男は女の本当の想いを知る
部屋に戻ってからも、ナッチはごめんねごめんねと、ぐずぐず泣いていた。
なんで謝るんだ?
お互いに想い合っていたことを確かめて、これでハッピーエンドなんじゃないのか?
混乱しつつも、濡れタオルでナッチの涙と汗を拭いて水も飲ませてやってから、なぜ謝るのかを聞いてみた。
「だ、だってあたし、カッチのこと大好きで、愛してるけど、ずっと一緒にはいられないもの」
ナッチはぐずぐず泣きながら、その理由を話してくれた。
◇ ◆ ◇
話は三年前に遡る。
オーストリアでの仕事が決まったナッチは、実家にしばらく日本を留守にすると報告に行った。
そして、そこで歳の離れた兄に聞かれたのだ。
「海外に行くこと、勝矢くんにはちゃんと話したんだろうな?」
「まだ話してない。そうだね。パスポートの期限切れてたらまずいし、早めに話さなきゃ駄目だね」
「……まさか、勝矢くんに現地まで見送りさせるつもりか?」
「ううん。見送りじゃなく、一緒に向こうに行くつもり」
「一緒って……。なんだそれ?」
本当に、なんだそれ? だ。
なんとナッチは、三年前、本気で俺と一緒にオーストリアに行くつもりでいたらしい。
学生時代からどこに行くにも俺とナッチは一緒だった。
腕をちょっと引っ張って俺にお願いすれば、いつでもどんなところにでも付いてきてくれたから、その時も当然俺が一緒に来てくれると思い込んでいたのだとか……。
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ!! 勝矢くんにも仕事があるんだぞ。今まで築き上げてきたものを、お前の我が儘ですべて捨てさせるつもりか!」
ナッチの兄は、そりゃもう怒ったのだそうだ。
俺と同じサラリーマン仲間だったから、簡単に会社を辞められると思っているナッチにカチンときたのかも知れない。
いつもは仲良し兄妹なのに、この時はかなり強く叱られたようだ。
「とにかく、ちゃんと勝矢くんと話し合え。お前の我が儘で勝手に決めるんじゃない」
「……わかった」
いつにない兄の剣幕に、さすがのナッチも素直に頷き、そして真面目に考えた。
その頃、俺は竜也のサポートもあって、面白い仕事に恵まれるようになっていた。
毎日充実した生活を送っていることをナッチも気づいていて、兄に指摘されて改めて考えてみれば、確かに仕事を辞めさせてまで自分に同行してもらうのはいけないことのような気がしてきたそうだ。
だからと行って、オーストリアでの仕事を放り出すなんて出来ない。
その時のナッチにとっては、その仕事が一番にやりたいことだったから……。
なにしろナッチは、ただまっすぐ自分の気持ちの赴くままに進んで行く女なのだ。
どうしようかとナッチらしくもなく迷っている間に、ずるずると時間は過ぎていく。
そして、あの日、ナッチは俺にプロポーズされた。
――ナッチ、これからもずっとこうしてふたり一緒に誕生日を祝おうな。結婚してくれ。
――無理。
ナッチは、このプロポーズで、俺と一緒に居ることを諦めたのだそうだ。
……今も、諦めているのだそうだ。
◇ ◆ ◇
「なんでそうなるんだ?」
訳がわからない。
ナッチの思考は単純だ。
直感で感じたままに突き進む。
停滞はあっても迷走はない。
だから、その時のこの決断にもそれなりの理由がある筈だった。
「だって、カッチ、淋しいのは嫌でしょ?」
家族を失ってひとりきりになった俺が孤独を恐れていたことを、ナッチは誰よりもよく知っていた。
だからこそ、ずっと一緒に誕生日を祝おうと言われて、ああ、これは無理だと悟ってしまったのだそうだ。
「あたし、自分を止められないもの……。だから、カッチとは結婚できないよ」
即断即決即実行、人生急ブレーキ急ハンドルが当たり前。
ナッチは、そんな自分をよく知っていた。
俺のプロポーズを受けたとしても、ずっと一緒にいるとは約束できない。
三年前のように、興味を引かれるものを見つけて、どうしても旅立ちたくなってしまうかもしれない。
そして俺に、ひとりで淋しい思いをさせてしまうかもしれない。
それぐらいだったら、自分と別れて、ずっと一緒にいてくれる人を新しく見つけたほうが俺の為なのかもしれない。
ナッチはそう考えたのだ。
「あたし、カッチが大好きだから、カッチには幸せになって欲しかったの。カッチは優しいから、きっとすぐにいい人を見つけるだろうと思ったし……」
――元気で。カッチ、幸せになってね。
だからナッチは、そんな言葉を残して三年前に俺の元から去って行ったのだ。
ちなみに、三日後に出国するというのは嘘で、実際はまだ一ヶ月以上猶予があったらしい。
すぐに動かなければきっと別れられなくなるからと、急いで引っ越しを決行したのだとか。
だが待ってくれ。
俺の為だったのだと言われて、はいそうですかと納得できるはずがない。
「俺の気持ちは? ナッチを愛してる俺の気持ちはどうなるんだ?」
「……カッチは優しいから、あたしの我が儘につき合ってくれてるんだと思ってたの」
ナッチに強引に迫られ、押し倒されるように関係を持って、気が付いたら同居していた。
そんなはじまりだったから、ナッチは俺がその延長上でずるずると一緒にいてくれるんだろうと思っていたらしい。
――愛だね。
――うん、愛だな。
ことあるごとに繰り返してきたこの言葉は、やっぱりただの合い言葉になってしまっていた。
ぜんぜんナッチに伝わってなかった。
俺も祖父と一緒か。
全身で愛してくれる人に甘えて、ちゃんと自分の想いを伝えきれていなかった。
でもなぁ、優しいのひと言では説明しきれないぐらいには、ナッチに尽くしてきたつもりだったのになあ。
意外にナッチは、恋愛的な意味では自己評価が低いんだろうか?
