引っ越し蕎麦は懐かしい味 3
俺だって、最初は抵抗したのだ。
だが俺の言い分はすべて佐倉の力に押しつぶされた。だったら、セクハラしていた証拠を出せとあがいたら、なぜか俺の私物のノートパソコンがセクハラ対策室に持ち込まれた。
いつのまにか京香が俺の部屋から持ちだしていたようだ。当然、中身も改ざん済み。京香のあられもない姿を撮影したデータのフォルダがわざとらしくも見つかって、ぐぬぬと言葉を失った。実際には一度も見たことがないってのに……。ぐぬぬ。
セカンドレイプが怖いと京香が言っているから警察沙汰は勘弁して、内々で収めてやるから自主退社しろと会社側から強制された。
俺は常々、取引先とは良好な関係を築いていた。その俺がセクハラをしていたとなると相手に与える衝撃が大きすぎる。社としてもイメージダウンが怖かったのだろう。独立する予定で退社したことにしてやる。退職金は京香への慰謝料にしてやるからと、なぜか恩に着せられた。
「それで大人しく自主退社しちゃったの? この根性なし!」
「いやいや。会社は辞めたけど、この段階ではまだあがいてたから」
下手に抵抗して社内にセクハラの噂が広がってしまったら取り返しがつかない。解き放たれた噂は一気に社外にまで広がって、俺のキャリアを損なうことになるだろう。内々で話が収まっている間に一時撤退して、その後、反撃の糸口を見つけるのだ。
そう考え、会社を辞めてから、改めて京香と会うことにした。
ふたりきりになるような場所で会うのは悪手だろう。精神的に辛いからと俺とほぼ同時に派遣を辞めていた京香を、日中、沢山の客で賑わうファミレスに呼び出した。用件はセクハラ云々ではなく、単純に貸していた金を返してもらうためだ。
「金まで貸してたの? 馬鹿ね。大馬鹿。なんでそう馬鹿なの!?」
「馬鹿馬鹿言うなよ」
祖母に続いて真希からまで馬鹿馬鹿言われるとさすがに凹む。
京香から借金の打診があったのは、俺が彼女との関係に見切りをつけた後だった。借金の理由については、なんかかんか耳障りの良いことを言っていたような気がするが、もう忘れた。
もちろん最初は断るつもりだったのだが、京香の話を聞き流しているうちに気が変わった。金を貸す代わりに、条件を出すことにしたのだ。つまり、金を返すまでは、俺からのプレゼントを期待しないでくれと……。
もうじき誕生日なんだ~と、こういうときだけ甘えてしなだれかかってくる京香がうっとうしかったのもある。
京香は自筆の借用書を自分で準備し、わざわざ白封筒に入れて貸した金と引き換えに渡してきた。その封筒を手に、俺は待ち合わせのファミレスに向かった。
とりあえず金だけは返してくれと言った俺に、京香は小馬鹿にしたような顔をして言ったものだ。
――馬鹿ね。その借用書、ちゃんと確認したの?
あ、俺、京香にも馬鹿って言われてるな。くそ。
慌てて借用書を封筒から取り出して見たら、なんとサインの名前が違っていた。
〈小谷京香〉ではなく〈小合京香〉になっている。小合って、こあい? おごう? なんて読むんだ? 更によくよく見ると、印鑑まで小合になっていた。
名前が違うんだから、その借用書は無効よと京香は勝ち誇ったように言った。
「あー、もう馬鹿馬鹿馬鹿!! なんでそんな単純な手に引っかかるのよ!」
「だから馬鹿馬鹿いうなって。馬鹿が染みついたらどうするんだ。……あのな、その借用書は、俺にとってはむしろ本名を書かれるよりも利用しがいがあるんだよ」
そもそも、当事者同士の意思の合致があるだけで、その手の金銭契約は成立するはずだ。その成立した契約の内容を明らかにするために借用書などを作るわけだから、名前の漢字をちょっと書き間違ったぐらいで借用書が完全に無効になったりはしないだろう。
借用書の日付の前後に、俺の通帳から借用書に記載された金額が引き出されたことと、借用書の筆跡が京香本人のものであることを証明できれば、たぶん京香に借金の返済義務を課すことができると思う。
それだけじゃなく、京香が借金をばっくれようとしたと証明することだってできるだろう。わざわざ用意された〈小合〉の印鑑と書き間違えを装った〈小合京香〉のサインを提示すれば悪意があることは明らかだ。ちゃんと調べてないからはっきりとは言えないが、詐欺罪などで警察沙汰にすることも可能なんじゃないだろうか?
