夢の中 4
「『助けて、大さん』と、何度も何度も言っただろう? だから大さんは、どうやったらおまえを助けることが出来るか考えたんだよ。それで、わしをお前の夢の中に夢渡りさせることを考えついたのさ」
「俺の為?」
「そうさな。大さんにとって、お前は特別な存在だからな」
誘われるまま祖父の家で暮らすようになった大さんは、子供達と遊ぶ時と晩酌以外の時間は、たいてい日の当たる縁側か、温かな場所で昼寝ばかりして過ごしていたそうだ。
祖父母が結婚して、俺の父が産まれた後もやはり同じだったという。
「元が巨木だからな。光合成でもしているつもりなのかと思っとったよ」
だが、俺が引き取られてきてから、大さんは変わったのだそうだ。
「おまえがしくしく泣き出すと、おろおろするようになってな」
泣き止むまでぴったり寄り添ったり、俺が泣いてるからなんとかしろと祖父を呼びに来たりと、今まで見せたことのない仕草を見せるようになった。
「全身で悲しいと訴える存在が気になって、可哀想でしょうがないって感じだったな。――こうして大さんの一部になってから知ったことだが、どうやらお前の両親にも頼まれていたようだ」
両親の『心残り』ではなく、旅立つ前の両親の魂が、自分達の代わりに俺を守ってやってくれと大さんに頼んでくれていたのだそうだ。
その成長を側で見守ってきたこともあって、大さんにとっても父は特別な存在だったのだろう。
その父の願いを、大さんはかなえてくれていたのだ。
「少々過保護すぎるんじゃないかと、京子さんに叱られていたがね」
「祖母ちゃん、誰にでも厳しかったからなぁ」
「そこが彼女のいいところなんだよ。……今も大さんは変わらない。お前が悲しまないよう、泣かないよう、そして幸せになるようにと、そればかりを考えているようだ。そのせいで、ほら、あの子供を連れて来たりもしただろう?」
「ああ、大輝くんね。あれはさすがにびっくりしたな」
「わしもだ。大さんは、これまで死んだお人にあんな形で直接関わろうとしたことはなかったからね。ここ最近、おまえが『助けて、大さん』と言い続けてばかりいたから、とにかくなんとかしてやりたくてしょうがなかったらしい」
「俺のせいか……。怖い思いも自業自得だな。まあ、結果的に、大輝くんが解放されてよかったけどさ」
「そうさな」
「それで、なんで大さんは、祖父ちゃんを俺の夢に連れてきたんだろう? まあ、こんな形でも会えて嬉しいけど」
夢とはいえ、二度と会えないと思った人が目の前にいる。
たとえそれが本人の影だとしても、それはやはり嬉しいし幸せなことだ。
「わしにお前を説得……というか、助言でもさせようと考えだんだろうよ」
「助言?」
「そうさな。助けて助けてと何度請われても、こればかりは大さんには手助けできないからな。なにしろ、大さんは言葉を持たないから」
大さんは、人間の心や言葉はある程度なら理解することはできる。
でも、言葉を返すことはできない。
なにせ、巨木で狛犬で猫だから……。
「だから、わしを連れて夢渡りしてきたのさ」
「そのついでに、『入らずの丘』の来歴も教えておこうって?」
「いやいや、そうじゃない。わし等が伝えたかったのは『入らずの丘』の来歴なんかじゃない。むしろ、『入らずの丘』のことは知らせたくはなかったぐらいだ。おまえを怖がらせたくなかったからな」
「美代さん達に伝えるように頼んでたんじゃないの?」
「そうじゃない。大さんの願いを伝えて欲しかっただけだよ。『入らずの丘』に関しては、おまえが怖がるようなら伝えないままで構わないからと言っていたんだ。……あの大学生達がおまえに『入らずの丘』のことを話さなければ、美代ちゃんも大さんは土地神だとでも言って誤魔化していたと思うぞ」
おまえはいまだに怖がりみたいだからなと、祖父が笑う。
はいはい、その通りですよ。
まあ、子供の頃に比べれば全然マシになったけどさ。
「じゃあ、なんであんな夢を見せたんだ? 大さんの正体を教える為とか?」
「それもあるが、それよりはむしろ、あのふたりの悲恋のほうを見せたかったんだよ」
「……あれって、やっぱり悲恋かな」
「悲恋だろう。死して後、共に行くべきところに行けたとしても、やはりその最期は哀れなものだった。お互いへの未練で、ふたり共がこの世に留まってしまうほどにな」
