引っ越し蕎麦は懐かしい味 2
少し前まで俺は、そこそこ大きな広告代理店のデザイン関係の部署で働いていた。
テレビCMや大規模展示会などに携わるような花形部署じゃなく、中小レベルの展示会やイベントなどに携わる弱小部署だ。だが、自分で言うのもなんだかそれなりに評価は高く、クライアントとの関係も良好だったと思う。
主任として同じ部署の後輩達を指導しつつ自らのキャリアも着々と築き上げ、いずれは自分のチームを立ち上げて花形部署への移動もあるのではないかと噂されていた。もちろん俺だってそれを望んでいた。ナッチと別れるまでは……だが。
ナッチと別れた後の俺は、未来への夢も希望も野望も、なにもかもなくして空っぽだった。
それでも、依頼された仕事はこなさなきゃならないから毎日会社には行った。
会社では、今までの仕事の中でインプットされた経験則を利用して、相手が望む要求をただ叶えるように動いていた。ロボットのようなものだ。そこには斬新なアイデアも新しい発想もない。
そんな状態でも仕事はそれなりに上手くいき、そこそこに評価される。
虚しかった。
そんな生活が一年続いた頃、ひとりの女に声をかけられた。
彼女の名は、小谷京香。
会社の総務部で雇っている派遣社員のひとりで、物品管理の担当だった。その関係で以前から顔だけは知っていた。
京香は、以前からずっと俺のことが気になっていたのだと言った。
長くつき合っている恋人が居ることも、その恋人が今は海外で側にいないことも知ってると。そして、彼女と離れている間だけでいいから、自分とつき合ってみてはくれないかと……。
俺は、恋人とはもう別れているが、今は誰ともつき合う気はないと答えた。
だが彼女は諦めなかった。一度だけでいいから食事につき合ってくださいとしつこく誘われ、しかたなく一度だけならと応じたのだが、なぜかうっかり男女の関係にまで発展してしまい、なし崩しでつき合うことになってしまったのだ。
「……あんた、そんなに手が早かったっけ?」
「早くない。多分、一服盛られたんだ」
「サイテーな女。そもそも、その女、遠距離中の恋人に隠れて浮気しようって誘ってるようなもんじゃない。なんでそんな女とつき合ったりすんのよ。お互いに酔った勢いの間違いだったってことにしておけばよかったのに」
「でも、ナッチとも最初はそんなだったんだ」
「え?」
「向こうから告ってきて、酔わされてなし崩しに恋人関係になだれ込んだんだ。だから……今度も、うまくいくかもしれないって、ちょっと思っちゃってさ」
「……で、その女が美人局だったってこと?」
「美人局とはちょっと違うんだけど。まあ、彼女とつき合うことで二重の罠にひっかかっちゃってたんだよなあ」
つき合った期間は半年とけっこう長かったが、顔を合わせる機会は極端に少なかった。
社員とつき合っていることがばれると派遣仲間に苛められるから、派遣が切れる1年後までは内緒にして欲しいと言われて、会社帰りに食事に行ったり近場にショッピングに行ったりなどの、おおっぴらなつき合いができなかったからだ。
その変わり、ねだられるまま週末に少し離れた温泉に一泊旅行に行ったり、個室のあるけっこうお高いレストランに食事に行ったりはしたが。
「それ、たかられてるよね?」
「ああ。俺もそう思った」
「女の色気に惑わされるなんて、これだから男って……」
「いやいや、惑わされてないし」
慌てて否定したが、真希に害虫(黒いアレ)を見るような目で見られた。
「惑わされてるし、騙されてたんでしょ?」
「騙されてたってのは否定しないけど、惑わされてはいなかったぞ。大体、京香とはやることやってないし」
「……一緒に温泉に行ったのよね?」
「まあね。でも、やってない」
つきあい始めた頃、何度か誘ったがその度に女性特有のアレだと言われて、ゴメンねと断られた。
ナッチと長いこと同居していたから、女性のサイクルに関してはよく知っている。その知識のお陰で、けっこう初期に彼女が嘘をついているのだとわかった。
何度かデートして、キスもしたし、旅行先では手を繋いだり腕を組んで歩いたりもした。そんなとき彼女は、いつも周囲をきょろきょろ見渡していた。
最初のうちは、ナッチもそうだったなと切ないながらも懐かしく思ったが、そのうち京香とナッチとの違いが目につくようになってきた。
ナッチはいつもなにか面白いもの目新しいものはないかとキョロキョロして、目当てのものを見つけると、ギラギラした目と笑顔で俺を見上げ、良いもの見つけたと俺の手をぐいぐいひっぱって目標にまっしぐらに突っ走っていった。
