新しい事務所と楽しい仕事 上
とりあえず、今日の話し合いは第一段階だと甲坂さんは言った。
渡した情報を会社側が検討し、独自に調査して、その上で俺への補償の提示や謝罪の場を儲けることになるとか。
そして状況がどう変わるか不明なので、とりあえず向こうの方針が確定するまでは、東京で待機していてもらえないかと頼まれてしまった。
すっかり大さんが恋しくなっていた俺は、全て甲坂さんにおまかせしてもう帰りたかったのだが、竜也に待ったを掛けられた。
「昨夜、堅司兄貴と話し合ったんすけど、とりあえず先輩は一週間はこっちにいたほうがいいっす」
「なんでだよ」
「向こうに佐倉の奥さんがいるからっす。堅司兄貴の話だと、奥さんが安心できる場所に移動できるまで数日かかるみたいなんすよ。赤ちゃんを出産できる状況を整える必要があるっすからね。今の状況で、先輩が彼女と一つ屋根の下で暮らすのは避けた方がいいっすよ」
後になってどんな言いがかりをつけられるかわからないからと竜也に言われて、それもそうかと納得させられた。
それに、さとみさんがあの家にいる限り、大さんは透明猫のままだ。
帰っても大さんにしましま尻尾を振って出迎えてもらえないと思うと、帰りたいと思う気持ちも萎んでしまう。
渋々ながらも俺は滞在を承知した。
◇ ◆ ◇
その後、次の仕事があるのでと甲坂さんは先に帰って行った。
残された俺達は、とりあえず駅のコインロッカーまで荷物を取りに戻り、その後で竜也達が暮らす街の最寄り駅近くのホテルにチェックインした。
今日は、竜也の妻である香耶ちゃんと、彼女の仕事帰りに集合して一緒に夕食を摂る予定だ。
それまでまだ時間があるので、余った時間で我が社の東京の拠点である事務所に向かうことにする。
我が社――社長の自覚があまりないせいか、我が社だなどと言うとちょっと違和感がある。
そんな状態だが、ソーマ企画と命名した会社はそれなりに順調で、途切れることなく仕事が入ってきている。
全て、営業をしてくれている竜也の手腕だ。
竜也に言わせると、これは前の会社での俺の仕事が評価されている証拠だという。
いま入ってきている仕事は、俺の独立に対するご祝儀のようなものらしい。ご祝儀は素直に受け取っておくが、これが一段落ついたら、少し仕事をセーブするつもりだとも言っていた。
会社の方向性をしっかり出して行きたいのだとか……。
「今のままだと、ただの便利屋になっちゃうっすからね」
「別にそれでもいいんじゃないか? 食ってければいいんだからさ」
「それじゃ駄目っす。楽しく仕事するっす」
今だってそれなりに楽しんで仕事してるけどな。
最初から最後までひとりでちまちま作業できるだけでも俺は充分なのだが。
竜也がご祝儀仕事だと言ったように、現在入ってきている仕事はステッカーやチラシ等、ちょっとしたものばかりで利益率も低い。会社自体はじめたばかりだから、完成している商品のほうが少ないぐらいで、もちろん儲かっていない。
焦るつもりはない。俺としては、まず一年仕事を回してみて、どれぐらい稼ぐことができるのか様子を見てみるつもりでいる。万が一、赤字が出たら出たで、そのときは両親が残してくれた資産に頼るつもりだ。
どうせ甘ちゃんでお坊ちゃんだからな。使えるものは使う。
とは言っても、竜也が仕事のコントロールをしている以上、そうまずいことになるとも思えない。
そもそも俺が今、かつてのクライアントからある程度の評価を得ているのだって、竜也の手腕のお陰なのだから。
「ここっすよ」
事務所は綺麗なオフィスビルの五階だった。
ソーマ企画とプレートが貼られたドアを開けて中に入ると、思ったより大きなスペースが広がっていた。
初期投資した機材一式と、来客用の応接セット、そして作業用のライトテーブルと事務用のカウンターデスク。窓は大きく、観葉植物やかつて俺が描いたイラストなどが額縁に入れられてあちこちに飾られ、なんだか妙にお洒落な空間になっている。
「マジか。ここ……家賃いくら?」
「七万っすよ」
「嘘つけ! こんな洒落た事務所、二十万でも借りられないだろう」
「それが借りられるっすよ。このビル、親戚の物件なんで。安く貸してくれるっていうんで甘えたっす。事務用品や応接セットも親戚のお下がりっすよ」
「……いいのか?」
「いいっすよ。そのうち親戚の会社のキャラクターでも描いてくれればそれでチャラっす」
「そんなんで良いならいくらでも描くけど……」