もしも、と祖父は言った。
もしも、あの時、若様が素直に恋心を言葉にしていたら、薬師が若様の提案に頷くことはなくとも、ふたりの想いはあの場で通じ合っていたはずだ。
もしも、あの時、薬師が自分の想いを伝えていたら、絶望した若様が自分の首を切ってくれと薬師に頼むこともなかっただろうし、追い詰められた薬師が刃を手にひとりで飛び出していくこともなかったはずだ。
あそこまで追い詰められた状態で、ふたりが共に救われる未来は期待できない。
だがそれでも、お互いに別々の場所で淋しく死を迎えたりせず、最期の一時を共に過ごすことはできたかもしれない。
これほどの長い間、『入らずの丘』の中ですれ違い続けることなく、行くべき場所に共に旅立つことだってできていたかもしれない。
そうなれば、『入らずの丘』などといういびつな場所が形成されることもなく、その後の『入らずの丘』にまつわる数々の不幸も起きなかっただろう。
大さんが、苦しげに眉をひそめた祖父を心配そうに見上げた。
「なー」
「ああ、大さん。大丈夫だ。すまんな」
ああ、そっか。そうだよなぁ。
俺にとっては昔の話で、どこか他人事だけど、祖父にとっての『入らずの丘』は彼の人生を狂わせ、祖父母と両親を死なせた元凶だ。
あのふたりが解放されて共に旅立ったことを、俺はただよかったと喜べるけど、祖父はそうではないんだろう。
こればっかりはしょうがない。
「言葉で伝えなければ、伝わらないこともあるものだ。それに関しては、わしも経験者でな」
「祖母ちゃんとはラブラブだったじゃないか。……ってか、もしかして、『入らずの丘』で愛を叫んだ相手って、祖母ちゃんじゃなかったのか?」
もしもそうなら、もうひとつ悲恋があったのかと焦ったが、「いやいや、京子さんのことだよ」と、祖父はとぼけた顔でポリポリと指先で頬を掻いた。
「だかな。わしは結局告白できなかったんだよ」
事件の直後に入院した祖父を、祖母はなにくれとなく面倒見てくれたそうだ。
それが嬉しかったから、祖父はその好意にただ甘え、ずるずると面倒を見てもらい続け、ふと気づけば退院した後も家の中のことをあれこれとしてくれるようになっていた。
そしてある日のこと、バッグ一つで押しかけてきた祖母に今日からここで暮らすからと押し切られたそうだ。
「もしかして、それまで恋愛関係じゃなかったとか?」
「まあ、そうさな」
「すげーな、祖母ちゃん」
なんと積極的なことか。
その積極性が、ちょっと羨ましい。
爪の垢を煎じて飲んでもいいぐらいだ。……あ、これ嘘。故人だから言ってみただけ。
「わしは、そんな京子さんに甘えていたんだ。息子が小学校に上がる頃に、そのせいで一悶着あってな」
祖母に甘えていた祖父は、照れくささもあって、特に祖母に好意を告げることなく夫婦になってしまったらしい。
自分が押しかけて無理に結婚してもらったと思い込んでいた祖母は、そのことに徐々に罪悪感を覚えるようになったようで、ある日突然、もしもあなたに本当に好きな人ができたらいつでも離婚に応じますと、祖父にきっぱり言い渡したのだそうだ。
「うう……祖母ちゃん、潔すぎ」
「いやもう、あの時は仰天したよ」
なぜそんなことを言うのかと問い詰め、理由を知って祖父は心底反省した。
そして改めて、自分からプロポーズしなおして、その後は俺も知っているラブラブ夫婦になったそうだ。
「伝えなければ、伝わらない。――勝矢、おまえ、夏美ちゃんにちゃんと愛を告げていたかい?」
「祖父ちゃん、ナッチのことなんで知ってんの?」
唐突にナッチのことを聞かれて、俺は思わず仰け反った。
「そりゃ知ってるさ。わしは大さんとずっと一緒だからな。何年か前にふたりで帰省したことがあっただろう? あの時も、姿を消していた大さんと一緒にこの家に居たぞ」
「ああ、そっか。そういうことかあ」
あのバカップルぶりを見られていたかと思うと、ちょっと恥ずかしい。
が、祖父母が健在だったとしても、きっとその目の前でバカップルをやっていただろうから、今さらか。
「大さんが知っていることは、わしも全て知ってる。……おまえが望んだ別れじゃないってことも知ってる。いまだに未練たらたらだってこともな。このままでいいのかい?」
