男は忘れものを届けに行く 上
「なー」
起きたら、大さんのドアップが目の前にあった。
「おはよう、大さん。――祖父ちゃんに会わせてくれて、ありがとな」
お礼を言うと、大さんは嬉しそうにふっさふさのしましま尻尾をばっさばっさと振りながら、べろべろと何度も俺の顔を舐めた。
う~ん、今日は犬っぽい。
「おおっ、この感触、久しぶりだ」
子供の頃はよくべろべろ舐められていたもんだ。
――べろべろ舐めるんじゃ無いよ! うちの孫が減ったらどうしてくれるのさ!
祖母ちゃんにそう一喝されて以来、ひと舐めする程度に抑えてくれて、べろべろとは舐めなくなったけど。
……きっと大さんも、祖母ちゃんが怖かったんだな。
っていうか、祖母は、大さんの正体を知った上で、平気で怒っていたんだよな。
性根が据わっているというか、肝が太いというか……。
祖父は、祖母のそういう処も気に入ってたんだろうか。
ちなみに祖母は、思わず『姐さん!』と呼びたくなるほどに言葉の荒い人だった。
ただし、祖父に対してだけはなぜか非常に丁寧な言葉を使っていたものだ。
子供の頃は祖父に対するその口調が他人行儀にも思えたが、祖父は特別扱いされているようでむしろ嬉しいと言っていた。
よくわからんが、あれも一種のツンデレだったのか?
いやデレたところは見たことがないから、ツンツン?
まあ、祖父母の夫婦間のことはどうでもいいか。
下手に突っ込むと、死んだ後で祖母から鉄拳制裁をくらいそうだ。
「さてっと……」
起き上がった俺は、布団の上で胡座をかいた。
大さんの頭を撫でて、ふかふかの手触りを楽しみつつ、昨夜の夢を反芻する。
凄い情報量でまだ少々混乱しているが、要点だけはしっかり覚えている。
「伝えなければ、伝わらない……か」
確かに、伝える努力もせずに、こちらの気持ちをわかってくれているはずだと思うのは傲慢だ。
結果はどうあれ、伝える努力ぐらいはするべきだろう。
「大さんも頑張って伝えてくれたんだもんな」
俺が『助けて、大さん』と口癖のように助けを求め続けたから、大さんはなんとかして俺を助けようと行動に移してくれていた。
その結果が、大さんが連れてきた見えないお客さんと、祖父の夢渡りだ。
「大さん、ありがとうな。お陰で、やっと動き出せそうだよ」
そう、今だ。
祖父と大さんが背中を押してくれた今動かなければ、臆病な俺はきっともう怖じ気づいて動けない。
くりくりと、祖父がやっていたように大さんの喉を撫でた後で、俺はスマホに手を伸ばした。
依頼していたナッチへのプレゼントである絵皿がいつ届くのか、確認しようと思ったのだ。
が、止めた。
「そうじゃないよなぁ」
うん、そうじゃない。
それじゃ駄目だ。
ナッチに渡すべきものは、それじゃない。
俺は緊張感から少し震える指でスマホを操作して、ナッチの情報を検索して、彼女のインスタグラムを見た。
そこには、新作の制作状況を伝える写真が載っていた。
「まだここを使ってたのか……」
写真のバックに映っている建物には見覚えがある。
ナッチが学生時代からずっと使い続けているレンタルアトリエだ。
あまり面積は広くなかったが、複数年まとめて契約ができるから楽で良いと、面倒くさがり屋のナッチが好んで使っていた場所だった。
ここなら、俺もよく知っている。
「よし、決めた! ――大さん、とりあえず朝ご飯食べような。今日は大さんの好きな甘い卵焼きをたくさん焼いてやるぞ」
「なー」
大さんが嬉しそうにしましま尻尾をばっさばっさと振る。
布団を畳んで押し入れにしまうと、シーツ等を服と共に洗濯機に放り込んだ。
その後、キッチンに行って冷蔵庫の中身を確認する。
「これとこれは冷凍しとけば良いか……。うん、なんとかなるな」
冷蔵庫に入った夏野菜を全部ザクザク切って、まずラタトゥイユっぽいものを大量に作る。
それから肉豆腐と甘い卵焼き、主食はフランスパンだ。
ちょっとメニューがちぐはぐだが、ここはまあしょうがない。
「じゃあ、いただきます」
「なー」
大さんと一緒に、朝ご飯をしっかり食べてから、洗濯物を縁側に干した。
