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新しい事務所と楽しい仕事 下

 待ち合わせ場所は、竜也たちの行きつけだという中華料理店。

 庶民派の店で家族連れで賑わっていて、ほっとする雰囲気だった。


「お久しぶりです、カッチせ……勝矢先輩」

「お、おう、久しぶりー」


 たぶん、俺がカッチと呼ばれるのを嫌がると竜也から聞いていたのだろう。あからさまな言い直しは胸に刺さるが、気遣いの気持ちだけは受け取っておくよ。ありがとう。


 先に到着していた香耶ちゃんは、そりゃもう熱心にメニューを眺めていた。

 妊娠後期となり、医者からは体重を増やさないようにと厳重注意をされているらしい。それでも、あれもこれも一口でいいから食べたいのだと俺達に熱心に訴えてくる。


「んじゃ、香耶ちゃんが食べたいもの注文すれば? 残ったのは俺達で食べるし」

「ありがとうございます!」


 その言葉を待ってましたとばかりに店員を呼び寄せた香耶ちゃんが、喜喜として注文を入れる。

 俺と竜也に許されたのはドリンクメニューを選ぶことだけだ。まあ、いいけどね。


 久しぶりに会った香耶ちゃんは、本当に別人のように明るい女性になっていた。

 とは言っても、最後に会ったのは竜也と香耶ちゃんが大学を卒業した直後ぐらいだから、会うこと自体が随分と久しぶりなのだ。

 以前会ったときは、まるで隠れるように竜也にぴったりくっついて俯いていたが、今はまん丸のお腹を堂々と突きだして、ハキハキ店員さんと会話している。

 表情も明るくて、とても元気な妊婦さんだ。

 悲しそうに泣く妊婦さんを見た後だけに、その幸せそうな表情になんだかほっとした。


 俺達は久しぶりの再会と、随分と遅れてしまったが二人の結婚と妊娠を祝して乾杯した。


「来週から産休なんだって?」

「はい。お腹が張ることが多いんで、お医者さんからもう休んだ方が良いって言われたんです」

「そっか。……ところで妊婦さんのお腹が張るってどんな感じなんだ?」


 ガスが貯まったり便秘でお腹がぱんぱんになるのとは違うんだよな? と、かねてよりの疑問を尋ねると、似てるけど違うと笑われた。

 お腹がきゅうっと硬くなったり、突っ張るような違和感があるのだそうだ。……やっぱりよくわからない。


 ともかく、それ自体は妊婦さんにはたまにあることで、少し休むとたいていは治るらしい。これが休んでも治らないときは要注意なのだとか。

 香耶ちゃんは今のところ休めば治るそうだ。よかったよかった。


「産休明けにもう一回雇って貰うために、やる気を見せなきゃならないんだってな」

「あ、違うんです。契約社員としてならすんなり戻れるんですけど、社員になりたいなら産休明けに使える企画を持ってきなさいっていわれてるんです」

「もしかして、チャンスを与えられてる?」

「そういうことになりますね」


 香耶ちゃんは、書店に配るチラシやポップ等を制作する為に契約社員として雇われたそうなのだが、その仕事がないときは社員達のアシスタント的な仕事もしていたらしい。

 社員達の仕事を間近で見て自分もやってみたいと思っていたらしく、このチャンスは絶対にものにすると張り切っていた。


「カッ……勝矢先輩、しばらくこっちにいるんですよね? こっちに居る間に、相談に乗って貰えませんか?」

「香耶ちゃんには謝らなきゃと思ってたし、お詫びがてら俺でよければいくらでも協力するぞ」

「謝るって、なんのことです?」

「あー、ほら、俺の巻き添えで竜也も会社辞めちゃったし、この先どうなるかもわからない仕事に巻き込んじまったしさ」


 夫の収入が不安定になるなんて、妊婦さんにとってはけっこうなストレスなんじゃないかと思うのだ。

 そう言って俺が謝ると、香耶ちゃんに明るく笑い飛ばされた。


「全然平気ですよ。むしろ、もっと早く巻き込んで欲しかったぐらいです。竜也ってば、先輩が急に会社辞めた後、すっごく暗くなっちゃって大変だったんですから」

「……そうなのか?」

