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男は忘れものを届けに行く 下

 ナッチの部屋はガランとしていた。


 八畳ワンルームで、大きなクローゼットもあってかなりお洒落な雰囲気の部屋なのに、最低限の家具しかなくて驚かされた。


「引っ越してきたばかりだし、物があると散らかるから」


 えへへとナッチが笑う。


 物を増やさないことが、掃除が苦手な彼女が辿り突いた究極の掃除法なのか?

 でもナッチは、手作りの小物で部屋を飾るのが好きだった。

 我慢してるのか、それともすぐにまた引っ越しをする予定があるのか……。

 小心者の俺には聞けなかった。


 その後、買い物してきた食材を使い、狭いキッチンにふたり並んで料理を作った。

 もちろん作るのは俺で、ナッチはスマホで撮影したり、メモを取ったりして記録を頑張っていた。


「いつでも食べられるように、カッチの味を覚えたいんだ」


 そうかそうか。頑張れよ。

 馴れない包丁で手を切らないようにな。


 俺の肉じゃがは醤油と砂糖と酒だけで味付けする超シンプルなものだ。

 水も使わず、野菜から出た水分だけで蓋をしたままじっくり煮込むと、野菜の甘みが増し、じゃがいももほっくほくになって美味しい。

 肉じゃがだけじゃつまらない。美味しそうなエビが売られていたのでブロッコリーと炒めた。タマネギと水菜と鯛の刺身で和風のサラダも作ってみた。そして、主食はクロワッサンだ。

 今日は朝からずっとなんかちぐはぐなメニューばっかだな。


「こんな短時間でぱぱっと作れちゃうなんて、カッチはやっぱり凄いね!」


 そうだろう、そうだろう。

 調理器具がもっと充実していたら、もう少し早く作れたんだけどな。


 ナッチの家の調理器具は、明らかに新品状態で殆ど使われていなかった。

 ずっと外食とコンビニなんだろう。

 体調面が少し心配だ。


 もちろん食器の類いも最小限しかなく、由緒正しい雷文模様のラーメン丼に肉じゃがを盛りつけながら、ふたりでミスマッチだと笑った。


 料理が並んだ小さなテーブルに座ると、ナッチが冷蔵庫から白ワインを出してきた。


「これ、オーストリア土産なの。カッチ、赤より白のほうが好きでしょ? すっごく美味しかったから、カッチと一緒に飲めて嬉しい」


 俺も嬉しいよ。

 ナッチとこうしてまた食卓を囲めるなんて思ってなかったから……。


 不揃いなグラスで乾杯して、ふたりで料理をつまみながら色んな話をした。

 ナッチのオーストリアでの体験や失敗談、そして俺の仕事の変遷に纏わるあれこれも……。


 どうやらナッチは真希と頻繁にメールのやり取りをしていたらしく、俺がサラリーマンを辞めて新しく会社を立ち上げることになった経緯まで知っていた。

 真希なりに気を遣ってくれたのか、京香の美人局に引っかかりかけた話はうまい具合に誤魔化してくれていたようで、ちょっと……いや、物凄くほっとした。

 帰ったら、真希にお礼のケーキでも焼いてやろう。


 おおむね穏やかに会話は続き、酒の助けもあって楽しく時間が過ぎていく。

 あっという間に時計の針は動き、無情にも十一時になってしまった。


 いくらなんでも恋人関係にない女性の部屋にこれ以上留まるのは駄目だろう。

 そろそろ帰るよと告げると、ナッチが送ると言う。


「帰りはどうするんだ? 夜の女の一人歩きは駄目だぞ」

「カッチは相変わらずだねぇ」


 まあな、祖母ちゃんという最強の女性から、女は大切にするもんだと、子供の頃から躾けられてきたからな。

 

 俺との別れを惜しんでくれているのだろう。

 ナッチが、くしゃっと泣き笑いの顔になる。

 俺は、その顔に勇気づけられた。


「明日、ちょっとアトリエにお邪魔してもいいか?」

「うん、いいよ! 来て来て! 場所わかる?」


 わかりますとも。今日確かめたばっかりだし。

 笑顔になったナッチに俺は頷いた。


「前と同じ棟なんだよな?」

「うん。オーナーにお願いして、あそこにしてもらったんだ。朝からずっといるから。待ってるからね!」

「わかった。じゃ、明日な」


 道路まで送るというナッチを玄関先で押しとどめる。

 ひとりで道路に出た俺は、ホテルへの道を辿りながら、よしっとひとりで拳を握っていた。


 無事、明日の約束を取り付けることができた。

 一晩掛けて気力を溜めて、明日こそナッチに指輪を渡そう。


 身につけたボディバックに入れてある指輪の箱をぽんぽんと叩いて確かめながら、どうやってこれを渡そうかとシミュレーションする。

 さりげなく、自然に、ナッチの負担にならないように……。


 夜になっても蒸し暑い街を、あれこれ考えながらひとりで歩いていると、二次会にでも向かうのか、既に出来上がっている大学生らしき集団とすれ違った。

 俺達もあんな時代があったんだよなと、つい懐かしく見送ってから、いかんいかんと再び明日のシミュレーションに取りかかる。


 ナッチがどんな反応をするかわからないから、どんな反応でも大丈夫なようにパターン化して考えていく。


 伝えなければ、伝わらない。

 そう、だからうまく伝える為にも下準備は必要だ。

 伝わらなかったら、気力を振り絞ってここまできたこと全てが無駄になる……。





 ……って、あれ?