「……よくない」
「大さんに助けを求めても駄目だぞ。大さんが困るだけだ。死者ならともかく、夏美ちゃんは生きたお人だ。大さんがここに連れてくることはできないんだからな。――お前が自分で動かなければ」
そこはわかってるねと、祖父に聞かれて、俺は頷いた。
わかってる。
わかってるけど、なかなか踏ん切りがつかないんだ。
助けて、大さん、といつものように呟きかけたが、我慢して大さんの頭を撫でた。
「……わかってるんだけどなぁ」
「うなー」
「それもまた『心残り』だな」
祖父は、そんな俺を見て苦笑した。
「わしは『心残り』をずっと否定していてね。『入らずの丘』の不幸の原因は、恨みつらみの『心残り』だったから。自分は絶対に『心残り』を残さないと決めていた。そんな決意を京子さんに話したら、馬鹿なことをと笑い飛ばされたよ」
――愛しているのなら、心を残すのが当たり前でしょうに。
祖母はそう言ったのだそうだ。
残された者だって、先に逝った者を愛おしく思い出すだろう。
先に逝く者だって、残していく者を愛おしく思う心を残して、なにが悪いと……。
「執着や後悔、恨みや憎しみ、そんな負の心残りを残すような人生を送らなければ、それでいいでしょうとそう言われてね。それもそうかと思ったもんさ」
それでも、祖父は心残りを残すつもりはなかったらしい。
だからこそ、残していく俺と祖母が生活に困らないよう、あの手この手を尽くして暮らしの基盤を整え、これで大丈夫だと安心していたのだとか。
だが、そんな祖父を大さんが変えた。
「そろそろお迎えが来るかなと思った頃、大さんにもそれを告げたんだよ。そろそろ、あのふたりの元に旅立つ時が来たようだってね」
だが、大さんは「うなー」と鳴いて、一緒に旅立つのを嫌がった。
どういうことかとあれこれ聞いてみたら、どうやら俺を残しては逝きたくないと思っているのがわかって、それならばと祖父は美代さん達に後を託すことにしたのだそうだ。
「その時に、どうやら無意識のうちに大さんを羨ましいと、わしも大さんと一緒に孫の人生を見守りたいと思ってしまったようでな。気が付いたら、こうして大さんの中に入ってしまっとった。その点、杏子さんは潔かったなぁ」
大さんは、祖母の『心残り』も自分の内に取り込もうとしたらしいが、さっくり拒絶されたそうだ。
自分は自分、大さんは大さん。
そんなところだろうか。実に祖母らしい。
「祖母ちゃんの『心残り』には二度会えた」
「わしも見とったよ。叩かれてたな」
容赦なかったから痛かっただろうと、祖父が笑う。
「いいか、勝矢。迷うなとは言わん。だが、後悔を後悔のままにしておくのは駄目だ。どんな形であれ、ちゃんと決着をつけなくてはな。――人生の終わりに残す心が後悔や執着ではなく、愛情であることを祈っとるよ」
「……うん。あー、……なんとか頑張ってみるよ」
「おやおや、はっきりしないね。これは、もうしばらく悩みが続きそうかな」
ふふふと祖父が笑って、大さんの頭を撫でる。
「まあ、いいさ。それもおまえの人生だ。わし等は、黙って側で見守るよ。――そうそう。おまえの人生が終わる時、あの祠の中の狛犬の根付けを一緒に燃やすのを忘れないようにな」
「……そのままにしちゃ駄目なのか? ずっとここに居て、俺の子孫を見守ってくれればいいじゃないか」
「いや、それは駄目だ。大さんはお前と関わることで、随分と人間くさくなってしまったしな。猫の形を成した上で三代にわたって見守ってきたせいで、我が家に愛情を抱くようになったんだろうが、これ以上の代を重ねるのはお互いの為によくない」
過ぎる愛情は、受ける側の重荷となるし執着も呼ぶ。
ここらが潮時だろうと、祖父は言った。
それに大さんも「なー」と答える。
「そっか……。わかった」
俺が頷くと、祖父はにこにこと笑って目を細めた。
「これからも堅司くんや真希ちゃんと仲良くな。源二や美代ちゃん達のことも気遣ってやってくれ。あいつらも、もういい歳だからな」
「……うん」
ゆっくりと白い靄が満ちてきて、すぐ側にいる祖父の顔が薄れていく。
――どうか、愛情深い人生を。
そんな言葉と共に俺の長い夢は終わった。