そして荷造り。これは最近、数日単位の東京への出張がよくあるから、手慣れたものだ。
さくさく小さめのスーツケースに服や小物を詰め込む。
そして最期に、貴重品が入っている家庭用の金庫の前に立った。
祖父母の代から使っている絶対に持ち運びできない大きな金庫を、手順通りに操作しロック解除して重い扉を開ける。
中は棚になっていて、一番下にダイヤル式の鍵がついた引き出しがある。
「いつ見ても厳重な金庫だ」
自分の子孫達が絶対に泥棒被害にあわないようにという祖父の願いが形になったようなものだ。
そのあまりの用心深さにちょっと苦笑が零れるが、やはりここは感謝すべきところだろう。
その金庫の棚の一番上に、俺の目的のものがあった。
プロポーズしたあの日、ナッチに渡し損ねた指輪だ。
濃紺のケースを手に取り、蓋を開ける。
中には記憶通りにダイヤの指輪がきちんと収まっていた。
彫刻家だったナッチの手は、本人が美容関係に頓着しない性格だったのもあって、あまり綺麗じゃなかった。
作業をすれば手が汚れるのは当然だから、普段はネイルも指輪もしていない。
婚約指輪だって、渡したところで身につけてもらえる機会はそうない筈だった。
だから俺は、婚約指輪のデザインは超シンプルなものを選んだ。
ナッチは趣味でアクセサリーの製作もやっていたから、いずれ落ち着いたらこの婚約指輪を普段使いできるアクセサリーにリメイクしてくれたらいいなと、ダイヤはできる限りグレードの高いものにした。
「いま思えば、これを選んでるときが一番幸せだったかも……」
これを渡したらきっとナッチは大喜びして抱きついてキスしてくれるに違いないとか、結婚式は東京と地元と二回やろうとか、結婚したら東京郊外にナッチのアトリエ付きの家を頑張って購入したいなとか、色々妄想して幸せに酔っていた。
ナッチが自分の未来にどんな予定を据えているか、一切考慮に入れずに……。
その結果、プロポーズは見事に失敗。
ナッチに手渡す筈だった指輪は、受け取ってもらえずにテーブルの上に置かれたまま。
全ての荷物をかたづけてナッチが消えた後も、まだそこに置かれていた。
「……俺は自分勝手だった」
「うなー」
指輪を眺めて考え込む俺を、大さんが心配そうに見上げている。
「大丈夫だよ、大さん。ちょっと反省してただけだ。同じ失敗を繰り返さないようにしたいしさ」
その場にしゃがんで、よしよしと大さんの大きな頭を撫でる。
「ちょうど急ぎの仕事もないし、数日留守にするから。ナッチに会って、ちゃんと話してくる」
「なー」
「うん。結果はどうあれ、もう後悔はしないようにする。約束するよ」
「なー」
大さんが嬉しそうにしましま尻尾を振りながら、頭突きする勢いですり寄ってくる。
しゃがみ込んでいた俺は、あっけなくその場に転がった。
……大さん強すぎ。
駅に向かう途中で、堅司の家に寄った。
堅司はもう仕事に出た後で、家事にいそしんでいた真希がエプロン姿で玄関に出てくる。
「これやる」
俺は真希に大きなタッパを二つ渡した。
中身は今朝つくったラタトゥイユもどきと肉豆腐だ。
「急だけど、数日留守にするんだ。食材無駄になると勿体ないからさ。みんなで食ってくれ」
「わあ、ありがと。勝矢の料理美味しいから、家の子達も喜ぶわ」
「あと、鍵も渡しとく。好きに庭で遊んでいいから、気が向いたら縁側に干した洗濯物畳んどいてくれ」
「了解。仕事? どこ行くの?」
「いや、仕事じゃない。……ちょっと気分転換に小旅行」
ここでうっかり本当のことを口にすると、真希からあちこちに情報が漏れかねない。
内緒にしておくに限る。
「……ふうん。お土産忘れないでね」
「はいはい。まんじゅうでも買ってきてやるよ」
「温泉に行くの? だったら、入浴剤も買ってきて」
偉そうにいう真希に適当に頷いてから、最寄り駅に向かった。
そこから電車で移動して、途中で新幹線に乗り換える。
座席に座り、無事出発したところで景気づけに缶ビールを一本。
日中に飲む酒は背徳感からか、やけに美味い。
――勝矢、おまえ、夏美ちゃんにちゃんと愛を告げていたかい?