 俺が伝えたいことって、なんだった?


 ナッチを今も愛している。

 ただ、それだけだったはずだ。


 その言葉を伝える為になんの下準備がいる?

 俺がやっているのは、少しでも好感度を上げる言葉の選択と、少しでも自分の傷を少なくする逃げ道の模索なんじゃないのか?


 いつの間にか俺は欲張りになっていた。

 伝えたいだけじゃなく、気持ちを返して欲しいと思ってしまっていたようだ。


 これって、あの薬師が若様に直接想いを伝えずに、心の中だけで将来の夢をあれこれ考えていたのと似てないか?

 まあ、生死はかかってないから、あそこまで切羽詰まってないけどさ。


 それでも、こうしてすぐ近くにいるのに、想いを伝えないままで離れてしまうなんて駄目だろう。

 俺はここに、ただナッチに想いを伝える為だけにきたんだから……。


 Simple is bestだ。

 欲張るのは止めよう。


 俺は回れ右して、道を戻った。

 今のこの気力が萎えないよう、ずんずん進む。

 楽しげによろよろ歩いている大学生の集団をあっという間に追い越して、さらにずんずん進むと、前からナッチがこっちに向かってまっすぐ走ってくるのが見えた。


「カッチ、よかった。やっぱり、送ってくよ」


 ナッチがとても嬉しそうに笑う。

 額の汗をぬぐいもせず、俺をまっすぐに見上げて……。


 そうだった。

 ナッチはこういう女だった。

 自分の心の赴くままに、ただまっすぐに進んでいく。

 そういう女だった。


 だから、今こうして追いかけてきてくれた行為こそが、なっちの想いそのものだ。


 俺はボディバックから指輪の箱を取りだした。


「これを受け取ってくれないか?」

「これ……あの日の?」


 すんなり受け取ってくれたナッチは、指輪の箱を両手で包んだまま俺をまっすぐ見上げている。


「そう。これはあの日からずっとナッチのものだから」


 ナッチの為に選んだものだ。

 プロポーズが失敗して受け取ってもらえずに宙ぶらりんになってしまっていたが、それでもこれはナッチに一度でもいいから受け取って欲しかった。


「俺もだ。俺もあの日からずっとナッチのものだ。――ナッチ、愛してる」


 へたれな俺は、ナッチのまっすぐな視線に励まされるように、胸の中で何度も繰り返してきた言葉を一気に吐き出した。


「あたしも! あたしも愛してるっ!!」


 やった!

 大さん、やったぞっ!!

 大勝利だ!

 

 ほっとして、一瞬頭が真っ白になった俺に、ナッチがぎゅっと抱きついてくる。

 俺もナッチを抱き締めかえした。


 久しぶりのナッチの身体は、やっぱり少し以前より細くなっていた。

 これからいっぱい食べさせて、もっとふっくらさせてやらないとな。


 なんてことを考えていた俺の耳に、おおーっという声とパチパチというまばらな拍手の音が聞こえてきた。

 さっきの大学生の集団が俺達を見て、にやにやと拍手をしてくれている。


「おっさん、よかったな!」

「生プロポーズはじめて見た。すげー」


 なにが凄いのかわからないが、とりあえず祝福ありがとう。

 でも俺は、おっさんじゃない。

 アラサーだけど、まだ二十代だ。


 それとそこの、ずっとスマホを掲げたままだがムービー撮ってるだろ?

 ネットに上げたら訴えるからな。


「えー、いいじゃんか。ケチ」


 ケチじゃない。

 万が一上げるとしても、顔にモザイクは掛けろよ。

 ナッチの顔をネットに上げたら承知しないからな。


 はしゃいでいる酔っぱらい集団の祝福をかいくぐり、俺はナッチの顔を胸に貼り付けたままナッチの部屋へと急いで戻ることにした。




「カッチ、ごめんね。……ホントにごめんね」


 笑顔一転、なぜかナッチは急に泣き出して、さっきから俺のシャツを涙と汗で濡らしているのだ。


 なんで謝るんだ?

 さっきのプロポーズ、成功したんじゃなかったのか?


 訳がわからず、俺は混乱しまくりだ。

 ナッチの泣き顔を他人には見せたくないから、この場ですぐに問いただすこともできないし……。


 なにがどうなってるんだ?

 助けて、大さん!


 心の中で大さんに救いを求めると、大さんがどこかで、ふうっと溜め息をついたような気がした。


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