引っ越し蕎麦は懐かしい味 4
大まかな引っ越し作業が終わり空が茜色に染まる頃、家の前で車が停まる音が聞こえてきた。
「堅司が来たみたい。ちょうどいいタイミングね」
「そういえば真希はどうやってここまで来たんだ。車の音しなかったよな」
「自転車よ。引越祝いの乾杯がしたかったからね。帰りは自転車を堅司の車に積めば、一緒に帰れるでしょ?」
「……乾杯って、堅司は?」
「烏龍茶でいいでしょ。妊娠授乳中はお酒飲めなかったんだから、我慢したその分、いま飲ませてもらわなくっちゃね」
「堅司、尻に敷かれてんなあ」
ちょっと気の毒だ。
エンジン音が止まってしばらくすると、堅司が縁側から顔を出した。
「手伝うことあるか?」
「あるよ。書斎の飾り棚と机、それとキッチンのテーブルの移動を頼む。一人じゃ難しくてさ」
「まかせろ」
堅司はのっそりと縁側から家に上がり込むと、二人でやるつもりの作業を、さっさとひとりでやってしまう。
Tシャツの袖からのぞく腕は見事にむきむきで、さすが石屋の若旦那ってかんじだ。基本デスクワークだった俺とでは身体の厚みからして違う。
「ここでいいのか?」
「うん。ばっちり」
書斎の家具移動を終えた後、堅司は不意にすんすんと鼻をならした。
「なんか匂うのか?」
「いや、匂わないんだ。勝矢、石どこやった?」
「石? ブラックオニキスのキーホルダーなら、家の鍵つけてテレビ台の上に置いてあるけど」
石って匂うっけ? と奇妙に思いつつ答えると、そっちじゃないと言われた。
「おまえが上京するときに渡したほうだ。あれの匂いがしない」
「ああ、あれか……。あれなら、ナッチにやった」
進学で地元を離れるとき、お守りだと堅司から貰ったのは、子供の拳ほどの大きさのトルコ石の原石だ。
ちょうどいい大きさだったから、開いたノートや本が閉じないよう文鎮がわりに使っていたのだが、ナッチからそれもパワーストーンだと教えてもらった。
――トルコ石は、ターコイズっていう風にも呼ばれるんだよ。危険や邪悪なエネルギーから持ち主を守る魔除けのお守りにもなるの。別名、旅人の石とも言うね。
かつてトルコの隊商が旅に出るときにお守りとして持っていたそうで、今でも旅先の安全を守る石と言われているのだそうだ。
プロポーズを断ったナッチが俺から去って行くとき、状況の変化についていけずにいたものの、ふとそれを思い出した。俺が持っているよりも、産まれた国を離れることになるナッチが持っていたほうがいいような気がして、餞別として渡してしまったのだ。
「……まずかったか?」
「いや、いい。おまえはもう帰ってきたんだし、旅先の夏美ちゃんが持っているほうがいいだろう」
ナッチはどうしてるかと聞かれるかと思ったが、元々口数が多いほうじゃない堅司はそれ以上この話題には触れずに、ちょっとほっとした。
っていうか、石ってそれぞれ匂いが違うのか? 少なくとも俺は、ブラックオニキスにもトルコ石にも匂いを感じたことなんてないぞ。
久しぶりにあう幼馴染みの謎の言動に、俺は首を傾げまくりだ。
「ちょっと、堅司! これ買い込み過ぎよ! こんなにいっぱい食べきれないでしょ」
どういうことなのか聞こうとしたちょうどそのとき、茶の間から真希の声がした。
茶の間に行くと、堅司が買ってきた夕食をテーブルに並べた真希が怒っていた。
テーブルの上には、打ち立ての蕎麦だけじゃなく、酢の物にサラダ、ウナギの白焼きや唐揚げ、煮魚にコロッケやメンチカツ、焼き鳥に酒やジュースに菓子類、フルーツ盛りになぜかまだ料理されていない野菜類まで、多種多様の食材が並べられている。
「俺が買ったんじゃない。勝手に集まったんだ」