叔父さんが弁護士で、オフィスビル持ってる親戚もいるとなると、こいつ、実は俺よりお坊ちゃまなんじゃなかろうか? そのうち、からかってやろう。
「こっちにいる一週間暇っしょ? 見本が戻ってきたものもあるし仕事するっす」
「見本って、なに戻ってきたんだ?」
「ステッカーっすよ」
どれどれと、戻ってきた見本を二人で見て、あーだこーだやってるうちにあっという間に香耶ちゃんとの約束の時間が近づいて来た。
慌てて外にでると、もうすっかり日が暮れていて風が冷たい。
俺はマフラーをグルグル巻きにして、コートのポケットに手を突っ込みブルッと身震いした。
「やっぱ日が暮れると冷えるなぁ。そういや、香耶ちゃんっていま妊娠何ヶ月?」
「八ヶ月っす。お腹おっきいっすよ」
「そっかぁ。確か香耶ちゃん、文房具を作る会社の企画に就職したんだったよな? 普通に産休取れそうか?」
「言ってなかったっすね。あいつ、最初の就職失敗してるんすよ」
香耶ちゃんは、吃音癖があった子供の頃に苛められた後遺症で引っ込み思案で口数の少ない子だった。それが祟って、就職しても周囲と上手くやれず、半年で会社に行けなくなってしまったのだとか。
「じゃ、今は?」
「児童書を作ってる出版社に契約で行ってるっす。大事をとって、来週半ばから産休に入るっすよ。出産後はやる気次第で戻ってもいいって言われてるみたいっす」
「やる気って……なんか難しそうだな」
やる気なんて目に見えるものじゃ無いから判断基準が難しいし、そもそも香耶ちゃんの性格からして、やる気があるとはっきり表明できるとも思えない。
竜也に言わせると、香耶ちゃんは内弁慶なだけで、中身は暑苦しい体育会系らしいけど。
「大丈夫っすよ。やる気満々で毎日元気に仕事してるっすから」
「そうなのか?」
「そうっす。うちの奥さん、いま超熱血っすよ」
最初の就職に失敗した後、香耶ちゃんは軽い対人恐怖症っぽくなり、一年ほど家から出られなくなってしまったらしい。
根っこのところが体育会系の彼女はそんな自分に苛立ち、無理に外に出ようとして具合が悪くなるのを繰り返していたのだとか。
同居をはじめたきっかけは、そんな彼女をサポートする為だったのだと竜也は教えてくれた。
人目の少ない夜にふたりで散歩することからリハビリをはじめて、少しずつひとりでも外に出て行けるようになった。
そして、再び仕事を探し始めたときに、彼女は突然宣言したのだそうだ。
――あたし、今日から女優になる!
外にいる間中、ずっとやる気のある強い女性の役を演じると。
女優になった彼女は、それまで苦手だった面接も強気でこなし、順調に契約社員として働ける場所を手に入れた。
「……確か、香耶ちゃんって内弁慶で、中身は体育会系なんだよな?」
「そうっすよ」
「家の中での自分を外で演じるってことは、一周回って元通りなんじゃないのか?」
「そうなんすよねぇ」
竜也が珍しく、くしゃっと無邪気に笑う。
「あれ、たぶん最初は自覚してなかったんすよ。ずっと女優でいると気を張って疲れるわ~なんて言ってたっすから」
家に帰って疲れてぐったりする日々が続き、ふと彼女は気づいたのだそうだ。
――なんか今のあたし、家のお父さんみたい。
外では立派な人だと言われている父親が、家では疲れてだらしなくぐったりしている。
そんな父親の姿と、今の自分はそっくりだ。
父親もまた、自分と同じようによそ行きの仮面を被って働いていたのかもしれない。
と言うか、多かれ少なかれ、誰だってそうやって気を張って生きているんじゃないのか?
自分は今、普通の人と同じことをしているんじゃないのか?
「その辺りから、家の中と外の境目が徐々に無くなってきたっす。今はいつでも熱血っすよ」
「そっか」
子供の頃、香耶ちゃんはいじめっ子達への恐怖から、社会との接点を手放してしまったのかもしれない。
そのせいで引っ込み思案になり、うまく他人とコミュニケーションを取ることもできなくなっていた。
それを彼女は、自分の力で覆した。
子供の頃に無くしてしまっていた社会との架け橋のようなものを、もう一度自分の力で構築しなおした。
それは、たぶんとても凄いことだ。
「香耶ちゃん、偉いな」
「そうなんすよ」
俺が本気で感心すると、竜也は嬉しそうに頷いた。
「前の香耶しか知らない先輩からすると違和感があるかもしれないっすけど、あれが素なんであんまりびっくりしないでやってくださいっす」
「わかった。まかしとけ」
どこか得意気な竜也に、俺は笑って頷いた。