそ、大きな猫のぬいぐるみだと思い込みたいぐらいだったが、左腕からじわっと伝わってくる温もりが、化け猫が生き物だと教えていた。
――……おまえ、ただ、大きい猫なの? そういう種類なの? 化け猫じゃないの?
――なー。
恐る恐る聞いた俺に、猫は鳴いて答えた。
それを勝手に肯定と捉えて、俺はやっと心からほっとした。
――そっか。ただの猫なんだね。よかった。
恐る恐るふかふかの毛並みを撫でてみる。猫はただじっとしたまま動かず、小首を傾げるようにして黒いまん丸な目で俺を見つめている。猫の毛は柔らかくて、すごく手触りがいい。
恥ずかしながら、この当時の俺はまだ両親に添い寝してもらっていた。そのせいもあって、両親の死後、ろくに眠れない日を過ごしていたのだ。
すっかり安心した俺は、寄りそう大きな猫の温もりにふわふわとした眠気を覚えていた。
――おっきい猫ちゃん、僕が寝てる間、ずっとここにいてくれる?
――なー。
――……ありがと。
勝手に猫の言葉を解釈して、寝返りを打って猫に寄りそうと顔をその毛に埋めるようにして目を閉じた。
その日俺は、両親の死後、はじめて安心して自然な眠りにつけた。
その大きな猫が、大さんだった。
大さんはその後、ずっと俺の側にいた。
祖父母が相次いで亡くなったとき、まだ高校生だった俺に代わって葬儀を取り仕切って支えてくれたのは、祖父の友人達だった。葬儀の間、ずっと側にいて言葉に詰まる俺をフォローしてくれたのは幼馴染み達だ。だが、俺がなんとか人前で取り乱すことなく葬儀を終えられたのは、大さんのお陰だ。
家に帰ってもひとりじゃない。俺には、まだ大さんがいるという安心感があったからなんとか自分を支えていられた。
だが、その大さんも祖母の死後、一ヶ月ほどで姿を消した。
猫は死期が迫ると姿を消すという。
俺が祖父母の家に引き取られて十一年経つ。大さんはそれよりずっと前から飼われていたそうだから、さすがに寿命だったのだろう。
大さんの死には後悔ばかりが残っている。
大さんが姿を消したとき、俺は半狂乱になって大さんの姿を求めて近所を捜しまくった。探して探して、どうしても見つからなくて、このままじゃお前が病気になっちまうと源爺達に諫められて探すのを諦めた。
だが、そこで諦めずにもっともっと捜すべきだったんじゃないか?
あともう一日長く捜していたら、大さんを見つけることができていたかもしれない。あともう一本先の道まで捜しにいっていたら、なにかのトラブルで動けなくなっている大さんを見つけることができていたかもしれない。もう少しだけ立ち止まって耳をすませていたら、大さんの呼ぶ声が聞こえたかもしれない。
もしかしたら大さんは、俺の助けを待っていたかもしれない。もしかしたら、助けることができたかもしれない。
そんな後悔が、次から次へととめどなく湧いてきて、俺を苦しめた。
喪の儀式というやつは大事だと思う。両親や祖父母のときはちゃんと葬式をしたから、その死を自分の中で納得させることができた。だが、大さんのときはそれがなかった。だから俺は、ずっと大さんの死に踏ん切りをつけられずにいて、その死をただ悲しむこともできず後悔ばかりを抱いている。
大さんのことを思い出すと、重い後悔で苦しくなるから、極力思い出さないようにしているぐらいだ。
あんなに世話になったのに、我ながら恩知らずな話だ。
◇ ◆ ◇
――猫は俺より先に死ぬからもう飼わない。
なんてことをいうと、きっとこの四人は揃って悲しそうな顔をするだろう。だから俺は、違う言い訳を考えた。
「それに猫はあちこち勝手に爪研ぎするだろ? 祖父ちゃんが残したこの家、今じゃもう手に入らない木材とか使われてるし、余計な傷はつけたくない。大事にしたいんだ。だから猫は飼わない」
さあこれでどうだと威張る俺に、源爺がほっとしたように言った。
「それなら大丈夫だな」
「ええ、してはいけない場所で爪研ぎなんてしないもの」
「これで決まりだな」
「そうね」
「いやいや、決まってないから」
慌てて否定したが、四人は聞き入れない。
俺が拒否しているにも拘わらず、勝手に猫を飼う話が決まっていて、乾杯までされてしまった。
「じゃ、後はよろしくな」
「ちゃんと面倒みてあげるのよ」
「面倒見てもらうの間違いじゃねぇか」
「そうかもしれないわねぇ」
「なにがよろしくだよ。俺は猫なんか飼わないからな!」
仕事帰りの堅司の父親がワンボックスカーで迎えに来てくれて、四人は来たとき同様賑やかに帰っていった。
門のところで彼らを見送った俺は、縁側ばかりじゃなくこっちもたまに使ってやらなきゃなと、鍵を開けて玄関の扉を開けた。
来客の賑やかさが消え、急にシンと静かになった家の空気に、ふと溜め息が零れる。
「ずっとひとりなら別に淋しいとか思わないんだけどなぁ」
俺だって大人になったのだ。防風林の間を抜けていく甲高い風の音や灯りが届かない木造建築の天井の四隅に怯えたりはもうしない。
だが、急にひとりになったときの、このシンとした冷たい空気はこたえる。
今の俺が一番怖いもの。それは孤独だ。
「……猫かぁ」
猫が一匹でもいればこの淋しさも少しはマシになるだろうか?
そんなことを考えながら家の中に入り、茶の間に通じる障子を開ける。
と、そこに、猫がいた。
ちょこんと前足を揃えて行儀よく座っている、有り得ないほど大きな茶トラの猫が、つぶらなまん丸の目で俺を見ている。
「……大さん?」
「なー」
有り得ないと思いつつ、おそるおそる名前を呼ぶと、大きな猫は嬉しそうにふっさふさのしましま尻尾をばっさばっさと振った。
犬みたいなその仕草も、大さんによく似ている。
さて、今の『なー』は、『そうだよ』と言っているのか、それとも『違うよ』と言っているのか。
どう解釈したらいいんだろう?
この難しい問題に、俺は頭を抱えた。
GW中は更新が不定期になるかもしれません。よろしくおねがいします。