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夢の中 1


 夢の中で、俺はなぜか巨木になっていた。


 なんだこれ?

 なんかの願望の表れか?

 なんでよりによって木なんだ?

 これ、たぶん檜……かな?

 自分じゃよくわからん。


 川の側の広場にある立派な木だ。

 その周囲には豊かな農村が広がっていた。


 時代はいつ頃だろう。

 はっきりわからないが、江戸時代かそれより前ぐらいかな。

 人々は粗末な着物を着て、素朴な食事をしている。

 かなり貧しい生活だが、それが当たり前なのだろう。

 皆、普通に満足して暮らしているようだった。




     ◇  ◇  ◇




 巨木は長いこと、その地にあった。


 巨木の下で子供達は遊び、女達は立ち話をして、旅人は雨宿りをする。

 年に一度、巨木を囲んでささやかな村祭りが開かれる。

 その年に産まれた子を祝福し、成人した若者達を祝うのだ。


 巨木は、そんな人々の営みをただ眺めていた。

 たっぷりと温かな日差しを受け、豊かな土壌に恵まれて水にも困ることはない。

 うとうとと微睡むような感覚の中、目の前で繰り広げられる人々の営みをぼんやり眺めるのは幸せな心持ちだった。


 ある夏の日、農村を嵐が襲った。

 巨木が今まで一度も体験したこともないような大嵐だった。

 吹き荒れる雨風に人々は逃げ惑い、作りのしっかりした家に寄り集まって怯えているようだった。


 川も荒れ狂い、水位が上がりはじめる。

 濁流が川岸を削り、やがて川の流れは巨木にまで届き、その根を洗いはじめた。

 ごうと一際強い風が吹き、巨木はゆっくりと倒れていった。



 大嵐が過ぎ去った後、村人達は真っ先に巨木が倒れていることに気づき、深く嘆いた。


 幾世代もの間そこに有り、村を見守るように枝葉を広げていた巨木が大地に倒れ伏している。

 巨木は上流から流れてきた流木をその巨体で押さえ込み、溢れかけた川の水までをも遮っていた。


 その姿は、まるで巨木がその身を犠牲にして農村を守ったかのように村人の目には映った。

 人々は巨木に感謝し、お守りとして木切れを一欠片ずつ神棚に祭るようになった。

 この話を聞いた近隣の人々も、巨木の慈悲にあやかろうと同じように祭った。


 巨木は満足だった。

 もはや人々と共にあることはできなくなったが、その暮らしに寄りそうことはできる。

 小分けにされることでゆうるりと意識は散じ、薄れたが、それでいい。

 人々の暮らしを眺めながら、ゆうるりと散じていこう。








 ある時、薬師の家に辿り着いた木切れが、旅の彫り師の目に留まった。


 彫り師は、そのような謂われのある木ならば良いお守りになるだろうと、薬師の許可をとって木切れを少し切り分けて細工を施した。

 出来上がったのは小さな狛犬の根付けだ。

 そして狛犬は、産まれたばかりの薬師の赤子が丈夫に育つようにと、その手に握らされた。


 その瞬間、散じていた意識が狛犬に集まり、巨木は我を取り戻した。

 そして根付けの狛犬は、薬師の家の子らを見守るようになった。





 それからさらに何度か世代を重ねた後、根付けの狛犬はその薬師の家系に産まれたひとりの青年のものとなっていた。

 青年は、とある藩主の江戸屋敷に、生来病弱な世継ぎの若様の専属の薬師として雇われていた。


 若様はもうじき元服を迎える年齢になっても背が伸びず腕も細いまま、剣術などろくにできないひ弱な身体だった。

 薬師である青年の腕が悪かったわけではない。

 そもそも若様は、男ではなく女の身だったのだ。


 それは、なかなか世継ぎに恵まれず、産まれても女子ばかりだった藩主の苦肉の策だった。


 いずれ世継ぎが産まれたら、若様が死んだことにして郷里に呼び戻し、女子の名と共に新しい人生を与えるという約束になっていたのだ。

 その秘密を知るのは、すでに亡くなった若様の母君と、若様の乳母とおつきの侍と薬師等、十人に満たない人々だった。


 だが、なかなか世継ぎは産まれなかった。

 このまま元服の歳を迎えてしまったらどうしたらいいのかと、不安な日々を過ごしていた中、藩主の側室に男子が産まれたとの知らせが届いた。


 これでやっと若様は解放されて、姫君に戻ることができる。

 秘密を知る人々は喜んだが、それも一時のこと。

 その直後、江戸屋敷が賊に襲われた。


 賊を送り込んだのは、側室の縁者だった。

 若様を亡き者とし、産まれたばかりの側室の赤子を世継ぎにしようと企んだのだ。

 