「そりゃそうっすよ。俺、先輩と仕事したくってあの会社に入ったんすよ。なのに、ひとりで置いてかれたんすから、暗くもなるっす」

「あー、悪かった」

「いいっすけど。これからがんがん仕事してもらうっすから」

「竜也、いま暇で暇でしょうがないんだもんねー。事務所の掃除ばっかりやってるんですよ」


 香耶ちゃんが笑って言う。

 まあ確かに、作業する人間がひとりだけだし、大量に仕事を取ってきても捌ききれないもんな。


「だったら、おまえもデザインの仕事すりゃいいんじゃないか?」

「はあ?」


 俺の提案に、竜也は不思議そうに首を傾げている。

 なんで不思議がるんだ? 俺の方が、はあ?だよ。


「学生時代の評価は俺よりお前のほうが上だっただろ。自分に向いてる仕事があったら、受けてみたらいいんじゃないか?」


 基本的にちまちまと手書きするのが好きな俺と違って、竜也はデザインソフトを駆使した作品が得意だった。

 特に得意だったのが、幾何学模様を組み合わせたデザインで、スタイリッシュでいながらどことなくレトロな小紋を連想させて、いくつか賞を取ったこともあった。

 学生時代には、テキスタイルとか絶対に向いてるだろうなと思っていたのに、なぜか俺と同じ会社に入って、デザイナーとしての仕事そっちのけで俺のサポートばかりやっていたから、ずっと勿体ないと思っていたのだ。

 俺がそう言うと、竜也は珍しく眉間に皺を寄せてムッとした顔になった。


「それ、本気で言ってるっすか」

「もちろん。俺、お前のデザインけっこう好きだったし。お前の才能、このまま眠らせるの勿体ないって思ってるぞ」

「……先輩がそう言うんなら、別にやってもいいっすけど」


 なぜかムッとした顔のままの竜也を、笑顔の香耶ちゃんが肘でつつく。


「……なんだよ」

「よかったね。勝矢先輩、竜也のデザイン好きだって」

「うるさいなあ。ほっとけ」

「なによ。照れちゃって」


 うりうりと香耶ちゃんの肘が竜也の脇腹にめり込む。

 どうやら喜んで貰えたようなのはけっこうなのだが、目の前でいちゃつかれるのは、独り身の俺にはちょっと辛いかな。くそう。


 いちゃつく若夫婦をシカトして黙々と料理を口に詰め込んでいると、不意に携帯を手に竜也が立ち上がった。

 

「すみません。ちょっと電話が入ったんで外行ってくるっす」

「おう」


 逃げたのかなと後ろ姿を見送る俺に、「勝矢先輩、ありがとうございます」と香耶ちゃんが言った。


「なにが?」

「竜也を認めてくれたことです。竜也、ひねくれ者だからあんな顔してたけど、先輩に認めてもらえてたって知ってすっごく喜んでるんですよ。竜也にとって、先輩は特別ですからね」

「特別……特別ねぇ。……なんであいつが俺を特別扱いするか、香耶ちゃん知ってるか?」

「あら、先輩知らなかったんですか?」


 香耶ちゃんは、なんで知らないの? と言わんばかりの顔をしている。


 知らないのは、俺が臆病で小心者だからだよ。

 重すぎる答えを聞きたくなかったから、知らんぷりしていた。

 でもどんなに重くても、今となっては一緒に会社を立ち上げた運命共同体みたいなものなんだから、もう知るべきなんだろう。

 覚悟を決めた俺は、教えてくれと香耶ちゃんに頼んだ。


「竜也は先輩の作品が大好きなんですよ」


 うん、それは知ってる。


「先輩の作品は、竜也がずっと描きたいと思っていた世界観そのものなんだそうです」


 それは知らなかったな。ってか、俺と竜也の方向性は真逆だと思うんだが。


「そうなんですよね。竜也はね、自分の中にある理想をずっと眺めていることしかできなかったんですって」


 理想とするイメージはあるのに、自分にはどうしても描けない。描こうとすればするほど、真逆の方向に向かってしまう。

 柔らかな曲線を描こうとすれば真円に、まっすぐな線を引こうとすれば剃刀で切ったような鋭さを持った線に。イメージにはどうしても近づけないまま、その周囲をぐるぐると一定の距離を保ったまま回り続けている。