ビールを飲みながら、昨夜の夢の中で言われた言葉を思い出していた。
愛という言葉なら、数え切れないほど口にした。
――愛だね。
――うん、愛だな。
ことあるごとに、ふたりして同じ言葉を繰り返した。
これでは、もはや合い言葉だ。
少々、軽すぎる。
だからかな。
愛を告げていたかと聞かれて、もちろんと答えることができなかった。
俺は、本当にナッチに愛を伝えていただろうか?
側にいることが当たり前になり過ぎて、甘えていたんじゃないのか?
だからあのプロポーズの時も、ナッチの都合を一切考慮に入れなかったんじゃないか?
せめてプロポーズの前に、ナッチがこの先の人生をどんな風に生きて行くつもりなのか、その目標を聞いておけばよかった。
彼女が芸術家としての道を歩み始めていたのに、俺はそのことを一切考えていなかった。
俺の妻として生きることを選んでくれると、勝手に思い込んでいた。
そんなはずないのに……。
俺が知っているナッチという女は、男にただ従属するような人間じゃない。
我が儘で奔放で、自分の欲求を最優先させる女だった。
だから俺と出会って、俺に惚れてくれた時も、ただひたすらまっすぐに俺にその愛情を向けてくれた。
そして孤独だった俺は、与えられるその愛情を喜喜として飲み干した。
飲み干し続けて、ただ与えられることに満足していた。
――与えられた愛情と同じだけ、愛を返せていたか?
その答えは、ノーだ。
だから、愛を渡したかった。
今さらだと思われるかもしれないが、それでもプロポーズしたあの日から変わらずに、俺の愛はナッチのものだと指輪を渡して伝えたかった。
もう俺の愛はいらないとナッチが言うのなら、そこで潔く諦めよう。
愛を押しつけたいわけじゃない。
ただ、今もナッチを愛しているのだと伝えたいだけだ。
伝えなければ、伝わらないのだから……。
その結果、もういらないとふられたら、大さんに慰めてもらおう。
大さんの前で昔みたいに泣いて、慰めてもらって、もうちょっと頑張ってみると立ち直る。
昔から何度も繰り返してきた儀式みたいなもんだ。
ナッチのように愛せる女性はきっともう見つからない。
それでも別に構わない。
無理に誰かを愛そうとしても無駄だってことは経験済みだしな。
ふられても、こっそりナッチのSNSをチェックして、ひとりで一喜一憂するぐらいは許して欲しい。
あー、いや、女の立場からすると、そういうの鬱陶しいというか、重いというか、キモイのか?
気持ち悪いと思われるのは嫌だから、ナッチ情報は絶対に誰にも気づかれないようにチェックしなくては。
特に、真希には用心しないと。
あいつにバレると、一気に全方向にバレるに違いないから……。
ってか俺、完全にふられることを前提にしているよな。
別れて二年……いや三年か……。
ナッチは、個性的で魅力的な女性だ。
今もひとりでいるだなんて、そんな可能性が低いことはわかりきっている。
だからかな。
未来を期待する気になれない。
なにしに来たのと、ナッチに冷たくされなければいいなと願うばかりだ。
色々考えているうちに、どんどん暗い方向に思考が向いてくる。
なんかもう、帰りたくなってきた。
「……助けて、大さん」
隣の座席に誰も座っていないのをいいことに、俺は、ぼそっと呟いた。