 それは愚かで、無意味な企みだった。

 このまま黙っていても、側室の赤子は世継ぎとなれるのだから……。


 だが、襲いかかる賊に真実を教えることはできない。

 女子を世継ぎと偽っていたことが知られれば、藩主の咎となるからだ。


 若様の秘密を知る者達は賊と戦ったが多勢に無勢、勝敗は明らかだった。

 とにかく若様を助け、郷里の藩主にこの無意味な諍いを知らせて、事態を収めてもらうしかなかった。

 そして、若様の秘密を知る者達は二手に分かれた。


 若様を守る者、そして郷里に知らせを持って走る者。


 薬師の青年も、若様を守りつつ逃げた。

 執拗に襲い来る追っ手に、供の者はひとり減りふたり減り、やがて若様と薬師だけとなった。


 もうこれ以上は無理だ。もういい。自分を置いておまえだけでも逃げよと言う若様に、薬師は首を横に振った。


 ここまで頑張ったのだから諦めてはいけない。若様の為に散った者達の分もあなたは生きなければ。


 薬師は、そう言って、若様に根付けの狛犬を手渡した。


 これは霊験あらたかな木切れで作られた我が家に代々伝わる品。これを持つ者は、災厄から守られると伝えられています。

 きっとこの狛犬が守ってくれるから、もう少し頑張りましょうと。


 そのような大事なものは受け取れぬと若様は拒んだが、薬師は狛犬を握らせた若様の手をぎゅっと握りしめて開かせないようにした。

 若様は自らの手を包み込む、その手の温もりに涙を零し、心から感謝した。


 その後、ふたりは手を取り合って逃げ続けた。

 追っ手の襲撃が止まない以上、郷里に知らせを持って走った者達は辿り着けなかったのだろうと、救いの手を期待するのは諦めた。

 自力で郷里に辿り着くのは難しいが、藩主と親しい家に助けを求めることならできるかもしれないと、その後は夫婦者に姿を変えて逃げた。


 もとより女子であった若様の娘姿はいい目くらましとなり、ふたりは無事に道を急いだ。

 だが、あともう少しと言うところで、素性が知られ、再び追われることになる。


 降りしきる雨の中、二人は雨宿り出来る場所を捜して小高い丘の上に立つ粗末な木こり小屋に辿り着いた。

 そのとき既に若様は酷く弱り発熱していた。

 移動するのは無理だと判断した薬師は、戦うことを決意する。

 だが、若様はそれを止めた。


 そもそも薬師なのだ。戦う術など持ち合わせていない。

 命を無駄に散らせるよりも、我が身が女であることを明かしてしまおうと若様は言った。


 もう郷里に戻れなくともいい。

 本物の若様が病死し、女とはいえ若様によく似た自分が一時的に替え玉になっていただけだと告げれば、敵も引いてくれるかもしれない。

 そして、その後はふたりでこのまま市井に紛れて夫婦者として暮らして行こうと……。


 若様は、この逃避行の間に薬師に恋をしていた。

 藩主の娘としての贅沢な暮らしより、薬師の妻として生きたいと願うようになっていたのだ。




 だが薬師は、その言葉に頷くことなどできなかった。


 追ってくる敵に若様が偽物で女の身だなどと言えば、幾度となく血を見て荒ぶっている彼らが、女である若様をどのように扱うかなど想像に難くない。

 そのような目に遭ってしまえば、たとえ生き延びたとしても若様の心は壊れてしまうだろう。

 それに、そのようなことを自分が黙って見ていられるわけがない。


 なぜならば、薬師もまた若様に恋をしていたからだ。

 だからこそ、命に替えても守らねばならなかった。

 それに、若様は女子としても虚弱な身体だった。

 貧しい市井の暮らしに耐えられるとは思えない。


 叶うことならば、ふたりで生き延びたかった。

 そして若様を守り抜いた恩賞として、藩主に若様の降嫁を願い出るつもりだった。


 郷里で藩主の庇護の元、夫婦として薬師をして共に生きたい。

 それが薬師の心からの願いだった。




 ふたりの願いは同じだった。

 だが、その思いはすれ違う。




 若様は、頷いてくれない薬師に拒絶されたと思った。