「じゃあ、その女、そのまま警察に連れてったのね?」
「いや、そのまま泳がせといた。もうちょっと証拠を積み上げようと思って」
偽物だと思い込んでいる借用書に勝ち誇って、じゃあね、ばいばいと立ち上がった京香を、俺は騙された風を装って、ぐぬぬっと見送った。
そして、京香の後をこっそり追いかけた。姿が見えるほど近くまで行く必要はない。こっそり彼女のバッグに忍ばせておいた盗聴器の受信範囲内ぎりぎりを付いていけばいいだけだから、けっこう簡単だった。
京香はブランドショップをはしごしてショッピングを楽しんだあと、とあるワインバーに入っていった。盗聴器から聞こえる会話から、友達と待ち合わせていたのだとわかる。俗に言う、女子会だ。
そして俺は、その女子会を盗み聞いたことで、欲しかった情報を殆ど得ることができたのだ。
「……女だけの飲み会って怖いのな」
「……男の品定めしてた?」
「してた。でも、それ以上に足の引っ張り合いって言うか、表と裏の顔の違いとか、あからさまな自慢大会とか……ちょっと人間不信になりそうだ」
久しぶりね~と挨拶した後は、身につけているアクセサリーや服、バッグの自慢大会。その後はつき合っている男の自慢大会だ。類友といえばいいのか、京香の友達はみな彼女と似たり寄ったりな性格らしかった。
俺は、ワインバーと同じビル内にあるカフェで、盗聴電波を録音しつつ男の身からすれば知りたくなかった女の一面をうんざりしながら聞いていた。
京香は、一通り友達の自慢大会を聞き終えた後で、今度は自分がたぶらかした男の自慢大会を始めた。つまりは俺のこと。
ダーリンに頼まれたから、しかたなく気のあるふりをしたら、簡単に引っかかった馬鹿な男。ちょっと気弱そうな顔立ちだけどそれなりに背は高くてスタイルもいいから、腕を組んで歩くのにちょうどよかったんだそうだ。
ダーリンは妻帯者で、京香との不倫の関係を疑われそうだったから、一時的に京香に彼氏役を作って、妻の疑いを反らそうとしていたらしい。引っかけたその男から社会的な地位を奪ったのも、ダーリンからの依頼だ。
ダーリンにとっては、妻の疑惑の目から逃れられるだけじゃなく、以前から眼の上のたんこぶのように思っていた俺を排除できる。京香はダーリンから成功報酬をもらえるし、俺からも金をちょろまかすことができた。ふたりとも、一石二鳥だったわけだ。
得意気に話し続ける京香の声を聞きながら、俺は心底うんざりしてしまった。
「そのダーリンって、もしかして佐倉とかいう男?」
「凄い、よくわかったな」
「あんたと違って馬鹿じゃないからね。その男と、以前から因縁があったの?」
「ないよ。なにもない。ただ、順調にいけば、俺は佐倉のいる部署に自分のチームを引きつれて異動することになっていたと思う。それが我慢ならなかったんじゃないかな」
下から上がってくる者が気になる気持ちはわかるが、佐倉が気にすべきは自分より上にいる者だったはずだ。今だ業界トップの足元にも及ばない身なのだから。
上を目指すじゃなく、下を蹴落とすことを考えた時点で、佐倉はもう企画を考えるアイデアや発想が尽きかけているんだろうと予想できた。やりたいことがあって、その機会が与えられている間は、他のことなんて気にならないものだから。少なくとも俺自身はそうだった。
佐倉の場合、下手にCMが当たって周知されつつあったから、プレッシャーがハンパなかったのかもしれないが……。
「それで美人局みたいな感じってことか……。黒幕もわかったんなら、当然反撃したんでしょ?」
「ん? あーえっと……まだ、してなかったり……」
「なんで! あんた、犯罪者になるところだったのよ!」
それはわかってるし、俺だって正直はらわた煮えまくりだった。
だから、事実を知ったその場では、反撃する気満々だったのだ。そして、ちょっとだけ欲を出した。盗聴器なんていう後ろ暗い方法で得た証拠ではなく、どこに出しても大丈夫な証拠を手に入れてやろうと。
そう考えて、佐倉の情報を得るべく周囲をあれこれ調べてわかったのが、佐倉の妻の妊娠だった。それも、長年の不妊治療が実っての妊娠で、それはもう幸せそうな顔で日々を過ごしていたのだ。
「……奥さんに同情しちゃった? でもさ、その男の浮気、いずれは奥さんにもばれるんじゃない?」
「だろうね。京香以外にも本命の女がいるみたいだし」
これも盗聴器情報だ。
京香が化粧室に行っている間に、京香の友達連中が笑ってそんな話をしていた。本命を他の男に渡すわけないじゃない、京香ってば利用されてるだけなのに気づかないなんて馬鹿よねぇ、と笑う彼女たちの声に、そりゃもううんざりさせられた。
ちなみに盗聴器は、事務用品でよくあるボールペンタイプだったので、こんな貧乏くさいペンいつ紛れ込んだのかしらと気づいた京香にポイされた。証拠隠滅完了、しめしめだ。