こういうの、今後の為にも、ちゃんと覚えておかないと……。
「なのに……帰国してみたら、カッチまだひとりだったし……真希ちゃんは、カッチがまだあたしのこと想ってくれてるって言うし……」
それなら、会いに行きたい。
でも会ってしまって、また自分の我が儘につき合わせてしまったら、俺の人生を狂わせてしまうことになる。
結婚することもできないのに、一緒にいたいなんて我が儘をいうことはできない。
帰国してからは、ずっとそんな風に悩んでいたらしい。
「でも、この指輪……欲しい。あたしのなんだよね? 結婚できなくても返さなくていいんだよね?」
ナッチは絶対に返さないと、両手で指輪の箱を握りしめている。
ぎゅうっと握りしめた指が白くなっていた。
「ナッチは、馬鹿だなあ」
俺はそんなナッチの身体に両腕を巻き付けて、ゆらゆらとあやすように揺らした。
俺も今まで、馬鹿だ馬鹿だと色んな人達に言われてきたが、馬鹿だと言った人達の気持ちが少しわかったような気がした。
しょうがない奴だと呆れても見捨てることなんてできなくて、その馬鹿さ加減をなんとかしてやりたくなってしまう。
そんな気持ちで告げられた馬鹿は、どこか優しい響きが籠もっていた。
……もちろん、ただ貶されただけの馬鹿もあったけどな。
「ずっと愛してるって言っただろ? これからもずっとだ」
「で、でも、あたし、またいきなりどっか行きたくなるかも……」
「うん、そういうこともあるだろうな」
そこはわかってる。
なにしろ、ナッチだし。
「その時は、ナッチが帰ってくるまでずっと待つさ」
すんなり、そんな言葉が口から出た。
三年前だったら、きっと躊躇っていただろう。
でも、今は違う。
俺だって馬鹿は馬鹿なりに色々あって、それなりに学習したのだ。
待つのは淋しいかもしれないが、今の俺ならきっと待てる。
この三年、一切連絡を絶ってても気持ちは変わらなかったのだ。
電話もラインも出来る今ならもっと大丈夫。
大さんもいるしな。
「会社勤めじゃなくなったから時間の都合もつきやすいし、少しの間なら同行だって出来るぞ。子供が出来ても俺が子育てしてやるから、ナッチは好きなことしてていいしさ。田舎の家の祖父ちゃんの離れだって、ナッチの仕事場にするために手つかずで空けてあるんだ。――だからさ、結婚しよう」
「あ、あたしでいいの? 我が儘だし、自分勝手だし、家事なんにもできないしぃ……」
「いいよ。全部ひっくるめてナッチだからな。俺はナッチがいい」
ゆらゆらと揺らしながら、ナッチの汗ばんだつむじにキスをした。
「あ、あたしも、カッチがいい! 結婚する!」
ナッチは俺の胸にぎゅうっと顔を押しつけて、ワンワン泣いた。
「ナッチ、ありがとう。……嬉しいよ」
これで、やっと俺にもまた家族ができる。
愛した女と一緒の人生を送れる。
なんて幸せなんだろう。
俺はナッチをゆらゆら揺らして、顎や頬でナッチの髪の感触を確かめなから少しだけ泣いた。
今までの人生で一番幸せな夜を過ごした翌朝、俺はいつもの習慣通りの時間に目を覚ました。
昨日の食材の残りで、なにか軽くナッチに朝食を作ってやろうと、幸せそうな顔で眠るナッチを起こさないよう、そっと布団から出る。
フローリングの床に立ち、狭い寝床で少しだけ強ばった身体をうーんと伸ばして、まず顔を洗う。
その後、まだぐっすり眠ってるナッチのほうに光が行かないよう、少しだけカーテンを開けた。
「……これって」
カーテンに隠れていた出窓部分に、綺麗な器に入れられて石が飾られていた。
三年前の別れ際、俺が餞別に渡したトルコ石だ。
殺風景な部屋の中、たったひとつ飾られていた石にナッチの想いを感じる。
――これって愛だよな?
ナッチが起きたら、そう聞こう。
きっと俺達だけの合い言葉が返ってくる。
なんて幸せなんだろう。
俺はトルコ石を手に、朝からまた少し泣いた。
……本当に少しだけだぞ。