「近づけないのに離れることもできなくて、まるで自分は理想に囚われた衛星みたいだって言ってました」


 そんなときに、竜也は俺の作品を見つけたのだそうだ。

 俺の作品は、竜也の理想そのものだったそうで……。


「先輩の作品を見て、自分は衛星()いいって思えたんだそうです」

「……自分からすすんで添え物になることも無いと思うけど」

「あら、先輩知らないんですか。もし月がなかったら、地球は今とはまったく違う進化をしてたんですよ」


 月という衛星を持たない地球は、大気組成自体が今とは違っていただろう。月の潮力がなければ、地球の自転速度も今よりずっと速く、それに伴い地表には猛烈な強風が吹き荒れていたはず。そんな過酷な環境では、きっと人類だって今のような進化を辿ることもなかっただろうと香耶ちゃんが言う。

 ……なんか壮大な話になってきたぞ。香耶ちゃん、科学好きだったんだな。


 困惑する俺に気づいたのか、香耶ちゃんは軽く咳払いして話題を変えた。


「とにかく、竜也は自分の理想を体現している先輩を勝手にフォローすることに決めて、押しかけ後輩をはじめたんです」

「勝手に、押しかけ後輩?」

「そうです。勝手にです。だって勝矢先輩、重いの苦手でしょう?」

「……うん」


 俺が臆病で小心者なのは、ばればれか。


 知らないうちに俺は、竜也の惑星になってしまっていたらしい。

 どうりで、行く先々についてくるわけだ。


「俺があいつの理想通りじゃなくなったらどうするんだろうな?」

「きっと大丈夫ですよ。今となっては、先輩が理想になっちゃってるんだろうと思うし。勝矢先輩が楽しく仕事してれば、竜也も楽しいんです。winwinの関係ですよ」


 えーそっかなぁ。なんか違うような気がするが。


 でもまあ、確かに竜也のフォローがなかったら、俺はアシスタント的な仕事をこなすだけの平凡なデザイナーとしてしか生きられなかっただろう。

 その場合、佐倉に目をつけられることもなかったんだろうが、プラスマイナスで言ったら絶対にプラスだ。


「なんか最近、しみじみ思うんだけど、俺って周囲の人間に恵まれてるよなぁ」


 ……その分、恋愛運が無いのかもしれないが。


「感謝することばっかりだ」

「奇遇ですね。実は最近私も同じこと考えてました。竜也が側でフォローしてくれなかったら、今も俯いたままで家から出られなかったかもしれないって」


 もう感謝しかないですよと、香耶ちゃんが微笑む。

 ……それは惚気か? 惚気だよな? 俺のとは違うと思う。


 微妙な気分に陥っていると、竜也が戻ってきた。


「電話、けっこう長かったな。もめ事か?」

「違うっす。堅司兄貴と真希姉さんに、今日の会社との話し合いのことを報告しといたっす。あ、佐倉の奥さんの件っすけど、受け入れの準備が済んだら、ご実家の方からご両親が迎えに来るそうっすよ。それと離婚弁護士も、叔父さんの伝手で紹介することが決まったっす」


 よかったっすねーと、竜也が胡散臭く笑う。


 俺の幼馴染みと俺の後輩の仲が良すぎる。

 俺のもめ事だった筈なのに、当事者不在でさくさく物事が進んで行くのはいかがなものか。


 周囲の人間に恵まれすぎて、ちょっと寂しい気分を味わう俺だった。


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