堅司の話では、仕事の合間に百合庵へ直接足を運び、引っ越し蕎麦代わりの生蕎麦と天ぷら、それとなにかつまみ代わりになる料理を適当にと、受け取りの時間指定もして注文しておいたのだという。
それで時間きっちりに受け取りに行ったら、注文した以外の品も集まってしまっていたのだとか。
どうやら注文しに行ったときに、奥の個室で近所の商店主達が集まって秋祭りの会議をしていたようだ、先生のところの坊ちゃんが帰ってきたのかと一部の商店主達が大喜びして、あれもこれもと自分のところの商品を持ち込んでくれた結果らしい。
「勝矢って、人気者だったのね」
「いやいや、これは祖父ちゃん祖母ちゃんの人徳だろ?」
百合庵は、かつて書道家だった祖父が書道教室を開いていた場所にある蕎麦屋だ。
商店街の真ん中にあったせいか商家のこども達も数多く通っていたようで、ある一定の年齢以上の商店街の店主達には、祖父のかつての教え子がけっこういる。それに祖母も若い頃は地元の小学校の教師をしていたので、その教え子もかなりいるし、教師を辞めたあとは祖父の助手のようなことをしていたので、書道教室では女先生と呼ばれていたらしい。
そのせいで俺は子供の頃、祖父母の教え子達から、先生のところの坊ちゃん呼ばわりされていた。正確には、《先生のところの坊ちゃんの坊ちゃん》だと思うのだが。中学生の頃に抵抗して、なんとか名前呼びしてもらえるようになったが、しばらく離れている間にまた元に戻ってしまったらしい。アラサーになっての坊ちゃん呼ばわりはさすがに泣ける。ぐすん。
「食べきれない分は、そっちの家で消費してくれよ。さすがにひとり暮らしでこの量は無理」
「だよねぇ」
さすがに主婦だけあって話が早い。真希は今食べられる分だけテーブルの上に残すと、残りは痛まないよう、とりあえず冷蔵庫にしまってから、百合庵の蕎麦を茹でてくれた。
「じゃ、かんぱーい!」
「はいはい、乾杯」
「勝矢、おかえり」
「ただいま」
酒だ酒だとはしゃいで一気のみしている真希を余所に、男ふたりで静かにグラスをぶつけ合う。もちろん堅司のグラスの中身は烏龍茶だ。
真希が率先して動き、俺と堅司がそれに引き摺られて付いていく。子供の頃からずっとこんな感じだ。
「あー、百合庵の蕎麦、やっぱ美味いなぁ」
百合庵の手打ち蕎麦はここら辺では珍しい黒っぽい田舎蕎麦で、蕎麦の香りが特に強い。茹でたては格別だ。蕎麦つゆの味も懐かしく、ちょっとしみじみしてしまう。
「あれ? 百合庵の天ぷら盛りにちくわなんて入ってたっけ?」
「ああ、それ。俺の好物なんだ。わざわざ作ってくれたんだろ」
たぶん祖父母から話を聞いていたのだろう。祖母の死後、ひとり暮らしの食卓が淋しくて百合庵に蕎麦を食べに行くたびに、黙っていてもちくわの天ぷらが出てくるようになった。有り難い話である。
「そっか。落ち着いたら食べに行きなさいよね」
「うん。あそこの鴨南蛮も食べたいしな」
「そういえば、あそこ最近カレー蕎麦も出してるのよ。けっこう評判いいみたい」
「へえ、邪道だっていって絶対作ろうとしなかったのに。これも時代の流れかなぁ」
店主がこだわりを捨てざるを得なかったとしたら気の毒だが、売り上げが上がったのならその甲斐もあったというものだろう。
「そういえば、家の庭と祠の掃除って、おまえらの祖父ちゃん達がやってくれてたんだよな?」
「そうよ。うちのお祖母ちゃんったら、うきうきと四人分のお弁当まで用意してたわ。楽しそうだったわよ」
この家の庭はけっこう広いし、庭の奥には古くからの土地神様の祠もある。
以前は帰省するタイミングで業者を頼んで綺麗にしてもらっていたのが、ここ二年ほどは帰っていなかったので手入れもさぼってしまっていたのだ。