 その途端、張りつめていた心の糸がぷつりと切れた。

 みるみるうちに熱が上がり、若様は弱っていく。

 生きる気力を失ってしまった若様の身体から生命力が消え失せていく。


 そして、新たに願った。

 もうじき自分は死ぬ。

 そうしたら、この首を切り、追っ手に渡すようにと……。


 首だけならば女子であることが知られることはない。

 無駄に抵抗すれば、きっと薬師の命は奪われてしまう。

 だから、どうかこの首を差し出すことで命を購って欲しいと。


 自分の本当の願いは叶わなくとも、せめて薬師だけは生き延びて欲しい、その一心だった。




 薬師は、その願いにも頷かなかった。


 愛する者の首を切ることなどできるわけがないからだ。

 だから、先に逝った者達が残してくれた刃を手に小屋を出た。

 なんとしても、若様を守る。

 その一心だった。



 小屋にひとり残された若様は、あの日、薬師が握らせてくれた根付けの狛犬をぎゅっと握って祈った。



 どうか、あの方をお守りください。

 これ以上無駄に抵抗すれば、あの方まで殺されてしまう。

 誰も傷つけず、誰にも傷つけられないよう、どうかあの方を守ってください。



 そしてそのまま、若様の命の火は消えた。





 小屋を出た薬師は、丘の麓まで辿り着いていた追っ手と対峙していた。


 命に替えても若様を守る。

 いや、たとえ死んでも、愛する女を守る。


 がむしゃらに刃を振り回した。

 だが、荒事に馴れた追っ手にその刃は届かなかった。

 そして、薬師はその命を終えた。


 だが、彼は死んでも、刃を振るい続けた。


 愛する者を守る為、いつまでもいつまでも刃を振るい続けた。

 振るう刃がもうその手に握られてはいないことにも気づかず、その場に立ちふさがった。


 若様の首は誰にも渡さない。

 愛する者の身を、たとえ髪一本たりとて渡すものかと、愛する者がいる丘を守り続けた。





 肉体から解き放たれた若様は、そんな薬師をずっと見ていた。


 もういいのだと叫び、薬師に縋ったが、なぜかその声は届かない。

 死して尚、戦い続ける薬師に、若様は嘆いた。

 声が届かないことを悲しんだ。




 嘆き悲しみ崩れ落ちそうになる魂を、根付けの狛犬の中に留まっていた巨木の意識が受けとめ、壊れないようその内に包み込んだ。


 若様の魂をすくい取った巨木は、その願いをかなえる為にはじめて自分の意志で動いた。

 その身は、長く依り代となっていた狛犬の形になっていた。


 狛犬は、薬師の荒ぶる魂を鎮めようと働きかけたが、若様の声すら届かなかった薬師が応じるわけがない。

 仕方なく、薬師が対峙する者達を守ることにした。


――誰も傷つけず、誰にも傷つけられないよう、どうかあの方を守ってください。


 それが若様の最後の願いだったからだ。



 若様が眠り、薬師が守る丘に人々が入り込むたび、薬師が誰かを傷つけないよう、大地や木々を揺らして丘から追い出した。

 そうこうしているうちに、薬師の周囲には暗くおぞましい闇がたちこめるようになった。

 その闇が人々の魂を損なうことに気づいてからは、丘の周囲に結界を張り、それ以上おぞましい闇が外に広がらないようにもした。


 だが、できるのはそこまでだ。


 薬師の魂を長い悪夢から解き放つことはどうしてもできない。

 月日が過ぎるごとに、丘にたちこめるおぞましい闇はその濃度を増し、狛犬の力と徐々に拮抗していく。


 このままでは、このおぞましい闇が結界を壊してしまう。

 その頃には、我が身もまたこのおぞましい闇の力に負け、薬師の魂から人々を守る力を失うだろう。

 若様の願いをかなえることができなくなってしまう。


 どうしたらいいのかわからないまま、月日は過ぎていく。



 その苦しみは、いつの間にか『入らずの丘』と呼ばれるようになったその地に、三人の子供達が迷い込んでくる日まで続いた。


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