だが京香の目線の先にあるのは、道行く人が持つブランド物のバッグや服だったり、ショーウィンドに並ぶ目新しい商品だったり、硝子の反射や鏡に映る自分の姿だったりした。俺のほうを振り返ることはほとんどないし、振り返ったとしても、あの子の服可愛いよね、私にも似合うかなぁとおねだりするようなことを言うばかりだ。
そこに愛は感じられない。
――こんなに気持ちいいのは、やっぱり愛があるからだよね。
懐かしいナッチの声が脳裏に響く。
汗ばんだ肌をぴったりと押しつけあったままそう囁いたナッチに、「だな」と俺も深く頷いた。
愛のない相手と抱き合ったところであの多幸感は得られない。
それに、ナッチとのあの幸せな記憶を、愛のない相手とのおざなりな行為で上書きするような真似はしたくなかった。
そもそも、京香とつき合うきっかけになった最初の一回も、薬で朦朧としてたからはっきりしないが、たぶんやってなかったような気がするのだ。やってたとしても、手で抜かれた程度だろう。
京香には愛はない。それは確かだ。
これから伸びるだろうと会社でも注目されていた俺に、この先発売予定のブランド物のバッグや服と同じような価値を見出して接近してきたのかもしれない。
そんな京香とでは、俺が望む関係にはなれない。
これ以上の深入りは避けたいし、こちらから拒絶することで彼女のプライドを傷つけ、余計な恨みもかいたくない。二回に一回の割合で彼女からのデートの誘いを断り続ければ、いずれ俺なんかよりもっと華々しい新たなターゲットを見つけて去って行くだろう。
そのときの俺は、呑気にそう考えていた。
「温泉や高級レストランに何度も連れてったのに、一度もやってないの? そんなの丸損じゃない!!」
やってたとしたら害虫扱いされ、やってなければ丸損だと叱られる。どっちが正解なんだ。
困惑する俺を見て、真希はコホンとわざとらしい咳払いをした。
「まあいいわ。下手に関係を持ったりしたら、あんたのことだから情に流されちゃうだろうし……。――で、結局、どうなったのよ」
「つき合って半年ぐらい経った頃かな。会社のセクハラ対策室に呼び出された」
「なんで?」
「俺が派遣社員にセクハラしてるって訴えがあったんだってさ」
「派遣社員って……まさか、その京香って女?」
「そう。――俺さあ、言うことを聞かないと派遣会社に嘘の報告を入れるぞって脅して無理矢理関係を迫って、そのときの映像を盾にその後も関係を続けてたらしいよ」
「ちょっ、犯罪者扱いじゃないのそれ!! 薬使って迫ったのは向こうなのに!! 当然、反論したんでしょうね!?」
「したよ。でも無駄だった」
「なんでよ?」
「我が社のトップスター、稼ぎ頭が出てきちゃったからだよ」
テレビCMでぼちぼちヒットを飛ばし、雑誌などにもちらほら取り上げられたことのある会社で一番の有名人、佐倉道重。CMプランナーとしてはまだ若手で、社でもこれから業界のトップに食い込んでいける人材だと特別に目をかけられている。
それなりに評価が高いとはいえ、あくまでも中小企業向けの弱小部署にいる俺と、花形部署の佐倉とでは、最初から勝負にならなかった。
佐倉曰く、以前から京香に相談を受けていた。事が事だけに彼女の名誉のためにも自分からは表沙汰にはできなかったが、今回、彼女自身が勇気を出すことになったので、彼女の後ろ盾として証言をさせてもらう、とのこと。
これで俺の有罪は確定した。
「最初から、勝負にならなかったよ」
「なによそれ! なによそれっ!! 冗談じゃないわっ!!」
もう諦めていた俺は苦笑して肩をすくめる。が、真希は違った。
怒り心頭の表情で、握りしめた拳がブルブルと震え、柔らかな癖毛のショートヘアが風もないのにふわあっと逆立つ。
「ちょっ、真希? 真希さん? 髪の毛が逆立ってるぞ」
「怒ってるんだから仕方ないでしょ! あんたももっと怒りなさいよ!!」
「いや、でも、もう終わったことだし……」
俺の中で、それらはすでに過去の話なのだ。
とりあえず今は、真希のまさに怒髪天をついた髪の毛のほうが気になる。
静電気の一種だろうか? 空気の乾燥する冬場でもないのに、そんなこと有り得るのか?
よくわからない。
わからないが、顔を真っ赤にして、こんなに怒るのは絶対に身体にはよく無い。血管が切れたら大変だ。子供だってまだまだ小さいのに。
「まだ話の続きがあるんだ。落ち着いて、落ち着いて……」
落ち着かせようと、どうどう、と動物にするように両手をかざすと、逆に怒りを買ったようでギッと睨まれた。
だが、逆立っていた髪は、徐々に元に戻ってくる。
「……いいわ。話を聞いてあげる。さっさと話しなさい」
「はいはい」
「はいは一回!」
やっと怒りが静まって、いつも通り偉そうな態度の幼馴染みの姿に俺はなんだかほっとした。