それなのに、戻ってきたとき庭は綺麗に整備され、祠には花まで飾ってあった。
跡取りとしての役割を放棄してしまった俺のフォローをしてくれた爺さん達には頭が上がらない。
「そっか。落ち着いたら、挨拶に行かないとな」
「その前にたぶん押しかけてくるんじゃない? うちのお祖父ちゃん、今日だって俺も行くって言って聞かなかったんだから。ま、幼馴染み会の邪魔するなって断ったけどね」
「さっきからいまいち分からないんだけど、うちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんって、どっちの家のお祖父ちゃんお祖母ちゃんなんだよ」
「あ、そっか。お弁当を作ったのが実家のお祖母ちゃんで、今日着いて来そうになったのが石屋のお祖父ちゃんよ」
「なるほど。美代さんと源爺か」
昔から俺は、真希の祖父母を作爺と美代さん、堅司の祖父母を源爺と克江さんと呼んでいる。
四人は揃ってここの地元民で、幼馴染み同士で自然にくっついたらしい。
そして、すでに故人である百合庵の先代店主とこの四人だけが、なぜか祖父のことを先生ではなく師匠と呼んでいた。師匠と呼んで慕ってくる彼らを、祖父は苦笑しつつも大事な友人だと言っていた。
その縁で、俺もずっと彼らから自分の孫のように可愛がってもらっている。これまた有り難い話である。
お互いの祖父母絡みの思い出話や、堅司と真希のこども達の話に盛り上がった後で、ふと思い出したように堅司が口を開いた。
「夏美ちゃんもそのうち遊びにくるんだろう?」
「え、あー、ナッチとは別れたんだ。……けっこう前に。こっちに戻って来る経緯は真希に詳しく話したから、後で聞いてくれよ」
嫌な話はできれば何度もしたくない。俺は話を早々に打ち切ろうとした。
一方、思いがけない話だったらしく、元々口数が少ない堅司は、俺にどう言葉をかけていいのかわからないようで、口の代わりに手をわきわきさせてひとりで狼狽えている。
「詳しくって言われても、夏美ちゃんのことは詳しく聞いてないんだけど」
「言っただろ。あいつが海外に行く前に別れたって」
「勝矢、短気は駄目だ! 手遅れになるまえに夏美ちゃんに謝ったほうがいい」
「短気なんて起こしてない。……真希も堅司も、俺をそんな短気な人間だと思ってたのか」
なんかショックだ。年寄りに育てられたせいか、行動を起こす前に一度じっくり考える癖がついていて、どちらかというとワンテンポ反応が遅いとぼけた人間だと思われているだろうと予想していたのに。
「そうは思ってないけど……。でもあんた、夏美ちゃんが海外に行くのを止めきれなかったら、逆ギレして自分から別れるって言い出しそうだし」
真希の言葉に、堅司が無言で二度も深く頷きやがった。
ああ、でも、確かに、年単位で海外に行きたいんだけどとナッチに相談されていたら、きっと俺は反対していただろうな。置いていかれて、ひとりになりたくなかったから……。
「……止める間もなかった。ナッチから三日後に海外に行くって宣言があって、それで終わり。三日後には荷造り全部終えて、じゃあねって居なくなった」
「ちょっと待って、喧嘩もしてないの?」
「してないけど」
「それ、別れてないんじゃない?」
「別れたよ。そもそも、海外に行く話の直前にプロポーズも断られてるし」
「プロポーズもしてたんだ……。それは、辛かったねぇ」
「まあな。絶対オッケーもらえると確信してたから、無理って言われた時には、自分の耳がどうにかなったのかと思ったよ」
「プロポーズの返事が、無理?」
「そ。海外に行くからずっと一緒にいるのは無理って」
「……じゃあさ。ずっと一緒じゃなくてもいいなら、無理じゃなかったんじゃないの?」