「旦那の裏切りを知るのは、今じゃなくてもいいだろう? 妊娠出産って人生にそう何度もあることじゃないし、純粋に幸せな時間を体験させてあげたいじゃないか」
「ごめん。それ、私のせいでしょ? あたしが一石や鈴の妊娠中の話をしたり、産んだときに感動して泣いちゃったとか言ったから、その男の奥さんに同情しちゃったんでしょ」
「真希だけじゃないよ。大学の同期とか、元同僚とかからも色々聞いたし」
「あんた、家族関係の話に弱いもんね。……でも、それでよかったの? 時間が経っちゃったら、もう会社にも復帰できなくなっちゃうんじゃない?」
「だろうな。でも、もういい。ナッチと別れてからは、正直言って仕事にも身が入ってなかったし……。俺も今回の事で色々と考えて、それでこっちに戻って来ることにしたんだ」
俺がなにもしなくとも、京香も佐倉もいずれ痛い目を見ることになるはずだ。
京香は確実にダーリンに捨てられるだろうし、佐倉は仕事の面で勝手に追い込まれていくだろう。浮気だっていずれはばれる。因果応報はあると信じたい。
とはいえ、産まれた赤ちゃんがよちよち歩きできるぐらいにまで成長したら、ちょっと調べてみて、まだばれていないようだったら、こっそりどこかにリークしてやるつもりではあるが。
仕事のほうは、脂っ気というか、やる気が完全に失せてしまっていた。
いつも新しいものに目を向ける好奇心と向上心の固まりだったナッチと離れたせいか、上昇志向がすっぽり抜け落ちてしまっていた。
佐倉を蹴落として自分があいつの居る立場に立とうとも思えない。CM業界の華々しい仕事にまったく魅力を感じていない自分に気づいたときは愕然としたものだ。
隠居するにはまだまだ早いと思うのに、京香達との一件に自分なりの踏ん切りをつけた後は、田舎に帰ってのんびり暮らすことしか考えられなくなっていた。
仕事のことだけじゃなく、色恋に関しても同じで、すっかり脂っ気が抜けてしまっている。もう捨てられるのも、騙されるのもこりごりだ。
気分はすっかり縁側でお茶をすする隠居爺だ。
そんな気持ちを俺は正直に真希に話した。
「枯れるにはまだ早いでしょ」
真希は呆れたように溜め息をつく。
「ねえ。諦めちゃ駄目よ。夏美ちゃんとは縁がなかったんだとしても、またいつかあんたの家族になってくれる人がきっと現れるわ。……勝手にひとりになっちゃわないでね」
「わかってる。だからここに帰って来たんだ。ここなら、待っていてくれる人達がいるし……」
一緒に育った幼馴染みや、俺を孫のように可愛がってくれた祖父母の友人達、家族のように思ってくれる人達がいる。
ここでなら、俺もひとりにならない。
両親を亡くし、祖父母を亡くした俺は、ずっと家族という存在に飢えている。
そのせいで一度、大失敗をやらかしたことがあった。
――好きだ。遠距離になるけど俺とつき合ってくれないかな。結婚前提で。
祖母を亡くしひとりになって半年後、大学進学が決まり上京を目前に控えていた俺は、一世一代の決意を持って、真希に告白してしまったのだ。
真希は、深く溜め息をついて、俺にひとつ質問した。
――真面目に考えて答えて。私と堅司、どっちが好き?
――もちろんどっちも! 比べられるわけないだろ。
――ふーん。じゃあ、あんた、堅司にも告白するつもり? そうしないと不安なんじゃないの?
それとこれとは違うだろうと反論しかけて、やっと真希がなにを言おうとしているのかに気づいた。
確かに真希は好きだけど、それは恋愛の好きじゃない。
ひとり故郷を離れて上京することになって不安だった俺は、人との確かな繋がりを求めていただけ。失った家族の代わりに、恋人とか婚約者とか、そんな言葉でただ強固に真希を縛りつけようとしていたのだと。
――あんたが本気だったら私も真面目に考えるけど、違うよね? 私はあんたの親友で幼馴染みでしょ? 離れてたって、それは変わらない。あんたが帰ってきたら、いつだって昨日別れたばかりだって顔で出迎えてあげる。あんたの居場所はちゃんと空けておくから。勝手にひとりになった気にならないで……。
その日、俺は、いつだって偉そうで強気な真希が泣くのをはじめて見た。
泣かれてはじめて、大切に思ってもらっているのだと身に染みてわかった。
祖父母を失ってもなお、ここには自分の居場所があるのだと実感できた。
上京した後、ナッチと出会うまで、ひとりでなんとかやっていられたのは、帰る場所があると実感できていたお陰だ。
「大丈夫だ。ナッチも仕事も、向こうで手に入れたものは全部無くなったけど、まだへこたれてないよ。のんびりもう一回いちからやり直すつもりだし」
その為に、ここに戻ってきた。
しょっぱなからちょっとつまづいて祖母に叱られたが、まあ、その程度はご愛敬だろう。
「それならいいわ。あんたがおかしなヘマしないよう、ちゃんと私が見張っててあげる」
はじめて俺が自分から告白した女、そしてはじめて俺をふった女が、偉そうに、嬉しそうに笑った。