「え?」
「え? じゃなくて! あなたとは結婚できないって、はっきり言われたわけじゃないんでしょ?」
「え、あ、いや……。それは、言われた」
――ずっとふたり一緒に誕生日を祝うのが無理。あたし、三日後にはオーストリアだから、カッチとは結婚できない。
二年前の記憶を引っ張り出して、ナッチの言葉を再現する。
真希は、酸っぱいものを食べたような顔をした。
「なんでそこで、毎年じゃなくてもいいからって言わなかったのよ」
「言ったところで、引き止められなかったし」
「引き止めなくてもいいでしょ? 戻って来るまで待ってればいいだけだったんだから」
「待つのか……。その発想はなかったな」
ずっと一緒に居ることしか考えていなかった。ひとりになるなんて考えたくもなかったから。
「あー、もう! 喧嘩したわけじゃないんなら、まだ間に合うかもしれないわよ? ねえ、今からでも夏美ちゃんとコンタクト取ってみたら? 向こうに新しい彼氏ができてたら、もう手遅れになっちゃうわよ」
「手遅れもなにも、俺はすでにナッチに捨てられてるんだから、もう拾ったりはしないと思うぞ。それこそ《無理》だ。……ナッチからは別れ際に幸せになってねって言われたし、ナッチ以外の幸せを捜すさ」
「……諦めが早すぎるような気がするんだけど……」
真希の溜め息交じりの声に、堅司が数え切れないほど何度も頷いている。見てるだけで眩暈がしそうだ。
「もう良いんだ。東京でのことは全部終わったんだよ。ナッチも仕事も……。俺は、こっちで一からやりなおすんだから」
前向きだろ? と問いかけたが、二人とも頷いてはくれなかった。
「とりあえずあんたの意志は尊重するけど……。私、たまに夏美ちゃんのインスタグラムにコメントしてるの。止めたほうが良い?」
「俺のことは気にしなくて良い。真希がナッチを気に入ってるんなら、今まで通りのスタンスでつき合ってやってくれよ」
「わかった。それと、一からやりなおす手助けはいる?」
「ん?」
「仕事とかこっちで捜すなら、お祖父ちゃん達に頼めば、いくつか伝手があると思うし。恋人だって、勝矢なら見合いの話はいくらでも紹介できるよ」
「あー、それはどっちも遠慮しとく。焦って飛びついてもろくなことがないって学習したしな」
「まだ二十七歳だし、焦ることもないか」
「まあな。次はヘマしないよう、のんびり頑張るさ」
ヘラヘラと笑いながら、網戸越しに庭を眺めた。
外はすっかり暗くなり、庭の全てを見渡せる日中とは違い、今は部屋からこぼれ出た灯りに照らされたところしか見えない。
まるで、今の俺のようだ。
そう、ふと思った後で、ちょっと詩的な表現過ぎるなと照れ臭くもなる。
真希や堅司に言ったら、クサいことを考えるのねと笑われるだろう。笑われるのは嫌だから話さない。
格好をつけることもできず、かといって三枚目にもなりきれない。
中途半端で、どうにも収まりが悪い。
それが俺だ。
ナッチにはもう捨てられたんだから終わったんだと言い切りながら、ナッチとの楽しかった思い出を捨てることができずにいる。
もしかしたらよりを戻せるかもなんて考えられない。
もしかしたらよりを戻せないかもしれないから……。
一度手に入れた幸せを無くしてしまったから、また失うのが怖い。
手に入れられるかもしれないと、期待するのが怖い。
そもそも俺は、手に入れたいと思うのが怖いのかもしれない。
――八方ふさがりだな。
それでも、灯りさえあれば暗闇の中、見えるものもある。
ここでなら、立ち止まっていても、手を差し伸べてくれる人達がいる。
だからとりあえず、ここでまたしっかり根を張って生活できるようになろう。
今はそれしか考えられなかった。